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第九章 迷い

宴も終わり、シッダールタは父王スッドーダナ王と対峙する。

第九章 迷い




 三昼夜を徹しての宴も終わり、本格的に印度国統治へむけての会議が連日繰返されるようになった。


 旧マガダ国のラージャグリハ城には、軍部からナダとリュージュを送ることがほぼ決定。調印式も三日後に迫っていた。




「シッダールタ、父との約束をよもや忘れていまいな」


 会議後、久し振りにシッダールタは父王スッドーダナと二人向かい合った。この時を待っていたかのように放たれた言葉は、予想した通りシッダールタへの婚姻の催促だった。


「そのことですが……」

 シッダールタは一瞬伏目がちにうつむいたが、すぐに毅然として王に顔を向けた。


「私は妃を取りません」

「な……この期に及んでまだそんなことを!? どう……」


 シッダールタは慌てて何かをいおうとした父を制して、自分の気持ちを包み隠さず話し始めた。


 既に阿修羅が女である事は多くの兵達の知るところとなっている。シッダールタははっきりと阿修羅に対する思いを吐露する事が出来た。


「阿修羅を妃に据えることが出来ないのは承知しています。彼女自身もそれを望んではいません。だが、私は彼女以外の女を傍におくなど考えられないのです。私は妃を取りません。永遠に」


 スッドーダナはただ茫然と息子の言葉を聞いていた。そして俄にわなわなと震えだし、立ち上がった。


「許さん! それだけは、絶対に許さん!」


 その烈火のような怒りは、いつもの穏やかな王からは想像もつかないほどだった。王の激しい怒りにシッダールタも思わずたじろぎ顔を引きつらせた。


「シッダールタ! おまえはこの印度国の王となるのだ! 妃を迎えなければならんのは当然のことだろう! 世継ぎをもうける事が、王としてのおまえの責務だ!!」


「いいえ! 父上、私はこの国も、また次に得た国も、継ぐのは何も私の子でなくてもいいと思っております。力のある者が私から奪えばよい。そして、その者は必ず現れるはずですから!」


 しかしシッダールタも負けてはいられなかった。どうしても自分の意志を貫きたかった。そうしなければならなかったシッダールタは、真っ向から対立した。


「何を言っているんだ! 王たるもの……!」


 スッドーダナはそう言った途端、頭を抱え音をたてて倒れこんでしまった。


「父上!? 誰か! 早く部屋に来てくれ!」


 慌てて駆け寄るシッダールタに、王は悲しげな目を投げ掛けた。


「シッダールタ……、阿修羅は……」


 そう言いかけた時、騒ぎを聞きつけた侍女や兵達が部屋に駆け込んできた。


「王! 大丈夫ですか?!」

「ああ、おまえ達、早く王を寝所へ」


 スッドーダナ王は寝室へと運ばれ、医師の手当てにより眠りについた。


「だいぶおやつれのご様子。この様なことがまたあれば……」


 医師は言葉を濁したが、シッダールタには理解できた。深く息をつくと、マーハラとともに父の寝顔を見つめた。


「王子。どうしてこんな事に」

義母(はは)上。悪いのは私です。でも、こればかりはどうする事も出来ない。私はこの思いに忠実でありたいのです。どうしても」


 マーハラは王子から阿修羅への深い思いを聞かされた。そして、納得したように頷くとこう言った。


「きっと、時が解決してくれます。王も貴方も、そして阿修羅も。皆が望むように変わっていくでしょう。誰もが許し合えば、このような事、大事ではなくなります」


「義母上……」


 マーハラの言葉にシッダールタは救われた思いがした。だが、事態はマーハラの思うほど “甘い” ものではなかった。誰も許されることなく、変わることなどない、どうしようもない事が多すぎた。





