第十九章 阿修羅(後編)
生か死か!
第十九章 阿修羅(後編)
「白龍!」
阿修羅は白龍に舞うように乗ると、嵐にさらされる砂の沼を駆けていく。
「阿修羅、やめろ! 危ない!」
シッダールタ達が一斉に叫ぶ。だが、白龍は砂嵐も砂の沼もものともしない。まさに飛ぶように走っていく。
「なんて馬だ!」
「まるで翼が生えているようだ」
剣を抜いた阿修羅を乗せて、白龍はあっという間に砂の沼を駆け抜けた。それはまさに翼を広げた天馬のよう。
追い風にも乗り、ものの十数秒で白龍は阿修羅をダイバダ達のところへ運んだ。
「は!」
阿修羅は疾走する白龍から飛び、その勢いのまま敵兵士を叩き切る。それはまさに鬼の所業! 誰一人何が起こっているのかわからない。半目を開けるのがやっとの砂嵐と薄闇に遮られ、コマ送りのように見え隠れする壮絶な阿修羅の戦い。
シッダールタ達はただ茫然と見ているだけだった。時折光る稲光が阿修羅の舞う剣に反射する。
「阿修羅ぁ!」
名前を呼ぶが、吹きすさぶ風に消されてしまう。
残りの兵の数は十人。阿修羅にとっては容赦なく叩きつける砂も小石も何の障害でもないのか。片目を開けるのもままならず、足場も悪い中を右往左往逃げる親衛隊兵士達。雷光の度に浮かぶその姿を捉えると瞬殺する。
ここには味方はいない。目に映るものを全て叩き切る。嵐の時間は短い。留まってはいられない。
たとえ砂に晒されようと、阿修羅の両目が閉じられることはなかった。モノトーンの世界の中、ひたすら狩る!呼吸を守る布は飛ばされないように噛みしめ、獲物を追った。
ダイバダの親衛隊は突然現れた殺人鬼になすすべもなく粉砕されていく。助けての言葉を吐く暇もない。躯は砂地に倒れ、その上をまた砂が覆っていく。
阿修羅は器用に躯の上を足場に次の標的へと飛ぶ。己の本能だけで殺戮しているようでも、そこには全て計算が尽くされていた。
――おまえ! 逃さん!――
阿修羅はダイバダを見つけた。とっさに剣を構えるダイバダ。
「ちくしょう!」
影に向かって必死に振りまわす。だが、あてもなく振られる剣を阿修羅は一瞬で弾き飛ばした。間髪入れずその肩口から斬り捨てる。
「ぎゃああ!」
断末魔の声を上げて、ダイバダはその場に崩れていった。
――まだいる!――
振り向いた先に人影が動く。
「たす……、うわあぁぁ!」
血まみれの両手に、刃が肉を裂く感触が確かに伝わった。最後の一人が砂に埋もれると、空に光が戻ってきた。
あれほど荒れ狂っていた風が止み、空が何事もなかったように晴れ渡る。砂嵐は去った。僅か半時にも満たない嵐の間に、阿修羅は躯の山を築いていた。
暫くして、シッダールタ、リュージュ、ナダの三人は何とか阿修羅の元に辿り着いた。
「阿修羅」
シッダールタが声をかけるが、阿修羅は聞こえないのかぼんやりと立っている。血糊がべっとりと付いた剣は足元に落ちていた。
彼女の周りには、血にまみれた死体がいくつも転がっている。リュージュが数える。一つ、二つ……。
「おい、ダイバダがいないぞ!」
「何?!」
阿修羅が振り向いた。
――!――
三人が三人とも息を飲んだ。別人のようだった。姿かたちは阿修羅だったが、そこにいたのは……。
血走る真っ赤な目と返り血に染まる顔や腕。まだ人斬りの真っ最中のような殺気。
「そんなはずはない。確かに全部斬り殺した」
声までいつもと違う。
「し、しかし」
その殺気に怯んでいる二人を後目に、シッダールタは阿修羅の肩を抱いた。
「よくやった。またおまえに命を助けられたな。ほら、こちらを向いて。拭いてやる」
