第十四章 帰還(前編)
砂漠に戻ってきた「流沙の阿修羅」。
ようやく日常を取り戻すが。
第十四章 帰還(前編)
乾いた風が砂を掻き混ぜている。
さらさらと流れる川のように、音をたてて先を急いでいく。
物憂げな表情で、その様を見つめる阿修羅の姿があった。砂漠と険しい山岳地帯を分ける境界地、自然の岩壁と木々に囲まれた隠れ家に戻ってから十日が過ぎていた。
七つの時に、ただ生き延びるためにのみ逃げ落ちた場所に、阿修羅はまた逃げるように帰ってきた。
コーサンビから物見岩までの道筋は村人が教えてくれていた。懐かしい住処に辿り着いたのは三日目の朝だ。
白龍に揺られる阿修羅を見つけた我楽達は、大金を積んだキャラバンを見つけた時よりもはるかに喜び、阿修羅を迎えてくれた。
「阿修羅王! 阿修羅王が戻られた!」
「阿修羅王、待ち兼ねておりました!」
特に我楽の喜びようはなかった。まるで親子の再会のように、思わず阿修羅を抱き締め盗賊達の失笑をかったほどだ。
「我楽、元気そうだな」
そう言われて初めて、我楽は阿修羅のやつれ様に驚いた。長旅のせいもあるだろうが、常々耳にしていたカピラの隆盛ぶり、阿修羅の活躍ぶりからは、想像出来ないことだった。
「阿修羅王……。いったい何が」
「何も言うな、我楽。いずれ話す時がくるだろう」
我楽の疑念を察して、阿修羅はそう言った。
「少し疲れた。休みたいが、寝る所はあるか」
「もちろん。いつお帰りになってもいいように、王の部屋は前のままにしてあります」
「ふ。相変わらず律儀な奴だ」
阿修羅は軽く微笑んだ。とても安らかな気持ちがその身を覆った。
「礼を言うぞ」
盗賊達は相変わらず砂漠を行く商人達の荷を荒らしていたが、昔ほどの活気はなかった。砂漠を取り巻く国々もそれぞれ戦乱の時代に入り、行き来する荷は武具や武器がほとんどだった。
「しかし、もう安心だ。阿修羅王が戻られたのだから」
盗賊達の喜びには、そんな理由もあった。
「落ち着くな、この砂の海を見ていると」
盗賊の隠れ家に戻ってから十日。自室に閉じ籠もりがちだった阿修羅は、ようやくこの日、砂漠の物見岩に出ていた。
「王、印度国では、シッダールタ殿が統一印度の新王に即位したようです」
「……そうか。シッダールタが……。スッド-ダナ王は引退したのか?」
「ええ。なんでも、体の具合が著しく悪く、即位式にも姿を見せなかったそうです」
阿修羅はそれには答えず、ただ頷いただけだった。あの夜、城を出たあの夜、自分の父と知らされた夜が父を見る最後とわかっていた。
――哀れな父……。スッドーダナ王――
心労重なる父が、長くないことを阿修羅は気付いていた。
自分や母シャリーンの人生を弄んだスッドーダナ王に、もう阿修羅は何の憎しみも持っていない。自分が今、傷を負った心を持ちここにいるのは、誰のせいでもないように思えていた。
母が残した言葉に誘われるように向かったカピラ国。思うように剣を振り、勝利を欲しいままにした。
シッダールタとの運命の出会い。そのために生きていたのかと感じた。だが、その絶頂の日々は一夜にして奪われ、逃げるように砂漠へ白龍を走らせた。
あれから数日、色々な想いが巡り、眠れぬ夜を過ごしたが、ようやく心は落ち着きを取り戻していた。
今の自分は、少なからず幸福だと思った。幼い時から抱き続けた、憎悪するもの、嫌悪するものも今はもうその姿はない。
シャリーンももうこの世にはいない。便りがあったわけではないが、阿修羅には不思議と確信があった。
