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第十一章 それぞれの愛

調印式の夜、阿修羅はスッドーダナ王に呼び出される。

そこで告げられたのは……。

第十一章 それぞれの愛



 その夜、人々は一日中立ち働いた疲れで、ぐったりと寝入っていた。大事を明日に控えたカピラ城は、しんと静まり返った闇の中、いつもと変わらずに佇んでいる。


 阿修羅は松明の灯りを頼りに通路を歩いていた。自室で明日の支度をしているところに王からの使いが扉をたたいた。


「スッドーダナ王が、シッダールタ王子のことで、ぜひお話がしたいと」

「わかった。すぐ行く」


 ――やはり、来たか――


 阿修羅は王の部屋の前で立ち止まった。王の御前に出るのだから当然正装である。いつもの金糸の模様が美しい白い衣に赤い帯をしていた。剣も型どおり持ってはいたが、御前に出る際外さなければならない。

 阿修羅は胸に短剣を忍ばせておいた。


「阿修羅です」

「おお、よく来た。疲れているところをすまんな」


 王はいつものように笑みをたたえ、阿修羅を出迎えた。部屋には他に誰もいなかった。


 ただ、小さな窓の向こう側に黒い人影が一つ、二人を見ているのを除いては。 


「いえ……。何か」


 阿修羅は勧められるまま、高座に座る王の正面に据えられた座にかけた。その前には酒と軽い食物が置かれている。


「ささ、まずは杯を空けよ。明日はめでたい日だ。遠慮はいらん」


 阿修羅は杯を右手に持った。王の視線が阿修羅の口許に吸い寄せられる。


「王よ」

 杯はその視線の直前で止められた。


「この杯に毒が盛られていないと、誰が言い切れる?」

「何……」


 青ざめた王の顔は、より一層血の気がなくなっていく。唇の震えがはっきりと見てとれた。


 阿修羅は杯を膝元に置くと、王の目を射るように見た。


「王、私は七つになるまで、ここカピラヴァストゥにいました。しかしある夜、私と母の住むみすぼらしい家に、数名の兵士が襲って来たのです」


 王は小刻みに震えだした。しかし阿修羅の話から耳を逸らせない。


「私は母の言われるままに逃げ出しました。街を出て、見知らぬ国を渡り。だが、逃げても逃げても兵士達は執拗に私を追って来た。まるで、獣の狩りを楽しむように」


 残酷な兵士達の足音が、幼い阿修羅を苦しめ続けた。物陰に息をひそめて隠れていても、足音が近づく前にその場を離れる。時には夜じゅう、月明かりの中を走った事もあった。


「私は殆ど飲まず食わずで逃げまどった。生き延びられたのが不思議なぐらいだ。いつしか砂漠に辿りついた頃、ようやく兵士の姿は見えなくなった。砂漠でのたれ死んだと思ったのだろう。まさに瀕死の時、私は盗賊に拾われ、九死に一生を得た」


 阿修羅はいつしか王の目を見ることなく、斜に構え、淡々と他人事のように話していた。


「王、私は王がルンピニーに参られた時、供の兵士達の武具がひどく気になった。天の山の印。どこかで見たような、そんな気がした」


 一つ小さく息をつくと、阿修羅は自嘲的に笑った。


「ふふっ。忘れるわけはないのに。おかしなものだ。気付いていたが、気付かないふりをしていたのかもしれない。信じたくはなかった。だが、思い出しましたよ、鮮やかに。あの夜より幼い私を執拗に追った兵士達は、みな武具に天の山の印を付けていた。王、あなたの親衛隊だ」


 そう言い終えると、阿修羅が小さく動いた。少なくとも、スッドーダナ王にはそう見えた。


「動くな」


 が、次の瞬間、阿修羅は王の背後にあり、短剣を喉元に突きつけていた。


「答えてもらおうか。私を殺さなければならぬ理由を。今はともかく、七つの奴隷に何の用があったのかを」


「阿修羅……」


 王は何もかも諦めたように、重い口を開いた。


「私を殺すなら、殺せばよい」

「馬鹿な。殺したいのはそっちだろう」


「いや……。もはや、それを望んではおらん。酒に毒も仕込んでいない。阿修羅、私を殺したら、この城、この国から出て行ってくれないか。おまえをシッダールタの傍におく事は出来ない」