シッダールタに声をかけられ、阿修羅は我にかえったように顔を上げた。濡れた布で目や顔を拭いてもらうと殺意もやわらぎ、いつもの表情になった。ナダとリュージュは顔を見合わせ胸を撫でおろす。
百戦錬磨の阿修羅にとっても砂嵐の一戦はよほどの集中力が必要だったのだろう。己の持つ全ての力を使って戦った。
「いや、だがダイバダの死体がないのはおかしい。私は確かにあの男を斬り捨てた。死体がないはずはない」
確かにダイバダは斬った。断末魔の声も覚えている。
「竜巻に巻き込まれたのかも?」
ナダが応じる。
砂漠の砂嵐は人や馬も巻き上げる。飛ばされるのも不思議はない。ウロウロと探したがやはり姿がない。四人は危険が去ったものだと安心し始めた。その時だった。
ふいに背中に殺気が起こり、あの世から何者かが現れたような声がした。
「シ……シッダールタ……」
そこには沼から這い出てくるダイバダの姿があった。阿修羅に肩口から斬られ、既に絶命していてもおかしくない深手を負っている。
「ダイバダ……!」
ダイバダは斬られてすぐ沼地の穴に吸い込まれた。だが底なしではなかったのか、もがくうちに憎き男の声を聞いた。
――なんとしても、なんとしても這い出てやる――
まさに執念。ダイバダは声に導かれるよう抜け出る事に成功した。衣服はボロボロ、夥しい出血の後、ふらつく足元。それは墓場から甦った死体に見えた。
「もうおまえは助からん。眠れ」
シッダールタは憐みの声をかける。だがダイバダは泳ぐようにシッダールタに向かってくる。誰もが一刀にできるのに、何故か手が出ない。
「おうっ」
軟らかい砂地に足を取られ、倒れそうになる。シッダールダが思わず手を差し伸べようとした。
「はっ! 危ない! シッダールタ!」
何かに気付いた阿修羅が思い切りシッダールタを突き飛ばす。
「あ!」
ダイバダの爪が阿修羅のむき出しの足に刺さる。体重をかけ、深くぐっさりと。
――しまった……――
一瞬目が合う。ダイバダは阿修羅を見てにやりと笑った。地獄からの使者のように。
「うぎゃあ!」
直後、うめき声とともにダイバダは阿修羅の足元に伏した。リュージュがダイバダを一刀両断した。
「阿修羅!」
シッダールタが駆け寄るが、阿修羅はその場に崩れ落ちた。足には爪痕ばかりか、剥がれた爪が突き刺さっている。
その爪には毒液がびっしりと塗りこまれていた。
「阿修羅、阿修羅! しっかりするんだ。何故私を庇った。おまえが死ぬのは許さないと言っただろう」
シッダールタは阿修羅を膝に抱きかかえ、声をあげる。
リュージュたちは毒をなんとか体外に出そうとしたが、傷口は無数にあるうえ肉に深く入り込んでいる。かすり傷だったマガダ戦のようにはいかなかった。
「シッダールタ……。ダイバダは?」
「死んだよ。もう大丈夫だ。何も心配いらない」
安心したように阿修羅は笑った。
「そうか……」
「さあ、解毒剤だ。ヤーセナの処方だから効くぞ」
阿修羅は促されるまま飲む。
「シッダールタ、もういいんだ。今度ばかりは助からん」
「何を言うか! おまえは死なない! 死なせない!」
シッダールタはもう一度阿修羅の体を自分に寄せる。
「そうだな……。私は死なない」
「ああ、そうだとも」
愛おしそうに阿修羅の頬を撫ぜるシッダールタ。こらえようにもとめどなく涙が流れてくる。
「おまえが生きている限り、死なない。たとえこの身が朽ちようと、おまえが生きている限り死なない」
「阿修羅……、何を言ってる?」
阿修羅は苦しそうに喘ぎながらこう続けた。
