第十五章 アシタ
カピラヴァストゥでは思わぬ事態が明らかになっていた。
一方、阿修羅は急いで隠れ家に戻り……。
第十五章 アシタ
「なんだと? コーサラの王が生きていただと!?」
ずっと手に入れたかった玉座、満足げに座っていたダイバダが血相を変えてそう叫んだ。シッダールタの息のかかった部下は既になく、玉座の周りはダイバダの取り巻きで囲まれている。
ナダもリュージュも今は対反乱軍の最前線で戦う日々だ。
ダイバダが玉座に収まったころから、あちこちで反乱が起きている。彼の王としても資質も大いに問題があったが、何度も被った洪水やそれによる飢饉が人々を荒ませた。
その始末を人任せにしていたダイバダだったが、此度の報告にはさすがにうろたえた。
「あいつの首はシッダールタが獲ったんじゃないのか!」
コーサラ攻略の終盤、雨季のはしり、シッダールタと阿修羅の軍はコーサラの首都を陥落した。そしてコーサラ兵によって切り落とされた王の首を持ち返ったが、その首は実は替え玉の物だった。
要はこうだ。
コーサラ国王ヴィルーダガは城を包囲され既に勝ち目はないと悟ったとき、自身の替え玉の首を刎ねカピラ軍に献上した。自分は降伏した側近に紛れる大胆さ。
ここで皆殺しにされたらそれも仕方ない。下手に城を出たら逆に殺されると考え、一種の賭けにでた。
彼はそしてまんまと賭けに勝った。なんとカピラ軍の副将阿修羅は、身ぐるみ剥いでの追放を命じたのだ。
主だった家臣たちと、文字通り裸で城を放り出されたが、命だけはあった。妻子は殺され、獣のように地べたを這いずる苦渋を舐めてはいたが、辛抱強く生き延び、ここまできた。
それはひとえに無念をはらさんとする復讐心が、彼を生き延びさせた。共に追放された側近は、今や片手で足るほどしかいない。
だがシッダールタが去った後、天変地異の助けもあって、ヴィルーダガは自軍を持てるまでに至った。
「必ずカピラ国を倒す! あのアホの阿修羅やシッダールタがいないのは腹立たしいが、コーサラを取り戻してやる」
あからさまな敵意はカピラ軍、ダイバダ王に向けられた。
「何という失態だ! シッダールタめ! くそ、今すぐ探し出して首刎ねてやるものを!」
ダイバダは地団太を踏んで悔しがった。が、出家を餌にシッダールタを城から追い出したのも自分だ。
「いいだろう。旧シッダールタの部下を集めよ。奴らにヴィルーダカを殲滅させろ! さもなくば全員斬首だ!」
玉座でふんぞり返る日々ももう長くはないかもしれない。ダイバダは馬鹿ではなかった。大号令を出しながら、一人の男を呼んだ。
「何か……」
男は名をキビラと言った。幼少のころからダイバダに仕える親族で彼の信頼は厚かった。
「シッダールタを探せ。あやつ、出家すると城を出てからどこの修行場にも姿を現さん。今まではいない方が好都合だったが、今回ばかりはそうもいかない」
「どうなさるつもりで?」
「ふん、そんなことはおまえが気にすることではない。とにかく居場所を突き止めよ。話はそれからだ」
「はっ。承知致しました」
キビラは一礼すると足早に玉座を去った。
「万死に値する失態だ。シッダールタの首と領土を与えれば、コーサラも黙るだろう」
ダイバダは小賢しい頭をフル回転でめぐらした。
阿修羅は隠れ家に着くや否や自室に駆け込むと、ヤーセナから手渡された薬を取り出した。
――確かこれ……――
それは何か鉱石のようなものだった。
「これを削って飲むといい」
ヤーセナの言葉を思い出す。阿修羅は爪先で削り、舐めてみる。少ししょっぱい。
――岩塩の一種か。これはいいかもしれん!――
阿修羅は慌ててその鉱石を削ると水に溶かし、シッダールタの唇の中に入れ込んだ。
「シッダールタ、これを飲むんだ。飲み込め」
気道に入ってしまうのを恐れて、シッダールタの首を肩から起こす。あんなにがっしりしていたのに痩せて軽い。匙に乗せて飲ませようとするが、うまく入っていかない。
――どうしたらいいんだ――
シッダールタの唇をなぞる。水で浸してもすぐ乾いてしまう。
ふと思い立って、阿修羅は鉱石を溶かした水を自らの口に含んだ。
――飲んでくれ――
両腕でシッダールタのあごと首を抱えると指で口を開ける。阿修羅は唇を寄せるとそのまま含んだ液体を注ぎ込む。舌をうまく使って気道に入らないよう流し込んでいく。
傍から見たら、濃厚なキスシーンにしか見えないだろうが、阿修羅は必死だった。
――飲めただろうか――
何度目かにシッダールタの喉が音をならしたのに気付いた。それから数回、確実に液体は喉を通過した。
――飲めてる! 効いてくれ!――
いくらか飲ませるとシッダールタをゆっくりと寝かせ、取ってきた冷水で布を濡らし取り換えた。
――どうして来たんだ。シッダールタ。ここはおまえの来るところじゃないのに……――
苦しげだったシッダールタの寝息が気のせいか和らいで感じる。
その規則正しい胸の起伏を感じながら、いつの間にか阿修羅もうとうとしていた。
『阿修羅』
誰かがおのれの名を呼ぶ声がする。名……。我楽が付けてくれた名前。
『シッダールタか?! 目が覚めたのか?』
