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第八章 宴の夜

マガダ国に勝利し、ついに印度国を手にしたシッダールタ。

カピラヴァストゥでは連夜の宴が催される。

だが、華やかな宴会の陰で様々な思惑が渦巻いていた。



第八章 宴の夜




 マガダ国より、和議の使者がヴァイシャーリーの小城にやって来たのは、それから三日後の事だった。


 阿修羅の容体が安定するまでここに留まっていたシッダールタは、和議の条件をマガダの完全属国とし、その調印は二十日後、カピラヴァストゥで行われる事となった。


 使者は言葉を濁していたが、どうやらビンビサーラ王は既に命を落としたようだ。ビンビサーラ王亡き後、マガダを継ぐものはなかった。


「ついにこの印度国、我が手にした。おまえのお蔭だ、阿修羅」

「印度国ぐらいで喜ぶのは早い。始めからこんなもの、眼中にはない」


 寝床で上半身を起こした阿修羅は、いつもの強気な言葉を発した。が、その顔はやはり満足気に笑っている。


「具合はどうだ?」

「ああ、もう随分いいようだ。そろそろ剣を振るいたくなってきた」


「おいおい。もう少し休ませてくれよ」


 阿修羅の解毒はそもそも体内に入った量も微量だったことが幸いし、大事に至ることはなかった。シッダールタの機敏な対応が功を奏した事は間違いない。


 むしろシッダールタの方が、毒に触れた手に微細な傷があって後から大騒ぎになったほどだ。倦怠感ぐらいで済んだが、モッガラーヤ達は冷や汗ものだった。


「意識を失っている間に夢を見たよ」


 シッダールタの手当てに胸に迫るものを感じながら意識を失った阿修羅。出来る事ならビンビサーラ王の息の根を止めた、シッダールタの勇姿も見たかった。


 だが、その英雄伝が行われている間、阿修羅は不思議な夢を見ていた。


「ん? どんな夢だ?」

シッダールタは阿修羅の顔を覗き込んだ。





 真っ白な世界で阿修羅は一人で立っていた。周りには何もない。いや、周りどころか足元にあるはずの大地すら存在していなかった。


 ふわふわとした空間で何も見えず、何も聞こえなかった。


 ――私は死んだのか? 毒矢に当たって……。なんともあっけないな……――


 不思議に恐怖はなかった。痛みも、そして悔いも。


『阿修羅……』


 誰かが阿修羅の名を呼んだ。


『誰だ!』


 辺りを見回すと、いつからいたのか一人の僧が阿修羅の目の前に現れた。それは確かに見覚えのある顔だった。


『おまえは……、シッダールタなのか?!』


 驚いて阿修羅は声を上げた。


『そうだ。私はずっと先の世界から来たシッダールタ、いや、その世界では既にブッダと呼ばれている』


『なに……! 馬鹿な、奴は出家などしない!』


 よく見ると、その “シッダールタ” は、今よりもずっと年老いて見えた。


『そうだな。そういう未来もあるだろう』

 ブッダは柔らかい笑顔を向けた。


『そんなことを話すためにおまえに会いにきたのではないよ、阿修羅。安心しろ、今はまだおまえが死ぬ時ではない』


『死に急ぐつもりはない』


 ブッダはすっと自らの手を伸ばした。阿修羅は何故かその行為に警戒せず、されるままにした。


『一つだけ覚えておいて欲しくてね』


 阿修羅の腕を取ると、傷口にゆっくりと触れていった。少し色が変わっていたその傷口は、ブッダが触れるとみるみる塞がっていき本来の艶々とした輝きを取り戻していった。


『私はいつもおまえを見ている。生も死も、時すら私を遮るものはないから。だから恐れずに行け。必ず一つになれる日がくるから』


『な、何を言っている! 待て、シッダールタ! ブッダ!』


 阿修羅は去り行く影の後を追ったが、もうその姿を見ることはできなかった。


 気が付くと自分の寝床にいて、看病に疲れたシッダールタがそばで寝息を立てていた。





「いや、くだらん話だ。それにもう忘れた」


 阿修羅はシッダールタから目をそらして口元だけで笑った。実際目が覚めてすぐ腕の傷口を見たが、赤黒い跡が残っていた。


「何だよ、まあいい。2、3日後にはカピラヴァストゥに戻ろう。いいな、おまえも調印式に立ち会うんだ」

「ああ、わかっている」


 だが、シッダールタから “カピラヴァストゥ” という言葉を耳にした阿修羅は、再び緊張をその身に覚えた。ルンピニーでスッドーダナ王に抱いた疑念が浮かびあがってきた。