「私は王妃などには興味ない」

「それはわかっている」


「それを承知で何故だ。いや、それよりも初めの質問に答えてもらおう」


 唇にたががはまった様に躊躇う王。阿修羅は焦れた。


「王! 何故に私が邪魔か! 母一人、子一人で生かされず殺されず、のたうちまわるように日々を重ねていた私が何ゆえに……」


「おまえは私の子だ」


 王の呻くような声が、阿修羅の怒号を遮り耳に刺さった。


「な……」

 阿修羅は自分の耳を疑った。


「何と……言った。子? 子だと言ったのか?」


 途切れ途切れに、空間を埋めるように、阿修羅は言葉を繋いだ。


「おまえは私とシャリーンの子だ。シッダールタはおまえの異母兄だ」

「な、なんて……こと」


 そう言ったきり、阿修羅は何の言葉も発せられなかった。突きつけた短剣もいつしか手から滑り落ちていた。


「九年前、私は自分の子であるおまえを殺そうとした。そうだ、おまえの言うとおり。シッダールタのために、シャカ族のために、カピラ国のために。詫びたところでどうしようもないが、すまなかった」


 スッドーダナは、ぽつりぽつりと今までのことを話し始めた。シャリーンとのこと、ウパーリのこと、預言のこと……。その一つ一つを阿修羅はただ黙って聞いていた。


「おまえがルンピニーでバサラを倒したとき、私は気が付くべきだった。おまえの剣技は、シャリーンの剣の舞そのものだった」


 ――!――


 阿修羅はその言葉にはっとした。


 ――そうか……。そうだったのか――


「頼む、阿修羅。同じ血を持つおまえ達が愛し合っているなど、私には耐えられん。私の過ちに対する罰ならば、甘んじて受ける。しかし、このままでは二人とも地獄へ落ちていく。その姿を見ることは忍びないのだ」


「王」

 阿修羅はようやく口を開いた。


「私は破壊の神だ。そのような事、はいそうですかと引き下がるとでも思うか。私が今まで生きてきた道がどんなに血なまぐさく、悲惨であったか、おまえに想像つくのか。今更地獄など何が恐ろしいものか。私の忌まわしい運命が、おまえ達父子に起因するならば、地獄へと道連れにしてやろう」


「いいや、阿修羅。それは本心ではあるまい」

 王は静かに首を振った。そして、おもむろに顔を上げ、阿修羅を見た。


「阿修羅、シッダ-ルタは心底おまえを愛している。本当に。それは恐らく、自分の命よりも大切なものだろう」


『愛している』……。


 シッダールタは何度そう阿修羅に言っただろう。その甘く切ない言葉がどれほどに力を持っていることか。


「そして阿修羅、おまえも愛しているのだろう。シッダールタを、おまえなりに愛しているのだろう。妃とならずとも、共に戦い続けることがおまえの愛ならば、それもまた、命を賭けた強い愛の姿のはずだ」


 ――私の? 私の愛の姿――


「シッダールタを愛しているのなら、王子の前から姿を消して欲しい。もちろん、おまえ自身のためにも」

「王……」


「さあ、私を殺すがよい。おまえにこれほどの苦しみを味合わせたのは私だ。当然の報いだと思っている。私を殺しても、後はディーバが上手くやってくれる。おまえを追う者はいない。阿修羅、これが私の精一杯の償い、愚かな父の愛だと思ってくれ」


 阿修羅の目に膝元に落ちている短剣が映った。それをそっと右手で拾い、王の首目掛けて振り降ろした。


「!」


 王は微動だにしなかった。目を閉じ、その時を待っていた。阿修羅の短剣は王を貫くことは出来なかった。


「ふふ……」

 いつしか笑い声は涙声になっていた。


「阿修羅」

「王、もういい。もういいんだ。母の言ったこと、全てわかった」


 ―― “術” の意味も……――


「王、私がこの城を出た後、シッダールタに今のこと全て話せ」

 阿修羅は短剣を胸に収め、立ち上がった。


「あいつのことだ。私が出て行けば、死にもの狂いで私の後を追うだろう。そうさせないためには、真実を言うしかない。王、貴方の口から。それができるか?」


 スッドーダナ王は頷いた。

「わかった。約束する。おまえの言う通りだ」


「だが、貴方が恐れた出家の道を選ぶかもしれない。それでもいいんだな」

 阿修羅は念を押すように言った。


「承知している。おまえを失ったシッダールタがそれを望むのであれば、誰も止める事はできないだろう」


 王の言葉に、阿修羅はほんの少し唇の右端を上げた。言い様のない寂しさに、胸をかきたてられながら。乾ききらない涙が睫毛を束にしている。


「では、王、お元気で」

「阿修羅!」


 退室しようとした阿修羅に、王は駆け寄りひざまづくと手を握った。


「許してくれ。阿修羅。このような父を許してくれ」


 阿修羅の手を自分の頬に充て、王は何度も詫びた。その手をゆっくりと外すと阿修羅は優しく言った。


「心配はいらない。王、私には最初から父はいない。盗賊 “流沙の阿修羅” それ以外の何者でもない」

「阿修羅!」


 スッドーダナが叫んだ時、すでに阿修羅は闇の中にいた。





 夜明け近く、旅支度を整えた兵士が一人白い馬を連れ、カピラ城北門にいた。


 阿修羅だった。


 片手で抱えられるほどの小さな荷物を馬の背に括りつけ、自分は軽い革の鎧、背中の剣といったいつもの簡素な出で立ちだ。不思議なことに門には見張りの者が一人もいなかった。


