第七章 勝者(後編)
ついに印度国の雌雄を決する時がきた!
激闘の末に勝者となったのは!?
物語最高潮の戦闘シーンが繰り広げられる!
第七章 勝者(後編)
じりじりと肌を焦がす太陽が、いつの間にか東の空に昇っている。ビンビサーラの本陣を目指すカピラ軍、シッダールタの本隊もマガダ軍奥深く入り込んでいた。
阿修羅とガザの闘いもその決着が見えてきている。ここを抜ければ一気に本陣へ行けるはずだ。
「こいつ、この小柄な体で疲れを知らんのか!」
ガザは既に追い詰められていた。何度も阿修羅の切っ先を辛うじて防いできたが、息が上がってきている。
対する阿修羅は全く乱れがない。
――仕掛けてくるならここしかない。何かあるか?――
実は阿修羅はわざととどめを刺すのを遅らせていた。手負いのガザは阿修羅の相手ではなかった。それでも慎重にやらねば危ない相手ではあったが。
ビンビサーラ王が何か罠をかけているとしたら、自分も兵士も注意が集まるこの一騎打ちしかない。
そう考えていた。
――リュージュはいるか?――
自分のおよそ三馬身向こうに敵と戦いながら周りを探っているリュージュを見た。
今朝、阿修羅は彼に声をかけていた。
「私がガザと戦っている間は、絶対に気を抜くな。間違っても私を見てるなよ」
リュージュにとっては面白くない注文だったが、ここは従うしかなかった。
――しかしもう潮時だ! ガザ、死んでもらう!――
「覚悟! ガザ!」
阿修羅の鋭い切っ先がガザを襲った。射るような瞳はまさにキラキラと輝いている。
「くぅっ!」
辛うじて剣を当てるが余裕がない。渾身の力を振り絞って、阿修羅の剣を振り払った。
「これまでだな」
二人の激闘を視界に捉える小高い丘で、数人の兵士が阿修羅とガザの激戦を凝視していた。
「よし、もういい。射ろ!」
背の高い兵士が命令した。
「しかし、あれだけ二人が絡んでいては、阿修羅だけを狙うのは……」
「構わん。あやつに矢を当てられるのは、ガザとの戦いに集中している今しかない。矢は三本ある。三本あれば、倒せるだろう」
兵士は強い口調でさらに続けた。
「ビンビサ-ラ王の命だ。その三本の矢で必ず阿修羅を仕留めろと。あやつさえ倒せばカピラ軍など恐れるに足りん。犠牲は厭わぬと」
三本の矢を持った兵士は息を飲んだ。確かに三本あれば、その一本は必ず阿修羅に当てる自信はある。
だが、ガザはもちろん味方も入り混じっての戦場。一本めが阿修羅に当たる確率は高くはないだろう。
――しかし、やらなければ……――
マガダ軍一の弓兵は弓を引いた。二人が剣を叩きつけあう時、ほんの一瞬だが動きが止まる。その一瞬を待った。
必死に振り払った刃を持ち直し、ガザはもう一度挑んできた。そのさなか、阿修羅は一瞬動きを止めた。
――なんだ?! 何か光が見えた――
阿修羅はガザが剣を振りかざす肩越しに不穏な気配を見た。
――伏兵か!――
「リュージュ! 南の丘だ! 中腹に敵だ!」
返事をする間も惜しみ、リュージュが馬を走らせる。数人の部下が後を続く。
「よそ見をするな!」
ガザが剣を力の限り振り落とす。阿修羅はそれを軽くいなすと足で白龍の胴体を挟み自らの体を斜めに倒した。そしてガザの脇腹を狙って一気に剣を下から振り上げる。
その間、瞬きの隙もない。
「うわあああ!」
剣をもったままのガザの右腕が宙に飛んだ。血飛沫が舞う。
そしてその時!
「あ!」
得物を失くしたガザの動きが突然止まった。
「何!?」
大きな体が崩れるように倒れた。その首にはマガダ軍の矢が突き刺さっている。
――矢か!――
馬上に倒れたガザの影から、光る物が阿修羅の目に飛び込んできた。
――しまった! 間に合わん!――
二本目の矢が阿修羅の右腕を今まさに貫こうとしている!
