第十九章 阿修羅(前編)
夜明けとともに、最後の戦いが始まる!
阿修羅、駆ける!
第十九章 阿修羅(前編)
夜明けが近い。
遠くでチラチラしていた炎は消されている。物見岩に集まった阿修羅達は、みな息を殺してその時を待っていた。
「策通りに行けば大丈夫だ」
阿修羅は弓をリュージュに手渡した。
「色の変わった砂に注意しろ。広大なうえにどこに穴があるかわからない。運が悪ければ抜けられない」
黙って頷くリュージュ。今日ばかりはいつもの軽口は出てこない。
阿修羅は空を見上げる。西の空がわずかに光った気がした。
――これは……。これもシッダールタの力か?――
「よし、行くぞ」
阿修羅とシッダールタは馬を駆り、昨夜奴らが夜営をしていた辺りに近づいていく。突然起こった蹄の音に、人影が騒がしく動く様子が見て取れる。
「シッダールタ! これ以上は行くな!」
阿修羅が馬を止める。その声に反応して、シッダールタも馬の手綱を引いた。
――この馬もそんなに脚は遅くない。だが、砂地を走るのにあまり慣れていないようだ――
阿修羅は通りがかりの村で調達した馬に乗っていた。山岳地帯を走るように慣らされた栗毛の馬は、時に砂地に脚を取られた。
――だが、やるしかない――
風が全くない夜明け。男たちが防具を付けるのももどかしく、馬に駆け寄っていく。
「阿修羅!」
「はっ!」
連中が手綱を引いたのを見計らうと、二人は東に向かって走る。
シッダールタの馬は盗賊たちが置いていった馬だ。砂漠慣れして強い。問題なく走っていく。
阿修羅の馬も乗り手のおかげで何とか遅れずについていく。
「シッダールター! 逃げるなぁ!」
ダイバダの怒号が砂を走り追ってくる。思った通り相当数の矢を携えていた。人数はざっと見て十数名。想像していたよりも多かった。
「まだか?!」
シッダールタが風を切りながら叫ぶ。
「あと少しだ! 気を抜くな。追い付かれたらおしまいだ!」
何人かの兵士が馬上で弓を番えようとするが、まだ難しいようだ。ダイバダがそれを見咎めて叫ぶ
「止めろ! 無駄に射るな! 大丈夫だ。必ず追い付く」
ダイバダと共に城を脱出した兵士たちは、ダイバダが幼少のころからの親衛隊だ。ずっと彼の下に仕えている。
今回、自分たちが生き残れたことに感謝はしているが、あの玉座の間の悲惨な光景を忘れることはできなかった。彼らが今ここにいるのは少なからず忠心ではなく、恐怖のほうが勝っていた。
毒液は全てダイバダが持っている。少しでもおかしな態度を取れば、毒殺されるかも。そんな疑念も生まれていた。
また、彼らがダイバダに付き従う理由はもう一つあった。
シッダールタと阿修羅の首を持ち返れば、コーサラのヴィルーダガ王が自分たちを迎えてくれるという御伽噺のような希望だ。
広大な砂漠の湿地帯。一見すればそれは砂漠となんら変わらないのだが、見えない蟻地獄のような穴が無数に空いている。
その一帯の奥、最も深い砂の沼地へと阿修羅はダイバダ達を導く。
彼女はシッダールタを誘導するように穴ではないところを走るが、速度は自然と遅くなる。
ダイバダ達との距離がわずかだが詰まってきた。連中はまだこの一帯の秘密に気付いていないようだ。馬の脚が重くなるのにそろそろ感づいても不思議ではない。
「もうすぐだ、もうすぐ矢が届くところまで来たぞ!」
だが、ダイバダは追うことに必死で、馬の脚のことまで気が回っていないようだった。
リュージュ、ナダ達は用心深く陣を引いていた。所どころ散在している岩の周りは地が堅い。先行してこの地に走っていた彼らは、その岩陰に陣取っていた。
「リュージュ! 弓を引け!」
彼らを見つけた阿修羅が馬上で叫ぶ。リュージュは阿修羅達の後ろを追ってくるダイバダ達親衛隊目掛けて弓を引いた。
――届け!!――
リュージュの弓が引かれたと同時に阿修羅達は味方の陣に駆け込んだ。
「うわあ!」
「ダイバダ王! あそこに敵が!」
先頭の兵士に矢が当たった。続けてナダ達も矢を射るが、届きそうで届かない。
「くそ、やっぱり遠い!」
「リュージュ、隠れろ! 奴らの矢が届く! 大丈夫だ。こちらに矢があることさえわかれば、一定の距離を取れる」
阿修羅の声にリュージュが慌てて身を隠し、次の矢を番えた。
「こそこそ隠れおって、小賢しい奴め! だがもうあきらめろ! これが見えるか?」
馬上でダイバダは毒液の入った鉄瓶をかざす。用意させた桶に毒を入れると、そこに何十本という矢を放り込んだ。
「これが当たればどこに当たろうと、あの世行きだ。シッダールタ、おまえが何食わぬ顔で得ていたもの、ここで全て無にしてやるわ!」
ダイバダは親衛隊の兵士達に命じ、矢を番えさせる。
