第十二章 別離
一人城をでる阿修羅。天の山を目指す。
一方シッダールタは……。
第十二章 別離
天の山が阿修羅の前に、およそ越えられない壁のように立ちはだかっていた。幼い頃この山に拒まれ続け逃げた日々が、昨日のことのようだ。
――天の山はいつも私のそばにあった。幼き頃も、砂漠でも。この山は私の行く手を阻むものとして、そこに存在しているのだろうか――
もう、カピラの城も街も見えない。阿修羅の辿ってきた道には、荒涼とした山岳地が広がるだけだ。
――私はまたあの国から逃げている。心が痛い。まるで刃に貫かれたようだ――
胸を貫く刃を引き抜くこともかなわない。再び、阿修羅は馬を走らせた。ブルルッ。白龍の息が白い。随分と高地に入ってきた。阿修羅も少し寒さを感じ、少し厚めの上着を羽織る。
「白龍、またおまえと二人になったな」
砂漠に生まれた白龍だが、この馬は山岳地でも平気で足を進めていく。乗り手の阿修羅の手綱さばきが特別なのもあるが、白龍には天性のものがあった。
白龍と初めて会ったのは、阿修羅が盗賊の中で頭角を現してきた十歳のころだった。隠れ家の馬小屋で生まれた。
白毛の馬はとても珍しい。特に白龍の親は白毛の馬ではなかった。所謂突然変異の馬だ。
『白毛の馬は弱い』とされることが多く、当初白龍は売られることが決まっていた。
「この馬を私にくれ」
大きなヤマを成功させた褒美に、阿修羅はこの馬を求めた。
「こんな馬がいいのか? まあ、確かにこいつの親はいい馬だがな」
我楽や馬番の者は言ったが、阿修羅はこの白い子馬に魅せられていた。白毛の馬には斑点があったり、灰色がかっているものが多い。だが白龍は全身、たてがみまで真っ白だった。そして目は青みの入った緑色。美しい馬だった。
阿修羅が拾われた頃、ねぐらはもっぱら馬小屋だった。この白龍の親もよく知っている。お産のときも立ち会ったし、苦しみの果て、やっと生れ落ちた子馬が愛おしかった。
その白い馬に『白龍』と名付け、しばらく馬小屋で寝食をともにした。子馬は阿修羅によく懐いた。
白龍が一歳になる頃、阿修羅は白龍の訓練を始める。我楽達の予想に反して、白龍は強く、速かった。ましてや阿修羅は乗馬の腕も天才的。一年も経たないうちに、白龍は砂漠一の良馬として成長した。
ずっと共に生きてきた一人と一頭の間には、人語に頼らない絆が育っていた。
「おまえがいてくれて、良かった……」
阿修羅はやさしく白龍を撫ぜる。白馬は嬉しそうに鼻をブルっと鳴らした。
――小さな村。あれか?――
阿修羅は幾多の崖にへばりつくように建てられた家屋を見つけた。小さな集落は、それでも山の恵みである水の流れを中心に生活圏を築いていた。
猫の背ほどの畑や共同料理場で働いていた女たちが、阿修羅の姿を見咎めると一様に警戒の目を向けた。よそ者であることはもちろん、軽微とはいえ武器をたずさえていたので無理もない。阿修羅は馬を降り、ゆっくりと村を歩いた。
「そこの。貴方はもしかしたら」
太い男の声がした。
阿修羅が振り向くと、この里では小綺麗な部類にあたる衣服を着た大柄な男が立っていた。
「貴方は、カピラヴァストゥから来たのか?」
男は物怖じもせず問うてきた。
「そうだが……」
阿修羅は歩みを止めて答えた。
「阿修羅殿、だね。ここがどこかわかって来たのか」
阿修羅は黙って頷いた。
「嘘だ! 父上はそんな呆れた嘘までつかれて、私と阿修羅を引き離したいのですか!?」
シッダールタが阿修羅の出ていったことに気がついたのは、調印式直後だった。早朝より行われた式に阿修羅は姿を見せなかった。だがそれはいつもの気まぐれと思い、気にも止めなかった。
しかし、式が終わり部屋を訪ねると……。
そこにはもう、その部屋の主だった者の影すら残っていなかった。冷たくなった寝床と、丁寧に畳まれた白い衣があるだけだった。
真っ青になって探し回るシッダールタを呼び出し、スッドーダナ王は身も凍る事実を告げた。今しがたのことだ。俄かには信じられない話だった。
シャリーンという舞姫の存在を知る由もないし、王でありながら、側室を持たなかった父にそんな不義があったなどと考えたくもない。しかも、その子供が阿修羅だったなどと。
だが、考えれば考えるほど、思い当たる事ばかりだった。幼い阿修羅がカピラ軍の兵士に追われた事、ここへ来てからの物憂げな態度、そしてスッドーダナ王の憔悴ぶり。全てが王の話と付随する。
そのうえ、王は二度も阿修羅を手に掛けようとした。その事実はとても許せるものではなかった。
これほど愛した人はいない。その人を苦しめていたのが自分の父親だったとは。それを知ろうともせず、有頂天だった自分も許せない。
たまらず王に掴みかかっても詫びるばかりで埒が明かない。このまま首を締めたら殺してしまいそうだ。実際、シッダールタには明確な殺意が沸いていた。
――とにかく追いかけなければ、連れ戻さなければ――
シッダールタは王を捨ておいて部屋を飛び出した。
「そこをどけ! 私を外に出せ!」
会った瞬間から罠にはまったように惹かれあったのは、兄妹だったからか?
