第一章 運命の二人(前編)
紀元前5世紀の北インドが舞台の歴史ファンタジー。いよいよ本編の始まり!
第一章 運命の二人(前編)
その日、マーヤ妃は夢を見た。白い六本の牙を持つ象が自分の身へと入る夢を。
それは懐妊の知らせであった。
シャカ族の王妃マーヤの懐妊を知り、カピラ国王スッドーダナはいたく喜んだ。
「王子だろうな。もちろん」
しかし、マ-ヤの懐妊を喜んだのは、王だけではなかった。数々の予言者、名の知れた僧侶達が、口を揃えてその子の誕生に歴史的意味を唱えた。
「救世主? 仏陀? そのような僧侶は必要ない。シャカ族の王となり、天下を治める王となって欲しい」
王の願いとともにマ-ヤの腹は膨らみ、出産の日を迎えるばかりとなった。
「本当に行くのか。その身体で」
カピラ国城下町、ある豪族の屋敷。馬小屋の前で二人の男女が声を潜めて話している。
「この子が生まれてからでは遅すぎる。」
「シャリーン……。それではこれを持って行け」
男は諦めたようにそういうと、いくばくかの金銭とある紋章のついた短刀を渡した。
「これは……」
「使う時がない事を祈るが。無事に生き延びてくれ。」
シャリーンと呼ばれた女は男に深々と頭を下げ、馬にまたがった。
「気をつけろ!」
心配そうにかける男の声を背に受けて、シャリーンは走り去った。
シッダールタがこの世に生を受ける三月ほど前の事だった。
カピラ城南にある美しい花園ルンピニ-、マ-ヤ妃はここでにわかに産気づいた。出産のために実家に帰る途中の予期せぬ出来事だった。
元々身体の弱かったマ-ヤ妃は、難産に大変苦しんだ。
「王子様、ご誕生! 王子様、ご誕生!」
宮殿中に興奮した叫び声がこだまする。
カピラ国王スッドーダナの第一王子シッダールタの誕生である。
翌日、王子シッダールタの誕生の宴が盛大に執り行われた。宴にはカピラ中の豪族や各国から祝いを携えた大臣、そしてバラモン教の僧侶や高名な預言者の姿もあった。
その中に、シャリーンと一緒にいた男の姿があった。男はスッドーダナ王に近づき祝いの言葉を述べる。二人はにこやかに会話をしながらも相手の目にその心内を探っていた。
母親のマーヤ妃は出産の一週間後この世を去った。
印度国が戦乱の時を迎え、阿修羅が砂漠を後にしたのは、それから十六年の時を経てのことだった。
熱い空気が立ち上る朝、阿修羅はシャカ族の一軍が駐屯する村へ馬を進めていた。この地には数多くの若者達が兵に志願してやって来る。
印度国にはバラモン教による厳しい身分制度が存在していたが、シッダールタは強く知恵の在る者ならば敢えて身分にこだわらなかった。小国のカピラ軍が強大化したのはこの策によるところも大きい。
――天の山が北に見える。懐かしく思うのは、ここが私の故郷だからなのか?――
白龍を繋ぎながら、阿修羅は北にそびえる天の山を見つめていた。
「おい、まさかおまえが兵になるってんじゃないだろうな」
兵士が屯する場所に着くとすぐ、舐めるような目つきとともに馬鹿にした言葉が阿修羅に浴びせられた。
「女みてぇな面して、その背中に背負った剣が持てるのか?」
数人の兵士達が阿修羅の回りを取り囲む。阿修羅は素知らぬ顔で通り過ぎようとした。
「かわいいねぇ。兵士としてじゃなく、別の事なら雇ってやってもいいがな」
一人の兵士が阿修羅のあごに手を掛けた。
「いてっ! なにしやがる!」
瞬間、阿修羅は鋭い眼光とともにその手を振り払った。そして、おもむろに声をたてて笑い出した。
「くくっ、ははは……」
「何がおかしいんだ! いい気になんな、綺麗な顔に傷がつくぜ!」
「相手になれと言うのなら、してやってもいい。だが、恥をかくのはおまえの方だ」
「な……!」
言い終えると同時に阿修羅の抜いた切っ先が兵士の喉元でぴたりと止まった。
「ひっ!」
「動くと死ぬぞ」
真剣を突き付けられた兵士は汗が流れるのを感じた。
「や、野郎、ふざけた真似を!」――手の動きが全く見えなかった!――
尻もちをついた兵士が剣を抜いたのを合図に数人の兵士達が同時に阿修羅に襲いかかった。それを取り囲むようにたくさんの兵士達が集まってきた。みな、野次を飛ばしながらこの新参者の少年がぼろぼろにされるのを待っている。
「やっちまえ!」「俺も交ぜろや!」
だが……。だが数分後、傷一つ無くその場に立っていたのは、まぎれもなくその少年だった。
息一つ乱さず、身軽な動きで兵士たちの切っ先を難なくかわし、合間の軽く触れるようなしぐさに相手は次々と倒れていく。全ての動きが終わるまで自らの剣を使うこともなかった。
「ふん。口程にもない」
阿修羅は周りで唖然としている兵士達に気付き、埃を叩きながら睨んだ。
「おまえ達も私に相手してほしいのか?」
「め、めっそうもない。遠慮しとくよ」
取り囲んでいた兵たちがたじろぐその背後に、いつからいたのか一際目立つ見事な鎧を付けた兵士がその逞しい腕を組み突っ立っていた。
「なかなかの腕前だな。体にも似合わず」
「ナダ隊長!」
阿修羅の周囲にいた兵たちがざわつく。
ナダ隊長と呼ばれた男は、将兵らしい百戦錬磨の風体を持つ堂々とした体格の持ち主だった。
「隊長?」
阿修羅はナダの方を見た。
「おまえ、名はなんと言う?」
お互いを算段するように二人はまなざしを一瞬交わした。
「阿修羅」
ナダの正面を向いて阿修羅はそう答えた。
「あしゅら? 変わった名だな……。通り名か。まあいい。よし、決めた。ついて来い」
「どこへだ?」
「俺の隊だ。今日からおまえは私の隊へ入ることを命ずる。わかったな」
「貴様の?」
いきなりの命令に阿修羅は少々戸惑った。
だが、不思議にもこの男からは殺気を感じられない。だからこそ戦いが日常化している強さを感じていた。
「ふん、条件によっては考えてやってもいいがな。おまえの隊の仕事は?」
「おまえ! 何様のつもりだ。調子に乗るんじゃないぞ。ナダ隊長はっ……!」
外野で部下が叫ぶ。阿修羅はその声を気にもせず、ナダに鋭い目を返す。ナダは改めて阿修羅の纏う空気を感じた。
――なんて奴だ。今誰が背後を狙おうと、指一本こいつに触れることはできないだろう――
右手を上げ、ざわつく声を制してこう続けた。
「俺は人の後ろをついて行くのが嫌いでな。常に先鋒隊を指揮している。おまえにはその最前線の場所をやろう」
阿修羅は口許で満足気に笑った。
「いいだろう。願ったりだ」
つづく