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第十七章 青い花(前編)

忍び寄る悪意。

第十七章 青い花




「シッダールタ殿、何をされてるのですか?」


 我楽はシッダールタが山の麓の泉から水を汲みあげている姿を見咎めた。


「ああ、我楽。いや、運動不足だからな。水運びをしているんだ。阿修羅にはおまえたちに迷惑かけるなと言われているしな」


 笑いながらシッダールタは言う。ここに運び込まれた時から思うと、随分肉もついてきている。近頃では剣を振っている姿も目にしていた。


「此度は本当に世話になった」


 改めてシッダールタは我楽に頭を下げる。


「頭をあげて下さい。私らは阿修羅王に従っているだけです」


 盗賊たちの阿修羅に対する絶大な信頼は、意識が戻ってからの僅かな間でも十分に伝わっていた。カピラ軍でのそれとは少し違う。


 ここでは絶対王者。文字通り、彼らにとって阿修羅は王だった。それはこの、我楽という揺るがぬ忠臣が控えていることも大きいだろう。


 シッダールタは頷くと水桶を馬に乗せ、自らも乗ると我楽に尋ねた。


「我楽、一つ聞きたいことがあるのだが」

「何でしょうか」


 二人馬に揺られながら言葉を交わす。ここに来て、これほど二人が話すのは初めてのことだった。


「我楽たちの隠れ家はここだけか?」


「何故です?」


「我楽、万が一にもないと思うが、私を追ってここへ面倒な奴らが来るかもしれない。もし、他に隠れ家があるのなら、そこに移っていてほしいのだ。暫くの間でいい。私が、ここを出ていけるほど回復するまででいい」


 シッダールタは我楽の目をしっかりと捉えて話す。既に王としての芯の強さが戻ってきているように見える。そこにはもう、床に伏し生死の境をさまよっていたシッダールタはいなかった。


「ここを出ていくのですか?」

「それは。いつまでも世話にはなれない」


 やや躊躇したが、我楽は最も気になっていることを尋ねた。


「阿修羅王は? 一緒に行かれるのですよね?」


 シッダールタは黙った。水桶が重いのか、馬が鼻を鳴らす。不自然な沈黙が流れる。


「わからない」


 シッダールタはため息を吐くように言った。





「ダイバダ王! もうコーサラ軍が城壁前まで攻めてきております!」


 カピラヴァストゥの花の城、カピラ城は陥落寸前であった。ナダを始めとする有数の戦士が抜け、カピラ軍は連戦連敗。


 一方のコーサラ軍は旧マガダの生き残りが連携して、強大化していた。


「ええい、シッダールタの行方はまだわからんのか! 全くどいつもこいつも頼りにならん。裏切者どもはどうなっている!」


「それが、どちらも全く行方知れずでして。キビラ殿が探索しているところです」


 キビラの情報から、シッダールタが出家などせず、阿修羅を追って砂漠へ入ったことだけはわかった。だが、砂漠の盗賊たちは決して隠れ家を明かさない。それを調べるのは至難の業であり、命がけだった。


「だからさっさとモッガラーヤを拷問すれば良かったのに。あの男まで逃がすとは」


 シッダールタの直属部下だったモッガラーヤは既にナダと合流していた。今回は同行せず、カピラヴァストゥのどこかに残っている。


 ダイバダに、いよいよ決断の時が迫っていた。


 逃げるか、籠城するか、降伏するか。降伏は即ち死を意味する。


「ダイバダ王、天の山に行っていたものが帰還しました」


「え?」


 ダイバダは自分が派遣していた親衛隊のことをすっかり忘れていた。


 シッダールタを見つけたら、暗殺も有りだろうと毒花を取りに行かせていた。だが、当のシッダールタが見つからないので用もない。


 ――ふ、自分のために使うかな――


 そう覚悟していたところに、思いも寄らぬ情報が入ってきた。ダイバダはその信じられない吉報に、自分の命とカピラ国が風前の灯であることもどこかへ吹き飛んでしまった。


 ――シッダールタ。見つけたぞ!――


 もう、ダイバダにはカピラ国も玉座もどうでも良くなっていた。半ば幽閉状態でこの城に閉じ込められていた若き日々が思い出される。

 