「おまえたち、あいつらの矢など恐れるに足らぬ。行け! 討ち取れ!」
兵士たちは馬上のまま毒矢を番え、馬を走らせた。
「うわああ!」
が、突然馬が砂地に足を取られ、弓を持った兵士もろとも地に伏した。
「あ、な、なんだこれは!?」
足がとられて抜け出せない。後に続く馬も全く前へ進めなくなった。
「今だ!」
阿修羅は自ら岩場に立ち、砂の沼で慌てふためく兵士たちに向かって弓を引く。
「ぎゃあ!」
その矢は的確に敵を粉砕する。阿修羅は間髪入れず、二の矢、三の矢と射続ける。シッダールタ、リュージュもそれに倣った。
的を射るように正確な矢が兵士たちを一層慌てさせるが、足をとられてなかなか立ち上がれない。しかも手に毒矢を持っているのが返って仇になり動きづらい。
毒矢を放り出し、とにかく這うようにその場から逃げ出そうと足搔く。
「何をやってる!」
「ダイバダ王! 一旦引きましょう。ここは足場が悪い!」
何人かの兵士は矢を射られ、倒れた体を砂の穴に埋めて戻ることは叶わない。ようやくこの地の危険性に気が付いたダイバダは、残った兵と馬を安全そうな場所まで移動させた。
「よし、とにかくここまでは策通りだ」
ナダが上気した声で言う。敵が引いたことで、彼らも岩陰に身をひそめる。
「要はここからだ。阿修羅、矢はまだあるか?」
シッダールタの問いかけに阿修羅は首を振る。
「元々ほとんどなかったんだ。矢はあと数本しかない」
「こちらに矢がないと知ると、奴らは近づいてくるな」
ナダはちらりと阿修羅を見た。
「どうする?」
「策通りだ。大丈夫。そのためにこの場所を選んだ。半数は仕留めたはずだ。残りはそう多くない」
阿修羅はそう言うと、静かに目を閉じた。
奇妙な静けさが砂の沼を包んでいる。緊張感漂う中に、倒れて起きることのできない馬たちの鼻息だけが響く。
「おい、あいつら何故動かん」
痺れを切らしたのはダイバダだ。
「もしかすると矢がないのかもしれません」
「うむ。どうにかしてこの地を行けんか」
砂漠に慣れていないダイバダ達には、どこが底なしでどこが地についているのか区別ができない。
「しかし、足場が悪いと弓も射れません」
「何を言ってる! くそ!」
ダイバダは這いずりながら砂地を進んでみた。鎧の下にはまだ鉄瓶を入れているので邪魔になる。
だが、それもお構いなしに腕をうまく使って進んでいく。その姿は狂気すら感じられた。
「ダイバダ王! おやめ下さい!」
「どうだ、弓は飛んでこんぞ。お前らも進め。どうせ馬は走れん。気を付けていけば行ける。弓が届く場所まで進むんだ!」
「阿修羅! 奴らが動き出した」
リュージュの声にカッと阿修羅は目を開いた。手にした布を首に巻き、唇まで捲り上げる。
――よし! 来い!――
「阿修羅、何をするんだ! よせ!」
シッダールタが止めるのも聞かず、阿修羅は岩場に立ち、矢を番えた。
「阿修羅!」
「私にかまうな! おまえ達は布を濡らせておけ!」
訳のわからない指示が飛ぶ。だがナダはその指示に従って、急いで持ってきた水桶に布を浸した。
岩場に立つ阿修羅の首に巻かれた布が、ふわっと浮いた。
「馬鹿が自分で的になりに来たぞ! さあ、射ろ! 射るんだ!」
匍匐前進にように進んできた兵士は、注意深く起き上がると、自分の足元を確かめ毒矢を番えようとした。
阿修羅はまだ微動だにしない。
だが、その時異変が起こった。
「な、なんだ!」
一陣の突風が大量の砂を運んできた。あっという間に目の前は何も見えなくなる。空は突然扉を閉ざしたような暗黒の雲が覆い、雷光が駆け巡る。
辺りは夜のように暗く、風と砂が吹き荒れる。敵味方なく大量の砂が五体全てに激しく打ち付けてくる。
「砂嵐だ!」「目が、目が見えん!」
あちこちで大きな竜巻が発生し荒れ狂う。弓など射れるはずもない。立っているだけでも体ごと持って行かれそうだ。
毒の入った桶もどこかへ飛ばされていく。
「うわ! 毒液が! 誰か抑えておかんか!」
ダイバダの必死の叫びも砂風にかき消される。
しかも、風向きは渦を巻いているが、シッダールタ達の方から吹いてきている。この場所を選んだわけはここにもあった。
夜明けに見た西の光、それはまさにこの砂嵐の兆候だった。
ナダは水を含んだ布を仲間に渡す。目と口を抑えるが、砂は容赦なく叩きつけてくる。まともに立っていられないほどだ。
――嵐が止んだら、接近戦に持ち込む――
戦士達は砂と風に煽られながら、その時をじっと待った。
――あ……!――
だが、阿修羅はふと捉えた音に反応し、耳を澄ました。
――聞こえる……。聞こえる!――
「ぴゅう!」
阿修羅の口笛が短く響く。風の間に蹄の音がする。
背後から砂嵐を裂くように白い馬が駆けてきた。
つづく