 ――カピラヴァストゥ。そうだ、私は行かなければなならない。あの城へ……。この疑念の答えがあるような気がする――


 阿修羅のそのちょっとした表情の変化を、シッダールタは気づかなかった。もはや彼にとって、最高の時が始まったことを信じて疑わなかった。





 数日後、カピラヴァストゥの街はカピラ軍の勝利に酔い、沸き立っていた。

 その凱旋に人々は沿道を埋め、花吹雪と歓声とともに、兵士達(しょうりしゃ)を出迎えた。


 阿修羅はこの日、初めてカピラヴァストゥの人々の前にその姿を現した。人々はみな、その美しい軍神を一目見ようと集まり、白龍の周りは常に一層の人だかりを作っていた。


「なんと美しい。まこと軍神」

「カピラの守り神だ!」


 馬上で白く豪勢な鎧を付ける阿修羅は、病みあがりとは思えぬ眩しいほどの出で立ちとすずやかな瞳で、カピラヴァストゥの人々の心を魅了していった。


「まったくどちらが主役かわからんな」

 阿修羅の前を行くシッダールタは、からかうように彼女に話しかけた。


「主役はおまえさ」

 このような華やかな場は苦手なのか、阿修羅は何の抑揚もなく、憮然として答えた。が、その目は誰かを捜しているようにも見えた。


 ――母さん。まだカピラにいるのなら、ここに来ているだろうか。会ったところで何を言うわけでもない。だが……――


 聞きたいことは山ほどあった。しかし、阿修羅は今、それを母の口から聞く必要はないようにも思えていた。もっと確実に、疑問を解く方法と力が、自分の中にある事を感じていた。


 同様に、この沿道を埋め尽くす観衆のなかに人を捜す老兵の姿があった。


 ――カピラにいるのなら、必ずここに来るはずだ。この凱旋を見に来るはずだ。シャリーン、どこにいる!――





「よく戻られました、王子」


 城に入るとすぐ、シッダールタの継母(ままはは)、マーハラがその地位をわきまえず思わず駆け寄って来た。


「お義母さま。ただいま帰りました。御無沙汰をして申し訳ございませんでした」

 そんなマーハラにシッダールタは優しく応じ、その手をしっかりと握った。


「王子よ。本当によくやった。御苦労であったな」

 その後ろから王が声をかけた。


「父上」

 顔をあげた途端、シッダールタは声の行く場を失った。


 ――何と、おやつれになった事か!――


「さあ、おまえのために宴が用意してある。兵たちも皆、来るがよい」

 スッドーダナはシッダールタの驚きに気付いたのか、無理やり元気そうに声を張り上げ、兵達を誘った。


 ――阿修羅か――

 そして、王子の背後に阿修羅の姿を見つけ、以前にも増して輝く彼女に思わず鳥肌がたった。王はその動揺を覚られないように平静を装い、二、三ねぎらいの言葉をかけ手を差し出す。


 だが、阿修羅はその王の脅えにも似た動揺を、手に触れるまでもなく感づいていた。





 勝利の宴は三日三晩、国を挙げて行われた。城内は酔っぱらった兵士達であふれ、あちこちで大騒ぎをしていた。

 当然主役であるシッダールタも金糸銀糸のド派手な衣装、豪華な宝石を身に着け、宴の中心にある。


「シッダールタ王子。この度のご活躍、おめでとうございます。さすが末は聖王と呼ばれたお方。私もお供しとうございました」


 カピラ城玉座の間で、シッダールタは慇懃無礼な男に声をかけられた。シッダールタの従弟、ダイバダである。


「おお、ダイバダか。そう言うな。おまえがここを離れてしまっては、都を守るものがいなくなる。私が外で戦に専念できるのもおまえのおかげだ」


 シッダールタは努めて笑顔で答えた。ダイバダは幼少の頃より、シッダールタに敵意丸出しの従弟であった。


 シッダールタに対する予言に嫉妬を持つ者は、何も国外だけでない。安易に信用できない者は城内にもいた。だが、ダイバダは知力のある男だったので、シッダールタは国の警備を任せていた。


 そこには敢えて手元に置いて、もし謀反を起こせば有無も言わさず殺す、という父王との暗黙の了解もあった。


 とはいえ、残念なことにこの男には人望というものがない。謀反を起こすことは叶わなかった。


「彼女の姿はどこにも見えませんな。軍功章受領の際には見かけましたが」


 ダイバダは阿修羅を敢えて『彼女』と称した。阿修羅が女であり、シッダールタとの関係は既知である事を暗に示している。


「阿修羅はこういう場は好かんからな」

 少しむっとしてシッダールタは答えた。


「それは残念な。まあ、調印式まではまだありますゆえ、話をする機会はございましょう」

 ダイバダは口の端を不自然に釣り上げてそう言うとその場を立ち去った。


 ――全く食えない野郎だ。小者のくせに知恵が回るのがやっかいだ――

 

 シッダールタのカリスマ性を崇める者は多いが、それを妬むものも少なからずいた。ダイバダが王族の一人であるのも面倒な理由だった。両親ともに既に他界していたため後ろ盾はなかったが、安易に陥れることも難しい。