 阿修羅はカピラ城を見上げ、先刻までのシッダールタのぬくもりを思い出していた。





「阿修羅、待ちくたびれた。どこへ行ってたんだ」


 王の部屋から自室に戻ると、シッダールタが待っていた。部屋へ来るように言われてはいたが、シッダールタには会わずに行くつもりだった。顔を見ると、決心がにぶりそうで恐かった。


「どうした、その恰好。父上のところに行っていたのか」

「あ、ああ。話があるとかで」


 阿修羅は慌てて顔を伏せた。涙の跡に気付かれたくなかった。


「シッダールタ、灯りを消してくれ」

「え? どうした」


「いいから早く! 着替えたいんだ」

「ああ……。いいけど」


 シッダールタが部屋の灯りを全て消す。窓から差してくる月と星々が、部屋をぼんやりと浮かび上がらせた。


「阿修羅、いよいよだな」

「ああ」


 暑苦しい衣を脱ぎ捨てる阿修羅のそばに、シッダールタの気配が近づいた。そして、その小さな肩を抱き、胸のあたりをまさぐる。 


「短剣?」

「!」


 阿修羅はすり抜けるように体をひねると寝床に腰を落とした。


「父上と何かあったのか?」

「いや、まあ、ただ厭味を言われただけさ。おまえが妃を娶らないから」

 

「だが、その短剣」

「これはいつものこと。私はいつでも用心しているのでね」


 シッダールタは何か釈然とせず何かを言おうとした。が、阿修羅の指先が自分の首に届いたのを感じると、もうどうでもよくなった。ゆっくりと阿修羅の上に自分の身を重ねていった。


「阿修羅」


 シッダールタの唇が阿修羅の首筋に触れた。


 しなやかな指が逞しい指に絡めとられ、されるがままになると、頭の中が真っ白になっていく。阿修羅は短く声を漏らす。より一層、シッダールタが自分を貪るのを誘うように。


 ――私は神など恐れない。何も、恐れるものなどない。たとえ誰が許さなくても、私一人なら地獄の王とでも戦ってみせる。だが……、シッダールタ。おまえを道連れにはできない。おまえとはもう共にいることは出来ないんだ――


 阿修羅のシッダールタを抱きしめる指に力が入る。長い黒髪が絡まる。


 ――でも、もしも本当に……。この世の全てを支配する神がいるのなら。どうか、この最後の夜を、許して下さい――


 その夜、阿修羅は泣いた。涙も見せずに、声も出さずに。胸の中で、全てが引き裂かれるような声を上げて泣き叫んだ。


 シッダールタと熱く激しく獣のように抱き合いながら、泣き続けた。





「行くのか」

「リュージュ……」


 夢から覚めたように、はっとして顔を上げた阿修羅の目に、憔悴したリュージュの姿があった。どうやら見張りは彼が片づけておいたらしい。王との密会の席で息をひそめていたのも彼だった。


「おまえには世話になった。元気でいてくれ」

「いいや、結局俺には何も出来なかった。また……会えるか?」


 少しの間。リュージュは阿修羅の唇が動くのを待った。


「いや。二度と会えんだろう」


 そう言うと、阿修羅は遠くそびえる天の山々を見つめた。


「そう、そうだな。阿修羅、言おうか言うまいか、迷ったのだが……」

「ん……」


「おまえの母親は天の山のふもとにあるコーサンビという村にいる」

「え!」


「病の床にあるらしい。行ってやれ。今からなら、明るいうちには着けるだろう」

 リュージュは阿修羅を見つめた。


 二度と会えないだろうその美しい戦士を。決して忘れないために、全てを目にとどめおこうとじっと見つめた。


「行け。阿修羅」

「リュージュ」


 阿修羅はリュージュに近づくとそっとその頬に口づけた。それが阿修羅の出来る精一杯のことだった。


「阿修羅」


 次の瞬間、阿修羅はリュージュの腕の中にいた。ひとしきり、リュージュは阿修羅を抱き締めた。リュージュの頬に涙が伝わる。


「リュージュ、すまなかった。ずっと」

「阿修羅……」


 阿修羅はそっとリュージュの腕からその身を離した。


「もう、行かなければ」

「ああ……」


 阿修羅の華奢な体が馬上に跳んだ。白龍は小さな嘶きを上げた。


 リュージュの胸に矢を射られたような痛みが走った。


 ――阿修羅……。おまえを愛していたよ。本当に……――


 砂埃が舞う。阿修羅は振り向きもせず、今はもう輝きを失った空の下を駈けていった。


「阿修羅、生き抜けよ。必ず……」





つづく


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