 謀反を起こしたくとも付き従うものはおらず、スッドーダナ王に媚び、作り笑いをして凌いできた。


 それに引き換え、何もかもに恵まれていた従兄。幼少のころから憎くて仕方なかったあの男を殺す。

それだけが生き抜く望みのように思えてきた。


 ――生き抜いてやる。何としても――


 ダイバダは親衛隊が持ち返った毒花を受け取ると、頭をフル回転させた。


「兵たちが帰還できたということは、脱け出すことも可能よな。薬師を呼べ! すぐにだ!」


 砂漠の向こうでは、阿修羅が隠れ家を目指して駆け続けていた。





「白龍!」


 苦しそうな嘶きを上げて、白龍の足が止まった。ここまで丸一日と半、白龍は己の力の限りを出して駆け抜けてきた。


「すまん! 白龍……」


 阿修羅は飛び降りると白龍に水を飲ませる。この水ももう残り少ない。


 リュージュたちとは随分と前に逸れている。コーサンビ村に着いてから、休みなく往復しているにも関わらず、白龍はどの馬よりも速く走ってきた。


「足は折れてはいないようだな。おまえのことだ。ここで休めばまた走れるようになるだろう」


 しかし白龍の足は既に立っているのがやっとのように小刻みに震えている。ここで身を倒してしまえばおしまいだ。


 阿修羅は白龍の首を撫ぜる。自然と涙が出てくる。


「死なないでくれ。白龍」


 少し向こうに村が見えた。阿修羅はゆっくりと白龍を連れて村を訪れる。持ち合わせの金品は少なかったが、村人はその見事な白馬を見て、快く引き取ってくれた。


「必ず迎えにくるから、預かっていて欲しい。その時はこの3倍の礼はする」

「わかりましただ。でも、七晩待って来なかったら、売りにだしますぜ」


 村人は言う。


「承知した。よろしく頼む」


 阿修羅がその場を立ち去ろうとすると、白龍が悲しそうに嘶いた。阿修羅は振り向いてこう念じる。


 ――大丈夫だ。走れるようになったら、私の所に来い。おまえならできるはずだ――


 その想いが通じたのか、白龍は静かになった。


 阿修羅は代わりの馬をその村で調達し、再び隠れ家に向けてひた走った。





 ダイバダは数人の供を連れ、城を脱出していた。カピラ城は既に開け放たれ、コーサラ・マガダ連合軍となったヴィルーダガ王達がなだれ込んでいる。


「な、なんだこれは!」


 その兵士達が玉座の間で目にしたものは……。


「どういうことだ! ダイバダはどこだ! 探せ!」


 玉座の間には夥しい数の躯が横たわっていた。そばには酒のようなものが入った無数の器が転がっている。


「王、これは毒です。すぐに部屋を退出ください! 息を止めて、触れてはなりません!」


 ヴィルーダガ王を始めとする名だたる武将たちは、玉座を前にして立ち去らなければならなかった。


「ダイバダめ、なんて奴だ! このような悪行見たことがないわ!」


 ダイバダは薬師を集めて、採ってきた青の花全てを使って毒液を作らせた。青の花は花、茎、葉、根に至るすべてに毒を持っている。毒液を作るにはさほど時間はかからなかった。


 そして城にいる兵士から奴隷までを玉座に集めると、労をねぎらう最後の乾杯と称して毒入りの酒を飲ませた。


 あっという間の出来事だった。一口含んだだけで皆苦しみのたうちながら倒れていった。予め言い含められていた側近も目を覆う地獄図だ。もちろん薬師は既に皆殺しにされている。


 地獄図の中には自らの妻子までいた。

 ダイバダはシッダールタが娶らなかった姫の中で、最も美しい王族の娘を娶った。だが、彼女の気持ちは幼い頃からシッダールタにあり、ダイバダを心から愛せなかった。


 それは彼にとって屈辱以外のなにものでもなく、彼女たちに毒をあおらせることに躊躇はなかった。



「城を開門しろ。降伏だ」


 城門が開けられるとすぐにダイバダは、地下の抜け道を急ぐ。それは天の山から兵士たちが辿ってきた抜け道だった。


 死体の山を玉座の間に築いたのは時間稼ぎに他ならない。安全な場所に逃れるために、自分の兵、民を惜しげもなく葬った。


 この行為にはヴィルーダガ王も恐怖した。この躯の中にダイバダ本人がいるのかとも考えたが、数年前に自らが取った策を思い出し、王が生きていることを確信した。


 だがダイバダの思惑どおり、抜け道を発見するのに時間を有し、コーサラ軍は痕跡すら見つけられなかった。



 カピラヴァストゥの惨劇をいち早く耳にしたある男は、抜け道の出口を知っていた。反乱軍の一人、モッガラーヤである。


 惨劇を嘆く時間も惜しみ、その場所へと急いだ。コーサラ・マガダ軍の兵士が辿り着くより数時早く到着している。


 しかし、それでも奴らの姿はそこにはなかった。


「モッガラーヤ様。これを」

 仲間の探索から、数頭の馬が走り去った跡が見つかった。


「ダイバダのやつ、砂漠に向かったな。この期に及んでまだシッダールタ様を殺したいのか」


 天の山に向かったナダ達からはまだ何の連絡もない。モッガラーヤは悩んだ末、号令を出した。


「行くぞ! 流沙を越える!」






つづく


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