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第十三章 慟哭

阿修羅は七歳の時に生き別れた母に再会する。そこで明かされたことは。

第十三章 慟哭





 阿修羅は朽ちかけた小屋の前にいた。この村では死者が出たらこの小屋で弔いをするとのことだった。

だからなのか、その扉からはかすかに死臭がした。


「かあさん……」


 阿修羅は扉越しに声をかけた。扉には厳重な鍵がかけられている。阿修羅の腕をもってすれば簡単に壊せそうな扉だったが、その鍵は絶対に開けることを許さない呪術がかけられているように重く見えた。


「来たんだね。ヤーセナから聞いた」


 懐かしい母の声だった。幾分弱々しくもあったが、いつもの誇りを失わない強さが聞き取れた。


「かあさん! ここを開けてください!」

 会いたい! 声を聞いた阿修羅は反射的に扉を揺する。


「開けるな!」

 母の烈火のごとくの命令に阿修羅はたじろいた。


「今は、阿修羅と名乗っているんだね。ここを開けてはいけない。もしおまえがここを開けたら、私はこの場で自死する」


「かあさん……」


 ヤーセナの話では、シャリーンが病に倒れたのはふた月ほど前のこと。日に日に具合が悪くなりながらも仕事は続けていた。だが、体力のないところに無理が祟って流行り病に取りつかれてしまったとのことだった。凱旋式にカピラヴァストゥに出かけたことが致命的だった。


 流行り病とわかった三日前からこの小屋に隔離され、死を待っている。やれることは少なかった。力不足だ。とヤーセナは肩を落とした。


「おまえの凱旋式には出かけたよ。人混みは避けなければならなかったから、通りを見通せる丘の上からだったけれど」


シャリーンは少しだけ声を張って、嬉しそうにそう言った。


「阿修羅と名乗るカピラの戦士が、もしかしたらおまえかもしれない。そんな気がして………。『舞うような剣技と必殺の刃で敵を討つ』。こんな山奥の集落まで聞こえていた。どうしても確かめたくて、病を押してヤーセナに連れていってもらった」


「かあさん、私は母さんの舞を観るのが好きだった。あれは、剣の舞だったのですね」

「ふふふ」


 シャリーンは自嘲するようにわらった。


「見世物小屋では剣の舞など舞わせてはもらえなかった。でも、おまえはちゃんと受け取っていたんだね」


 阿修羅の剣技の速さと美しさは、幼いころから目に焼き付いていたシャリーンの舞がお手本だった。


 もちろんそんなことは阿修羅も気づくことはなかった。昨夜、スッドーダナ王から聞かされるまでは。


「かあさん。一つだけお聞きしたいことがあります」


 母と話したいことは山ほどあった。だが、阿修羅にはどうしても確かめなければならないことがあった。


「あの夜、なぜ私に『シッダールタ』の名を?」


 扉の向こうで息をのむ音がした。それから何かを飲む音。少し苦しそうな息遣い。


「かあさん、大丈夫ですか?」

「心配はしなくていい。まだもう少し生きているだろう」


「母さん……」

 阿修羅は扉に耳を近づける。


「シッダールタ……。どうしてだろうか。どうしておまえにあの名を伝えたのだろうか。私もずっと考えていた」


 シャリーンは初めてスッドーダナ王の前で舞った夜のことを思い出していた。


「おまえの父、スッドーダナ王は、多分立派な王様だっただろう。でも、私にとっては身勝手な暴君だった。私は王を尊敬していたけれど、男として見たことはなかった。だけど、度重なる出仕の強要にウパーリ殿にも迷惑がかかりそうになり、仕方なく従った」


 冷たい素振りのシャリーンに王は逆に思いを募らせた。彼女を自分の思うよう従わせるため、時には権力を時には物理的な暴力も使ったという。


「そのうちに、お腹におまえができた」

 扉の向こうで、シャリーンがふっと溜息をつくのが聞こえた。


「最初は呪った。何故あの王の子供を身籠らなければならなかったか。しかも、正室のマーヤ妃も子を授かっていたあの時期に」


 扉の前で阿修羅は息苦しさに襲われた。


 ――私は……。やはり生れてきてはならなかったのか――


「でも。膨らむお腹とともに、おまえの生命力を感じて。必ず無事に産もう。無事に育てよう。そういう気持ちが日に日に大きくなっていった」


 シャリーンの声がわずかに幸せそうなオーラを纏った。


「だから、スッドーダナ王の元から逃げ出した。王はおまえを殺すかもしれない。その危険があったから」


 その日から、シャリーンと阿修羅の二人旅が始まった。諸国をめぐり、見世物小屋の一座として。

 実際一つところの一座にいたわけではなかった。追手がかかる危険が迫ると、シャリーンはまたそこを抜けて別の一座についた。


「苦しいこと、ツライことばかりだったけど、私は意外に幸せだった。好きな舞を踊り、おまえと一緒にいられたからな」


 シャリーンが阿修羅に名を付けなかったり、冷たく当たっていたのは、いずれ一人で生きなければいけないことがわかっていたからだった。それまでに教えられることを教えたい。そう考えていた。


