第十四章 帰還(後編)
転がるように隠れ家の扉に飛び込む阿修羅。
そこで目にしたのは……。
第十四章 帰還(後編)
隠れ家まで、阿修羅は白龍を打ち続けた。心臓は胸から飛び出さんばかりに激しく鼓動を伝えている。家屋が見えると転がり落ちるように白龍から降り、体ごと預けて扉を開けた。
「阿修羅王!」
けたたましく開けられたドアの向こう、転がされた男を取り囲む仲間たちの姿があった。
「この男です」
彼らはすばやく道をあける。
「シッダールタ!! やはり……!」
そこにはまるで別人のように痩せ衰えたシッダールタの姿があった。阿修羅は駆け寄り思わず頬に手をあてた。
「シッダールタ。なんてことを……」
そして指に触れた頬の、火のような熱さに阿修羅は息をのんだ。
「誰か! 山水をすぐここへ!」
「直ちに!」
言うが早いか桶一杯の冷水をシッダールタにかぶせた。我楽は既に、屋敷裏に保管している冷水を取りに行かせていた。
だが、シッダールタは身じろぎもしない。
「シッダールタ! しっかりしろ!」
阿修羅は水でぬらした布でシッダールタの顔を拭いた。冷たい布は一瞬にして、熱を帯びる。
「水を飲め、飲んでくれ」
拝むように阿修羅は布に湿らせた水をシッダールタの唇に押し込む。だが、水は唇から漏れてしたたりおちていく。
「王、とにかく続けて。少しでも水分をとらせないと」
「わかっている」
盗賊たちはシッダールタを阿修羅の部屋に運ぶと衣を剥がすように脱がした。それはとても元統一インド国の王の衣とは思えぬものだった。
――こんな格好で砂漠に来たのか!?――
阿修羅は肢体の付け根に冷水をしっかり吸わせた布を捲いた。砂漠では熱にやられる盗賊もいる。その処置はかつて阿修羅も我楽に施されたものだ。
「阿修羅王。まだ息はありますが……」
年長の盗賊がシッダールタの脈をとりつつ声をかける。
「なんだ!」
阿修羅にすごまれてその後の言葉が続かない。
「何も言うな。私が何としてでも助ける」
阿修羅は自分に言い聞かせるように言った。
「我楽、悪いが冷水の補充を頼む。おまえたちも手間をかけてすまない。どうか気のすむようにさせてくれ」
「阿修羅王……」
元より盗賊には仲間意識などない。強い頭について、寝床と食い物と女にありつけるならそれで満足。
それを満たせない頭はいらない。
阿修羅はその全てを彼らに与えていた。その強さと才覚で。だが、我楽を始めとする彼らが阿修羅に従うのはそれだけではない。
幼い頃から彼女の驚異的な成長を見てきた。初めは小馬鹿にし、餌食にしようとしたこともあった。
だが、内と外の脅威や嫉妬に鮮やかに打ち勝ち、それはいつしか憧れや誇りに変わっていった。
自分たちが育てたような錯覚もあったかもしれない。そんな阿修羅が懇願している。まるで親にでもなった気分で盗賊たちは頷いた
――大分体が冷えてきた――
夜も深まったころ、阿修羅は腕や足に巻いた布を取り換える。そして唇にまた水を含ませようと布を口に当てた。
――シッダールタ、飲んでくれ!――
「うぐ、阿修羅……、阿修羅か?」
阿修羅の心の叫びが聞こえたのか、消え入りそうな声で、シッダールタが唇を動かした。
「シッダールタ、気がついたのか?」
「夢じゃないな……。私はもう何度もおまえに会う夢を見ていたんだ」
喘ぐような息で言葉が続かない。慌てて阿修羅は水を口に運ぶ。
「その度に裏切られて……。胸が張り裂けそうに苦しかった。……今度は、夢じゃないな」
シッダールタの頬に手を添え、阿修羅はしっかりとその目を見た。
「夢なんかじゃない。シッダールタ、私だ。よくこんな所まで……。さあ、水だ。飲むんだ」
シッダールタは咳き込みながらも水を飲みだした。
「ああ、うまい……。そうか、ようやく着いたんだな。おまえのところへ……」
「出家したのではなかったのか?」
阿修羅は再び水を飲ませる。
「出家……。いや、それは違う。私は国も兵も捨てて、おまえの後を追った。それだけだ」
「シッダールタ……」
「父から話を聞いた時……、私は自分で自分の首を絞めたよ」
シッダールタの顔からは、あの生気溢れる若々しさが失われていた。最後の夜からまだ半年しか経っていないというのに、そのやつれぶりには目を覆うものがある。彼を襲った苦悩の日々がうかがえた。
「父から、おまえが私のために去ったのだと聞いて……。一時は王位に就いた。それがおまえの望みかと思って」
シッダールタは阿修羅が制するのもきかず、声を絞り出す。
「だが、阿修羅、たとえおまえと私が血の繋がった兄妹であろうと、私はおまえを愛している。その気持ちに嘘はつけん……。だから、だからこうしてここまで来たのだ」
阿修羅の腕をつかみ、かすれた声で訴えるように言う。直後、激しく咳き込みだした。
「シッダールタ、もう黙っていろ。わかっている。私も、私も同じだ。さあ、水を」
阿修羅に差し出された水を飲み干す。
「シッダールタ、私もおまえに会いたかった。本当に……」
「阿修羅」
「とにかく今は休め。話はそれからだ。ずっと、傍にいるから」
それから五日、阿修羅の寝ずの看病が続けられた。
シッダールタは時々目を覚まして阿修羅と言葉を交わしたが、意識は常に朦朧とし、回復の兆しは見えなかった。そして三日目の夜、ついに意識不明の状態に陥った。
何日にもおよび、砂漠を彷徨ったことが直接の原因ではある。だが、理由はそれだけではない。
半年前、突然シッダールタを襲った衝撃と怒り、そして喪失。苦しみぬいた日々が、彼にこれほどの衰弱をもたらしていたのだ。
――シッダールタ、私にはどうすることも出来ないのか? シッダールタは約束された子のはずだ! こんなところで命を閉じるなどあるはずがない! 神でも誰でもいい、どうか、シッダールタを助けて下さい! 代わりに私の命をくれてやってもいい!――
やはり自分はシッダールタにとって不吉な者だったのか。出会っていけなかったのか。神の意志に逆らってこの世を血に染めた。これはその報いなのか。
――報いなら私が一人で受けるから……――
五日目の早朝、阿修羅は冷水を取りに山へ向かった。隠れ家から馬で半時ほど走れば、天の山の麓に届く。盗賊たちはこの山から雪や氷、冷水を補給していた。
白龍に荷を付ける時ふと下を見ると、泉のそばに石を積んだだけの小さな祠が目に留まった。
――こんなところに祠なんてあっただろうか――
阿修羅は今まで気にも留めなかった小さな祠に手を合わせた。
――どうか……。シッダールタの命を助けて。そのためなら……――
ひとしきり祈ると、阿修羅は唐突に母のことを思い出した。山肌にへばりつくように建てられている小屋が、あの村を思い起こさせた。
――あの小屋は、どんなに燃えただろう。炎を上げて母の躯と共に、灰になったのだろうか――
母の死の知らせを聞いたとき、阿修羅は隠れ家の傍らに小さな墓を作った。そこには医師から預かった母の形見を入れた。
「あ!」
――そうだ! 私はバカだ!――
阿修羅は白龍に飛び乗ると、重い荷物を運ばせていることも忘れて疾走させた。
「急げ! 白龍! 急いでくれ!」
つづく