 スッドーダナ王は夢を見ていた。暗闇の中で一人、ぽつんと佇んでいた。


 ――ここは、どこだ――


 王は辺りを見回した。すると小さな明かりが見え、そちらの方へ歩いていく。赤ん坊の声が王を誘った。


『あなた! 生まれましたわ。男の子ですのよ』


 ――マーヤ!――

 明かりの先にいたのは、寝床で赤ん坊を抱くマーヤ妃だった。


『この子はきっと素晴らしい子に育ちます必ず、最高の王に』

『ああ、そうだ。そうだとも』


 スッドーダナが赤ん坊に手を伸ばすと、ふっと二人は消えてしまった。


 ――マーヤ!?――



『スッドーダナ王。今日は剣の舞の名手を連れてまいりました。どうぞその美技を心ゆくまでお楽しみください』


 ――ウパーリ?!――


 スッドーダナ王の前に美しい女剣士が現れた。その剣の舞は切っ先厳しく潔く、そして妖しい。観る者を惹きつけて止まない美しさを放っていた。


 ――シャリーン……――


 記憶の中のシャリーンの顔は、いつしか阿修羅に変わっていた。


 ――に……似ている!?――


 スッドーダナが立ち上がって舞人(まいびと)の肩に触れると、またふっと消えてしまった。



『恐れながら、シャリーンはここにはおりません』


 ウパーリはスッドーダナにそう答えた。


『貴様、彼女をどこに隠した! シャリーンが身籠っていること知らんとは言わせん!』

 問い詰める王にウパーリは固く口を閉ざした。



『王、どうしました?』


 低く嗄れた声に振り向くと、そこには高名な予言者、アシタ仙人が立っていた。


『アシタ仙人!』

『王よ。喜びなされ、この子はこの地位にとどまれば、地上の全てを支配する聖王に。出家し隠遁すれば、この世の未来永久、全ての人々を救う仏陀となるでしょう。大事にお育てなされ』


『どちらがよいのでしょう』

『何と?』


『私は武人です。私は親として王として、この子が聖王となることを望んだのです。しかし、今となってはわからない。わからないのです』

アシタもやはり何も答えなかった。黙って王の視界から消えていった。


『アシタ仙人!』



 次に気がつくと、城は宴の真っ只中。賑やかな音楽が場を包み、華やかに着飾った人々がそこに集っていた。


 横を見ると、小さな王子が退屈そうに座っている。


 ――これは……――


『王子様の七歳のお誕生日、おめでとうございます』


 たくさんの客人が、お祝いの言葉を述べていた。そしてその中に、一人の修行僧の姿があった。彼は七年前、アシタ仙人より “仏陀となる” と予言された王子を一目見たいとやって来たのだった。


『王、シッダールタ王子は真の王となられる方と思われます。その誕生の折り皆が口を揃えたように。このように光輝く子供を私は見たことがございません』


 僧は、浮かない顔をしたシッダールタを見てそう言った。かなりの修行を積んだ、高僧のようだった。


『しかし……』

 僧は言いかけた言葉をしばし躊躇した。


『ん? 何か不吉なことでも?』

『実は少々気になることが……』

『何だ。許す、申してみよ』


『王子はこの世の光です。全てを照らす光です。だが、光のあるところ、必ず影が生じます。そしてその光が強ければ闇も濃い。王子の影となるもの……。その存在を強く感じます。王子の影として生まれたものがこの世にいる、と。同じ星の元生まれた影が』


 ――影! 同じ星のもと?!――


 スッドーダナの脳裏に一人の者が思い浮かんだ。


『その者はやがて王子に、いえ、この国に災いをなし、ひいては世を闇に陥れる。そのように見えます。そう、同じ星と言うよりは全く逆の、王子とはちょうど表と裏、まさしく光と影。凶星に生まれし者。そのような者の気配を感じます』


 ――光と影、凶星にうまれし者。まさか……――


『もし、思いあたる者があるのなら、今の内に対処なさる事を勧めます。さもなければこの国……、滅びます』

 

 ――この国が……、滅ぶ! シッダールタが出家するのではないかと日々恐れているのに、まだ私を脅かすものが? やはり、シャリーンの子は災いの種なのか!?――



『カピラヴァストゥの街を隈なく捜すのだ』


 ――私はその夜遅く、悩んだあげく、数人の兵に命令した。シャリーンを捜し、そしてその子供を……――


『どうされました、王。兵達が数名街に行きましたが』


 ディーバは王にとって最も信頼おける部下だが、情に厚く真っすぐな気性の持ち主だった。とても本当の事を話せなかった。


『いや、何でもない。今日はめでたい夜なので、少し時間をやっただけだ』


 ――ちがう……。私は、私は自分の子供を殺せと命令したのだ!――

王は大声を上げた。



 その声に自分で驚き目を覚ました。汗をびっしょりかいていた。


 ――兵達は何十日もかかってようやく帰城しこう言った。子供は砂漠で死んだと。私はそれを聞いて……――


「安心したのだ」

 王は口に出して言った。冷たく何の感情もなく言ってみた。しかし、その目には涙が溢れていた。


 ――だが! 死んではいなかったのか? 阿修羅、おまえが私の子なのか? 私が殺そうとした、私の子なのか?!――


 王は暗闇の中で悶え苦しんでいた。夜明けは遠く、決して明けないのではないかとさえ思われた。


 その同じ夜、一人の老兵が城の門に辿り着いていた。がっくりと肩を落とし、疲れきった表情で……。 



 


