第十六章 再会(中編)
シッダールタはみるみるうちに回復した。
彼らにとって、久しぶりにゆっくりとした時間が流れる。
第十六章 再会(中編)
シッダールタの意識が戻って二週間、見る見るうちに彼は復調した。食欲も戻り、近頃では一緒に物見岩にまで出かけるようになっている。やはり十八歳の若さだ。回復が早い。
意識を失っていた頃の艶を失った髪も、今は以前の輝きを取り戻し両肩にたゆたっていた。
「随分顔色も良くなったな」
「そうだな。もう馬にも乗れそうだ」
シッダールタの馬は砂漠で放浪するなか、逃げてしまっていた。無理もない。オアシスの場所すら知らず、砂漠を横断するなど死を意味する行為だ。
「じゃあ、いい馬を盗ってくるか」
軽く阿修羅が言う。
「え? ああ、まあ今はまだいい」
戦場であれば、部下たちが敵のいい馬を横取りするなど日常茶判事のことだった。だが、「盗む」という単語はシッダールタにとって、馴染みのある言葉ではなかったようだ。
阿修羅は思う。
このまま健康を取り戻して元通りのシッダールタになったら、どうしてやればよいのか。まさか盗賊の一味にするわけにもいかない。
かといってまたカピラに戻ることができるのだろうか。その時自分はどうするのか。
シッダールタが帰りたいと言えば、そうすればいい。今や混乱の極みのカピラだ。彼が戻ることで文字通り救われる者は少なくないだろう。
――リュージュたちはどうしているだろう。ナダも。私たちの息のかかった者たちは冷遇されているのではないだろうか――
『コーサラの国王が生きていたらしいです』
我楽が盗賊仲間から聞いてきた情報だった。今まで考えもしなかったことが頭をよぎる。
コーサラ国王が生きていたのであれば、それは大変な失策だ。連中の忠義を欠いた行動に嫌気が差して、半端な判断をしてしまった。
――私らしくもない……。温情を掛けたつもりはなかったのだがな――
だが、阿修羅にはもうあの国に戻る気持ちが薄れていた。もう戻ることはない。そんな根拠のない予感があった。
しかし、それよりも気になることがあった。我楽の得た情報によれば、ダイバダ王はシッダールタを探しているらしい。
その意図は阿修羅にもすぐにわかった。
――あの男の考えそうなことだ。この隠れ家が見つかることはないだろうが――
阿修羅はコーサラ国王が生きていたことを、最近になってシッダールタに話した。彼は、「そうか」 と短く答えただけだった。
それ以上の会話も続かず、ダイバダのことは言わなかった。ヤツがいくら頑張っても、軍をここまで率いることは不可能だ。余計な不安を与えることもない。
だが、勘のいいシッダールタだ。あの執念深い男が自分を探していることも、自らの部下であったモッガラーヤ達が苦渋を舐めていることも予想できただろう。
「生死を彷徨っている間にな。不思議なものを見た」
コーサラ国王の話をする少し前、ようやく食事が喉を通るようになったころだ。ふいにシッダールタが話し始めた。
「まあ、ほとんどおまえの夢ばかりだったんだが」
「やらしいやつだな」
寝床の横で阿修羅は笑う。
「そう言うなよ」
「で、その不思議なものとは?」
「ああ、それはな……」
と、やや上ずった声でシッダールタは語り始めた。
「ある時私は魚のように海を泳いでいた。美しい青の海に、キラキラと太陽の光が微生物を雪のように輝かせていた。そうかと思うと、今度は真っ暗な土のなかで蠢く虫だった。不思議と不愉快でなかった。暖かくて居心地が良かったよ」
自分の体力が戻りつつあるのを楽しむように、手振りを加えて話す。
「その次は鳥だ。大空をそれは気持ちよく飛んだ。眼下には見たこともないような大きな宮殿が見えた。ラージャグリハよりもっともっと大きかった。私はもう、この世にいなくて、何か別の者に転生したのかと思っていたよ」
輪廻転生。いつかシッダールタは阿修羅に言った。
どのようなものになろうと必ず阿修羅を探し当てると。絶対に離れることはないと。
「あれほど苦しかったのに、その『何か』になっているときは、宙に浮いているように気分がよくて、晴れやかだった」
楽になったのは、あの鉱石入りの水を飲ませたからだろう。阿修羅は思ったが黙っていた。
「最後に見たのは、おまえだった」
シッダールタは阿修羅を見た。
「見つけてくれたのか?」
阿修羅は鼻で笑いながらも嬉しかった。
「どうかな」
「え? 違うのか?」
「いや、そうだな。見つけたんだよ」
曖昧な言葉でシッダールタはその場を濁した。
シッダールタが見たのは確かに阿修羅だった。だが、その阿修羅は剣を持ち誰かと戦っていた。
そこはまっ暗闇の底が抜けたような深い空間。阿修羅は物の怪や魑魅魍魎の類と一心不乱に戦っていたのだ。
シッダールタは慌てて加勢しようと阿修羅に駆け寄った。すると阿修羅はこう叫んだ。
『来るな! ここは私の場所だ! おまえはおまえのすべきことをしろ!』
その声にはっとして目が覚めた。
自分の足元には、愛しくて愛しくて追い続けた人が、静かに寝息を立てていた。
つづく