この身体に残されたものは、シッダールタへの愛だけだった。いつしか心魅かれ、離れがたいものとなり自分の心に刻みこまれた、異母兄シッダールタ。どのように遠く離れようと、時が流れていこうと、この気持ちに変わりはないと阿修羅は信じていた。
――いつかまた、必ず会える。そう言ったおまえ。私を必ず見つけると……――
ただ、気掛かりなのはその当のシッダールタだった。王位に就いたということは、それなりに自分の道を見極めたのだろうか。
――早く王妃を迎えろ。シッダールタ――
限りなく続く砂の原。阿修羅はさらに早く時が行くのを望んだ。
「今日も収穫は最高だったな!」
一稼ぎした盗賊達は、隠れ家への帰路を辿っていた。
阿修羅が戻ってはや半年が経ち、次第に阿修羅は “流砂の阿修羅” たる姿を取り戻していた。
「ところで、阿修羅王。あの噂、お聞きになりましたか」
馬上で我楽が尋ねた。
カピラで阿修羅の身に起こった数々のこと、命を狙っていた者のこと、そして自身の素性も全て我楽には話してあった。
「ああ。シッダールタが城を出たという噂だろ」
「はい。どうやら出家したらしいということですが」
すでにスッドーダナ王はこの世になく、シッダールタを止めるものはもう何もなかった。
「ふりだしに戻った。そういう事だろう」
「また、印度国は戦乱の時代となるのでしょうか。王位はダイバダというものが継いだということですが」
――ダイバダ――
阿修羅はその名前に憶えがあった。
カピラヴァストゥで連夜の宴が催されていた最中、その男は阿修羅の部屋にやってきた。
「こちらにおられたのですか。阿修羅殿」
一人部屋で武具の手入れをしていた阿修羅は不意の客人に身構えた。
「誰だ」
鋭く射る様な目とともに答える。
「失礼しました。私はシッダールタ王子の従弟、ダイバダと申します。このカピラ城の守護を任務としております。どうぞお見知りおきを」
そう言うと、恭しく傅いた。
「そのダイバダが何の用だ。私は客人をもてなす器量を持ち合わさない」
馬鹿丁寧であるために無礼ともとれる態度に、阿修羅は表情を変えず冷たく返した。手は相変わらず剣を磨いている。
「いえ、そのようなこと。ただ宴はお嫌いとのことでしたので、失礼と思いながらもご挨拶に。それにご器量は十分と思います」
「なんだと」
阿修羅はゆっくりと立ち上がった。
「何が言いたい?」
ダイバダは立ち上がった阿修羅を見て改めて息をのんだ。
――なんというプレッシャー……。しかもなんだ、全身が貫かれるような輝き、美しさ! シッダールタが夢中になるのも無理はない――
「どうした」
「いえ、大変失礼いたしました。私は宴会場に戻りますゆえ」
ダイバダは逃げるように部屋を出ていった。
――あの男に国や兵士を収めることはできないだろう。また戦が始まる……――
「ああ。それは避けられんだろうな」
「印度国は今年、洪水がひどく、多くの人々が死んだようです。この時期にまた、戦乱の世とは……」
「いや、だからこそ、人々は望んでいるのだ。救世主の誕生を」
そう言いながらも、阿修羅は胸騒ぎを感じていた。何かよからぬ事が起きるのではないかと。
――シッダールタ。本当に出家し、救世主への道を歩み出したのだろうか。それとも……――
「阿修羅王! 我楽!」
それからまた数日経ったある日。隊商の西国ルートを探索していた二人の元に、隠れ家から仲間が慌てて馬を走らせて来た。
「どうした。何事だ、一体」
「誰かヤサの前で倒れていて。商人と思ったが違う。阿修羅王の名を呼ぶので、無下にもできない。王、お心当たりはありますかい?」
「何!?」
――まさか!――
思い当たることは一つしかなかった。
つづく