 シッダールタはそういう内輪の争いに知恵を回すのは好みでなく、むしろ自分の領分を侵したいのであれば受けて立つというスタンスだ。


 正直なところダイバダのねちっこい性格は苦手だったが、手を出してこない限り彼にとっては取るに足らない存在だった。





 阿修羅はシッダールタの言う通り、宴には疲労を理由に顔を見せる程度にしか出席せず、そのほとんどを用意された自室で過ごしていた。


「阿修羅、わ!」


 いい加減うんざりしたのか、三日目の夕方、浮かない顔のシッダールタが阿修羅の部屋を訪れた。


「おい、部屋の前に妙なものが置いてあるが」

「シッダールタか。気にするな、無粋なやつが来ないように仕掛けただけだ」


 シッダールタは部屋の前に置かれた罠のようなものを避けて部屋に入った。


「無粋なやつ? なんだそりゃ……」


 部屋を見ると、正装の白の上着が無造作に脱ぎ捨てられ、阿修羅はいつもの袖なしの衣のままで武具の手入れをしていた。


「先に言っておくが、もう私は宴には行かんぞ」

「わかってるさ」

「大体まだ調印式も終わっていないというのに、どういうことだ、この馬鹿騒ぎは!」


「まあ、そう言うな。兵達もようやく長い戦いから解放されたんだ。馬鹿騒ぎも勝利者の特権だ。大めに見てやれ」

「ふん、リュージュまであの浮かれよう。見ていられん」


 阿修羅は手をとめると、夕日に赤く染まる天の山々を見上げた。


「さあ、おまえはさっさと広間へ行け。皆が待っていよう」

「その事なんだが……」

「どうした?」


 シッダールタは少し顔を曇らせて話し始めた。


「父王のやつれ方には本当に驚いてしまった。継母の話だとここのところ食事も殆ど取られないと。いったいどうしたというのだろう。我が軍は勝利し、ついに印度国を手に入れたというのに」


 阿修羅もそれは感じていた。確かにルンピニーで出会った時よりも、一回りも二回りも小さくなったような気がする。


 が、その王の変わりようも、何か阿修羅には疑念を解く重大な鍵のように思われた。


「じゃあ、さっさと妃でも娶って王を安心させてやるんだな」


 半ば冗談とも取れないような口調でそう言うと、部屋付きのバルコニーへと出ていった。


「簡単に言うな。私の気持ちを知っていて意地の悪い奴だ。この宴が終われば、父王もその話をしてくるだろう。約束だったからな。この戦が終われば、妃を娶ると」


「そうか」

シッダールタに背を向けたまま、気のなさそうに返す。


「阿修羅」


 シッダールタは追うようにバルコニーに出ると、背後から優しく抱いた。体を少しだけくねらせる。彼女の束ねられた後ろ髪が揺れて、シッダールタの頬をくすぐった。


「私の妃になってはくれないか」

「!」


 一陣の風が阿修羅の心を吹き抜けた。時が止まる。それは瞬きの間のようであり、永遠のようでもあった。


「愚かなことを……」


 やがて呟くようにそう言うと、シッダールタの腕をふりほどいた。


「そんなこと、出来るはずもない。誰も許しはしない。いや、それよりも私は妃になどならん。言ったはずだ」


 手すりにもたれ、阿修羅は言った。


「どこの誰でもいい。さっさと別の女と婚姻しろ。私は今のままで充分だ」


「阿修羅。まことそれがおまえの本心か。私はおまえを妃とするためなら、父王や王妃、誰の許しもいらん。全てを捨ててもおまえを取る!」


「馬鹿な!」

 阿修羅は呆れたように吐き捨てた。


「忘れたか。私はこんなちっぽけな国などどうとも思っていない。私の望みはこんな物ではない。さらに大国を目指し、おまえをこの地上全ての王にする。捨てられてたまるか。これは一つの通過点だ。この国を踏み台にして先へと進む。それが私の望みだ」


 シッダールタは阿修羅の肩に手をかけた。強気の言葉と裏腹に、何故か今日の阿修羅は頼りなさげに見えた。


「私とて、この世の真の王となる事をただの夢とは思っていない。二人なら必ず出来ると信じているからな。安心しろ。私はおまえの他に妃を取る気など最初からない。おまえとこの世の果てまで駆け抜けて行く。命ある限り」


 右手を腰に滑らせると、シッダールタは阿修羅を抱き締めた。唇を求めて左手を首筋にあてがい、有無も言わさず阿修羅に口づける。


 阿修羅もシッダールタに反応するように両腕を肩ごしに絡めたが、やがてそっと引き離した。


「もういい。行け。皆が待っている」


 そう言うと背を向け、いつの間にか灰色に沈む天の山々をまた眺めた。その小さな後ろ姿が、一層シッダールタの心を捉えるのだった。




つづく


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― 新着の感想 ―
[一言] 今回は、あぁ、やはりそうなのか……という思いがしました。 シッダールタは仏陀なのだと。 物語を綴る言葉の選び方がとても好きです。
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