「おまえは私を見つけると言った……。どこにいても、何になっても見つけると言った」
息をするのもつらいのか、途切れ途切れになっていく。だがその顔は幸せそうに微笑んでいるように見える。
伝えなければいけない事があった。何があっても、約束して欲しい事がある。阿修羅は懸命に言葉をつなげていく。
「私はさっき鬼のようだったろう? 自分でも、わかった……」
「砂が目に入って、赤くなってただけだ! おまえは鬼なんかじゃない」
シッダールタが必死に訴えるが、阿修羅はかすかに笑っている。
「私は地獄に行くようだ。あいつが言ってたよ。私は人を殺し過ぎたと」
「阿修羅! 何を言うんだ。おまえはずっと私を助けてくれた。地獄ならば私が行く」
「いや……、シッダールタ。そこは私の場所だ。……おまえは、おまえのすべきことをしろ」
――!――
シッダールタは一瞬言葉を失った。あの夢の中で阿修羅が言った……。
「私を迎えに来てくれ。助けに……来てくれ。私は戦うしかできない……から」
阿修羅はもう目が見えないのか、探るように右手を差し出す。シッダールタはその手をしっかりと握り、自分の頬に触らせた。
「もちろんだ。おまえのためならどこにでも行く。助けに行く。だからしっかりしろ!」
「ああ、そうか……。待ってるから……。ずっと……待ってるからな」
心の臓が弱くなっていく。阿修羅の言葉は途切れ途切れになっていった。
「阿修羅……、逝くな。私を残して逝くな」
シッダールタは阿修羅の額に頬に瞳に唇を寄せる。
「ああ……、思い出すな……。おまえに初めて会ったあの日のこと……」
阿修羅はそう言うと、大きく息を吸った。
「私のために……、私のためだけに、道を進め……」
「阿修羅!?」
「愛して……い」
握った右手の力がふっと抜ける。阿修羅の顔が横に振れると、抱いていたシッダールタの腕がずしんと重くなった。
「あ!」
シッダールタは阿修羅を胸に抱きしめる。
あれほど強くしなやかな肢体であったのに、物言わぬ少女の体は細く脆く、そして信じられないほど暖かい。
リュージュとナダはその場に座り込む。もう顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
「阿修羅、目を覚ましてくれ! おまえのためなら何でもするから! 生きていてくれ!」
シッダールタは阿修羅を強く強く抱きしめながら叫び続けた。
激しい眩暈とともに阿修羅との日々がシッダールタの頭を駆け巡る。
二人で世界を征すると誓ったあの日。
疾走する白馬の背に立つ軍神。
何も恐れるものはなかった。夜も更けるのも忘れて求め合ったあの日も。
「阿修羅ぁぁ……」
その嘆きの声は砂漠を走り、幾千里も越えていく。いつ果てることもなく……。
ヒュゥン!
主を失った白龍が短く嘶いた。
阿修羅……。
声がする。阿修羅は目を開ける。
誰だ。
誰でもない私だ。ここがおまえの場所だ。
ここはどこだ?
奈落だ。おまえが殺した何千人もの魂が肉体を求めてさまよっている場所だ。
そうか、私に相応しいな。
この救えぬ魂と戦い続けろ。この奈落はシッダールタの心の闇でもある。
シッダールタの心の闇。
おまえはここでどれほど痛めつけられようと、死ぬことはできん。シッダールタがおまえを救いにくるまで。
あいつは来るだろうか。
おまえが戦っていれば、必ず来るだろう。おまえが信じてさえいれば。
……
阿修羅はゆっくりと奈落に足を踏み入れた。底なしの暗黒の世界へ。たった一人で。
つづく