「おまえはそれをきちんと理解していた。ちゃんと自分のものにしていた」


「いや! 母さん、それは違う。私はそんな風に思ったことありませんでした。それに私は貴方を置いて一人で逃げた……」


 阿修羅は慌ててそう言う。


「違わない。何も間違っていない。だからこそ、こうしてカピラ軍一の戦士となった」


 シャリーンはそこで一息ついた。


「でも、予想もできないことが起こった。私のせいかもしれない」

「かあさん」


「なぜ、あの最後の夜。おまえにあの名を告げたのか。『シッダールタ』の名を告げたのか」


 自らを笑うような小さな笑い声が聞こえた。そして、


「私は人を呪うとか、恨むとか、そんなことを自分の人生や感情に持ち込みたくなかった。下賤な生まれでも、剣を扱う限りは高潔でありたかった」


 少しだけ声を張ってシャリーンは言った。


「でも……。幾人もの高僧や仙人から『救世主』、『聖王』と予言されるシッダールタに嫉妬していた。おまえにこそ、その力があるかもしれないのに、と。マーヤ妃から生まれたことで、世の人々に歓迎されたあのシッダールタが憎かった。おまえだって、スッドーダナ王の血をひく後継者だったのだから」


「そんな……」

「だから、言ったのかもしれないね。『シッダールタを殺せ』と」


 阿修羅の心臓をその言葉が貫いた。


 ――な……、なに……――


「母さんは殺せなどとは言っていなかった! ただ、ただ名前を憶えろと」

 阿修羅は扉を開けんばかりに詰め寄った。


「どうかな。でもあの時の感情は間違いなくそれだった」

 扉の向こうで母の衣擦れの音がする。


「阿修羅……。いい名だ。シッダールタはおまえを愛しているんだね。凱旋の途上、王子の様子を見てすぐにわかった。遠目からでもはっきりと。何度も何度も振り向いて、おまえを見てた。そして同じようにおまえも……」


 言いかけて、にわかに咳き込むシャリーン。


「かあさん! ヤーセナを呼んできます!」

 立ち去ろうとする阿修羅にシャリーンが叫んだ。


「呼ぶんじゃない! 私はもう、いいんだよ……。それより、扉に手を当てて」


 阿修羅はその声に従い、膝を立てて扉に手を当てた。内側では、母が手を当てているのだろうか。

 

「ごめんね。おまえのその苦しみは私の責任だ」


 『ごめんね』。母から聞く、恐らくは初めての優しい言葉だった。扉に当てた手が震えた。


「凱旋式の後、ディーバと会った。王の側近だった男だ。あれは私を探していた」


 ディーバ。リュージュと一緒にいた老兵か……。阿修羅は調印式の前日の出来事を思い出した。


「私は包み隠さず話した。おまえの心を引き裂く事になろうとも。今できることは真実を話す事しかないと思ったから」


 仕方のない事だった。もう隠す事はできなかったろう。逆に疑わしいままだったら、阿修羅は本当に毒殺されていたかもしれない。


「許して。私があの名をおまえに言わなければ、カピラに戻ることもなかったものを……」


「かあさん……。貴方には何も罪はない。謝らないでください」


  ――もしあるとしたら、はっきりと『シッダールタを殺せ』と告げなかったことだろう――


「私は砂漠を離れてカピラに戻ったことを後悔していません。シッダールタと出会った事も」

「阿修羅……」


 扉を挟んで母娘は泣いた。もう二度と会うことは叶わない二人。


 阿修羅は母親を恋しいと思ったことはなかったが、ずっとどこかで、美しく凛としたその姿を誇らしく思っていた。母のようになりたいと、思っていたのかもしれない。


「もう行きなさい。扉を挟んでいたとしても、長く留まっていては不安が増す。おまえはまだ生きるんだ。生きていれば必ず何かを生むことができる」


「かあさん!」


 扉の向こうが不意に静かになった。息づかいの音も聞こえないほどに。しかし、その死を知ることも今の阿修羅には出来なかった。





「凱旋式に連れていったのは、珍しくせがむのでね。彼女の病状を悪化させるのはわかっていたが、まさか流行り病を拾ってくるとは思わなかった。長旅が元々衰えていた体力を奪ってしまったのだろうね。でも、おまえの姿を見て嬉しそうだったし、これも仕方ないだろう」


 村を立ち去る時、ヤーセナは形見になるだろうと一振りの短剣を阿修羅に渡した。柄には天の山の印がついていた。


 さらにシャリーンが息を引き取ったら、弔いは済ませておくと約束してくれた。


「これも持っていくがいい」


 いくばくかの薬も持たせる。砂漠に出るのであれば役に立つだろうと。流行り病の母は、あの小屋もろとも焼かれるとのことだった。





 燃える様な赤の太陽が西の空を染める頃、阿修羅は砂漠に向けて白龍を走らせた。涙で前が見えない。

溢れては頬を伝っていく。


 ――母さんはシッダールタを殺したかった? ではなぜそう言ってくれなかったのだ! ならば私は確実にヤツを殺しただろう。こんなに苦しい思いに身を焼かなくてもよかったのに!――


 たとえそうであっても阿修羅はシッダールタを殺せただろうか? あの出会いの日。初めてシッダールタを見たときの衝撃。


 あの時すでに心を奪われていたのかもしれない。


 ――なんて遠く遥かな日だろう!――


 阿修羅は声を上げて泣いた。白龍の疾走するままに。涙は風に流れて消えていく。


「シッダールタ、愛している。愛している。おまえと離れたくはなかったんだ!!」


 阿修羅は自分自身を抱いて泣いた。自分の肌に残るシッダールタの体温をまさぐるように。


「シッダールタ! おまえも今、苦しんでいるのか? シッダールタ……」


 阿修羅はその名を呼び続けていた。





つづく






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