「くっ!」
その瞬間、全ての兵士の目が一人の戦士に集中した。
機敏な動きでかわしたが寸でのところで間に合わず、二本目の矢は阿修羅の袖を割いた。
「阿修羅!!」
シッダールタの血の気の引いた顔が引きつる。
「来るな! 次の矢がくる!」
来る方向がわかった阿修羅は三本目の矢を難なく弾き飛ばす。
「くそ、これは毒矢だ!」
阿修羅が傷口を抑え呻いた。
「ははははは!」
しんと静まり返った戦場に、ビンビサーラの高笑いが響いた。
「その通りだ。さすが元盗賊、よく知っているな。これで勝敗は決した。その傷、かすり傷と思うなよ!」
「阿修羅!」
「シッダールタ、これは毒矢だ! 天の山に咲く毒花……」
阿修羅の声が弱々しい。
「ナダ、モッガラーヤ! 阿修羅と私を囲え! 動きを止めるな、戦え! 勝利はもうそこだ!」
シッダールタの怒声に我に返った兵士達は二人を囲むように駆け寄ると、再びマガダ軍と剣を突き合わせた。
丘では毒矢を放った弓兵たちが、既にリュージュの隊に肉薄されていた。
「阿修羅、しっかりしろ!」
シッダールタは馬上から降りると阿修羅を引きずり降ろした。そして自らの腕に抱えて袖を裂くと、右腕の傷口をあらわにする。
「シッダールタ、やめろ! これは猛毒だ……、触れてはならん」
「黙ってろ! 水だ、水を大量にもってこい! 飲み水をありったけ持ってくるんだ!」
戦場では水は貴重だ。だがそんな事を言ってる場合ではない。シッダールタは傷口をできるだけひらくと受け取った大量の水で洗い流しだした。阿修羅の血が地面を赤く染める。
「私はこれでも王位継承者だ。知識はある。貫かれてないのが幸いした。大丈夫だ」
阿修羅が倒れた事で一瞬士気が下がりかけたカピラ軍だったが、シッダールタの鼓舞もあって、ナダを始めとする武将達はむしろ猛然と攻めあがった。弓兵達を全滅させ戻ってきたリュージュも血気ばっている。
「阿修羅にもしもの事があったら、てめえら皆殺しだ!」
リュージュの振るう切っ先は異常なほどの殺気を帯びている。
対するマガタは、ガザ将軍を毒矢で射殺したビンビサ-ラの非情さに動揺を隠せず、気力の上で引き気味になっていった。
「早く解毒を! この毒の解毒剤はあったはずだ!」
充分に毒を洗い出したシッダールタは医療兵を呼んだ。
「大丈夫です。後は任せてください!」
阿修羅は既に意識を失っていたが、心の臓はしっかりと脈打っている。
シッダールタは阿修羅が弾き飛ばした矢を兵に拾わせた。
――十分だ。毒はまだある――
「誰か! 弓を持て!」
シッダールタは再び馬上につき、激戦の場へと走った。
「カピラの兵よ! 阿修羅は無事だ! 我に続け!」
大地が地響きを起こした。カピラ軍に雄叫びがあがる。
「リュージュ、援護しろ!」
「はっ!」
シッダールタは弓を手に、リュージュとともにビンビサ-ラ目掛け一直線に駆け抜けて行く。
「ビンビサ-ラ!!」
「むう!」
ビンビサ-ラは、既に敗走するべく背を向けていた。弓が届くか否かの距離だ。
「おまえは許さん! この矢を受けろ!」
振り向いたビンビサーラを真正面をに捉えると、シッダールタは渾身の力を込めて矢を放った。矢は真っ直ぐにマガダの王を狙って空を切る。
「うっ!」
ビンビサーラの左肩を矢は貫いた。
「王!」
「ひ、退け、退くんだ!」
マガダの兵達は城に向かってひた走った。
「やった! 追え! とどめを刺すんだ!」
カピラ軍兵士はシッダールタの見事な矢の命中に沸き立つ。
「追うな! もうよい」
「王子!?」
「なぜ!?」
もはや勝利を確信し、マガダ軍を追うべく馬に鞭を入れた兵達は、シッダールタの言に不服の声を上げた。
「毒矢は確実にビンビサーラを貫いた。あの矢には死に到るに充分な毒が塗られていた。ビンビサ-ラの命も長くはないだろう。自ら周到準備した毒のせいでな」
シッダールタはそう言うと、周囲の兵を見回して続けた。
「マガダ国から和睦の使者が来るのは時間の問題だ。ラージャグリハの城を攻めるのは、勝利を前提としても両軍多くの犠牲が出るのは必須。それは避けなければならない。この印度のために。これ以上の死者は必要ない。戻ろう。我々の場所へ」
「王子……」
上位の者も下位の者にも区別なく、語りかけるような王子の言葉に兵達は黙って従った。みな、王子の意を心に受け止めていた。
「かなわないな。もう」
そのなかに、ぽつんと呟くリュージュの姿があった。
――確かに……、王子は真の王となるだろう。それが出来る男だ――
リュージュは短く息をつき、馬を軽く叩くと前を行く軍を追った。
マガダ国攻略はカピラの勝利に終わった。鬨の声を上げる者もいない、静かな勝利だった。
――阿修羅――
シッダールタは眠り続ける阿修羅を自らの馬に乗せ、抱き抱えるようにして歩を進めていた。
――カピラヴァストゥに戻ろう。少しだけ休もう。いいだろう? 阿修羅――
阿修羅はシッダールタの腕の中、安心しきったように眠っていた。
つづく