  調印式を二日後に控えた気だるい昼下がり、リュージュは、阿修羅の部屋を訪ねていた。彼は式が終われば、ナダとともにラージャグリハに出立する。


「あっちに行ってしまえば、おまえとは当分会えなくなるだろう。おまえはここに残るのだろう? 阿修羅」


 リュージュは一応上官への訪問のため、簡素ではあるが、正装していた。青を基調とした色鮮やかな織物の衣が彫りの深い整った顔に映える。


「ん? ああ。だがリュージュ、心配することはない。すぐにまた会えるさ」

「どういうことだ?」


「ラージャグリハでそう長く遊ばせてはやれない。統治が上手く行けばナダかモッガラーヤに任せ、おまえにはすぐ戻ってきてもらう」


 応対する阿修羅は相変わらず、窓から雪を頂いた天の山々を見ている。いつもながらの単衣の衣に白の上着を引っかけ、その合間から美しく長い手足が覗く。


「何のために?」

「もちろん戦だ。次は西へ行く」

 リュージュの顔がにわかにほころんだ。


「本気か?! いや、おまえならやると思ってたさ。印度国だけで満足するわけないって」

「ふふっ。おまえは役に立つ。悪いがもうしばらく付き合ってもらう」


「願ったりだな。あんな退屈なところで、どうやって一日過ごそうかと悩んでいたところだ。楽しみに待っているぜ」

 よほど嬉しかったのか、からからと声に出して笑いだした。


「ところで、阿修羅」


 気のすむまで笑うと、リュージュはまじめな顔をして言った。


「王子は誰とも婚姻しないと王に断言したそうだな」

「耳が早いな。ふん、あの愚か者は自分の立場がわかっていないらしい」

「おまえのためだろ? もっと素直になれよ」


 リュージュは呆れたように阿修羅の顔を見た。


「素直に……か。リュージュ、私は時々わからなくなる」

「なにが?」


「私は本当に、このままシッダールタとともにいるべきなのだろうか」

「何を言い出すんだ!」


 驚いたリュージュは椅子から跳ね起きた。


「言ってることがわかっているのか?」

「わかってるさ。充分にな」


 阿修羅は大きく息をつくとリュージュの方を見た。


「リュージュ、シッダールタはこの印度国を平定した。二日後印度は統一され、シッダールタは王となるだろう。やはりアシタの予言通り、その器があったのだ」


「確かに。だが、もしおまえがカピラ軍にいなければ、達成できたかどうか。この印度を制覇出来たのは、殆どおまえの力によると俺は思っている」


「そう……だな。たぶんおまえの言う通りだろう。だが、これから先は……」

「これから先?」


「奴にとって、ここから先へ進むことが本当にいいのかどうか……。妃をもらい平和に印度国を統治し、世継ぎをもうけ……。その方がいいのではないかと」


「何言ってる! おまえらしくもない。おまえと王子なら、さらに大国を目指すことが出来る。こんな国一つで満足するな。俺も手を貸すぜ」


 片目をつぶって微笑する。そして少し語調を落として続けた。


「それにもし、王子がおまえの言うとおり平和を望んだら、おまえはここを出ていくんだろう?」


 阿修羅は少し考えるようにして間をおき、頷いた。

「そうなるだろう。平和は私を必要としないからな」


「そんなこと、王子が望むはずはない。おまえを失うことがわかっていて、おまえ以外の妃を迎えるなんて考えるわけがない。王子が本当に望んでいるのは、おまえとこの世を駆け抜けることだと俺は思うがな。たとえその道が血塗られた道であろうと」


 リュージュは阿修羅をじっと見つめた。その視線の先の少女は、普段よりずっと大人びた仕種で窓枠に腰掛け右膝を抱えた。


「そう……だな。さらに貪欲に、さらに激しく突き進む。確かに私にはそんな生き方しかできない」

「おまえらしく生きろよ。俺はそんなおまえに惚れてるんだから」


「ばか」


 小さく声をたてて笑うと、阿修羅は背をのばした。


「あー、こんな所でうじうじやっているから迷いが生じるのだ。おい、ちょっと付き合え」

 阿修羅は試技用の剣を手に取った。


「いいだろう。やっとおまえらしくなった」 


 ――迷いが晴れたわけではない。私の抱く疑念も何一つとして解かれていない。だが、私には私の生き方しかできない。誰が悲しもうと、苦しもうと、そうする他にはない――


 二人の剣を叩きつけ合う音は日が落ちてもなお、響き続いていた。





つづく






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