――いや! 違う! 断じてそんな事はない。そんな簡単な事じゃない!――
シッダールタは狂ったように喚き、外に出ようとした。今すぐ阿修羅を追わなければ間に合わない。
そう思うと、いてもたってもいられない。
外へと繋がる扉は厳重に錠がかけられているが、シッダールタは何度も扉にぶつかって壊そうとする。
「シッダールタ様、おやめください! 血が出ています!」
「どけ! 阿修羅を追いかけないと!」
既にまともな精神状態ではない。額から、肩から血を流しながら、吠える様な声を出して扉に向かっていく。
思い余った王は部下に命じた。五人がかりで押さえつけ、獣に使う薬で無理やり眠らせようとする。
「な……、やめろ! やめてくれ! 阿修羅を追わせてくれ! モッガラーヤ、やめさせてくれ!」
シッダールタが助けを求めるも、モッガラーヤもどうしていいかわからない。
「王子にあまり手荒な真似は。王子も落ち着いて!」
言ってみるが、誰も聞いてない。押さえつけていた兵士たちともみ合ううちに、薬師がシッダールタの口に無理やり薬をねじ込む。
「やめろ! やめてく……」
五人の屈強な兵士ですら引きずって出ようとしていたシッダールタだったが、がくんと膝を折った。安堵した兵士の何人かがその手を緩める。
待っていたかのように、シッダールタは再び立ち上がって扉に向かって走りだす。
「シッダールタ様!」
「阿修羅ー!」
しかし、大型の獣も眠らせてしまう強力な薬。シッダールタはそこで力尽き崩れ落ちた。
「行くな……。阿修羅……」
――この身がもぎ取られたようなこの痛み! おまえは私そのもの! おまえを失うことは私の死を意味するのだ。阿修羅!――
薄れていく意識の中、シッダールタはそう叫んでいた。
「シャリーンはこの村で私の手伝いをしてくれていた。もう5年になるか」
男はヤーセナと名のった。この小さな村で医者を営んでいるという。短い白髪と顎には白い髭を伸ばしていたが、肌艶が良いせいか老人には見えなかった。
「まあ、医者と言っても、薬になる野草を採ってはそれを調べている時間の方が多いがな」
招かれたヤーセナの小屋にはいくつもの薬草が入れられた壺が置かれていた。
「母は……、どこに。病に伏していると聞きました」
阿修羅はこの男の話をのんびり聞くつもりはない。先を急いだ。
「それだがな」
ヤーセナはもったいぶる。
「まさか……。母はもう死んだのか!?」
「いや、いや、そうではないのだ」
ふいに立ち上がった阿修羅は、またゆっくりと座り直す。
「だが、もう長くない」
ヤーセナの言葉に阿修羅は焦った。
「では、ではすぐに会わせてくれ!」
今にもヤーセナの首を締め上げる勢いで阿修羅は迫った。
「会わせることはできん。シャリーンもそれを許さんだろう」
「どういうことだ!」
山の日暮れは早い。太陽は西に傾きかけていた。
つづく