阿修羅は驚いて辺りを見回す。そこは天の山の麓。小さな祠が見えた。
『私がさきほど祈った祠……。そうか夢を見てるのか。早く起きなければ、シッダールタの様子を見なければ』
『待て、阿修羅。話があるのだ』
再び祠を見ると、そこには一人の老人が立っていた。腰が少し曲がった、長い白髭を垂らす、見たこともない老人だ。
『貴様は何者だ』
夢の中なのに、その人物には不思議と現実味があった。実際にそこに存在しているように感じる。
『わしかね。アシタというものじゃよ』
『アシタだと?!』
シッダールタがこの世に生を受けたとき、末は仏陀か聖王になると予言した者、アシタ仙人。
『アシタでもあったし、名も知れぬ僧であったこともある。ほれ、あの時、おまえに仏陀を会わせたのもわしじゃ。断っておくが、あの仏陀はわしではなく、本物じゃよ』
そう言われても阿修羅には何のことかわからない。
『その変幻自在のアシタが何の用だ!?』
アシタと名乗った老人は慌てるでもなく、ゆっくりと話し出す。
『おまえは祠で一心に祈っていたね。シッダールタの回復を』
『それは……、当たり前のことだ。そうだ! アシタよ、シッダールタは約束された子だ! こんなところで死ぬわけがないだろう? 命を助けろ! 出来ぬとは言わせぬ!』
『慌てるでない。鬼の子よ』
――鬼の子?――
『おまえが望んだわけでもないがな。なんにせよ。おまえは人を殺し過ぎじゃ』
一人ごちながら、よっこらしょ、とアシタは岩に腰掛ける。
『おまえは自らの命を引き換えにしても、シッダールタを助けたいのか』
上目づかいで阿修羅を見ながら問う。
『シッダールタが助かるのなら、私の命などいくらでもくれてやる』
阿修羅は迷わず答えた。
『そうか……。じゃがな、そううまくはいかんのだよ』
『どういうことだ?!』
焦らされるのは性分に合わない。今にもこのアシタと名乗る老人に、阿修羅は掴みかかっていきそうだ。
『シッダールタは自分が助かっても、おまえが命を落としたら生きていけないじゃろう』
その言葉にはっとした。命がけで自分を追ってきたシッダールタ。自分がいなくなったら、また同じことをやりそうだ。
『だが……』
『わしは、おまえたち二人が出会ったら、どうなるかわかっていた。おまえたちは二人で一つじゃ。離れることなどできん。だからスッドーダナ王におまえを殺すよう仕向けた』
『な、なんだと!』
名もない僧は、シッダールタが7歳の誕生日。スッドーダナ王に「影の子を殺せ」と注進した。シャリーンの下に刺客が来たのはその間もなくのことだった。
『貴様……!』
『怒るな、阿修羅。おまえがそこで殺されるとは思ってはおらんかった。この運命を変えることなど無理だと知っておったよ。でも、それでも抗ってみたのさ。仏陀の誕生のために』
しかし、阿修羅と出会う前にその希望は失われていた。シッダールタは剣を取ったのだ。
『おまえを引き離したことの報いかな。因果応報とはよく言ったものじゃ。そしてシッダールタは自らの力でおまえを引き寄せた。もう焦らなかったよ。これが運命なら、従おうと』
――確かに……。シッダールタが出家をし、修行に入っていたら、私はあの国に戻ることはなかっただろう――
『じゃがな、運命というのは、たまに思いも寄らぬ悪戯をするものじゃ』
ふうっと息をつき、アシタは続ける。
『王子は剣を取り、おまえと出会い、そして結ばれた。本来ならもうこれまで、というところだったんじゃが』
意味ありげなところで言葉を切られた。
『おい、さっさと続きを言え!』
慌てなさんなというばかりに老人は手を振る。
『ふいに希望が見えた。野であれほど殺戮を繰り返していたのに、仏陀のお姿が現れたんじゃよ』
阿修羅は拍子抜けした。希望やらお姿やら、そんな実態のないものに興味はない。
『馬鹿馬鹿しい。そんなことはどうでもいい。シッダールタを助けるにはどうしたらいいんだ!』
『大事なことじゃよ。おまえの前にも姿を見せたろう? 仏陀になったシッダールタが』
『あんなものは夢だ』
吐き捨てるように阿修羅は言う。
――これもまた夢に過ぎない――
『希望じゃよ。あの方は未来にも過去にも行ける』
アシタはこほんと咳をし、座り直して言った。
『そのためにはおまえの力が必要じゃ。いや、おまえと二人でなければ成せないのじゃ』
『なんだと?』
『おまえは本当にシッダールタのためなら現世の命を捨てられるか?』
アシタはもう一度問う。
『しつこいな。シッダールタが生きるのならば』
『よいじゃろう』 アシタは頷いた。
『それができるのは、この世でおまえひとりだ。心しておれ。世の人のことなど考えなくてもいい。シッダールタのためだけに命を使え。それはおまえの望みでもあるだろう』
アシタと名乗った老人は祠の中へと消えていく。先ほどまで足元が及ばぬようだったのに、背筋がピンと伸び急に若返ったようにも見えた。
『待て! どういうことだ! シッダールタは助かるのか?』
『これから起こることを全て受け入れよ』
『おまえは誰だ? アシタ仙人なのか?』
姿がほとんど見えない。声だけが響いた。
『私は……、明日だ』
つづく