第七章 勝者(前編)
マガダ国との再戦の火ぶたが切られた!
飛び交う弓、叩きつけあう剣の音、豊かな草原は一瞬にして血の海となる。
一方、カピラ国ではスッドーダナ王が驚愕の事実を語る!
第七章 勝者
阿修羅達が陣に戻ったのは、夜明けの予感が東の空に漂うころだった。
「阿修羅、刺激的な夜をありがとう」
「どういたしまして。昼までにカタはつく。眠るなよ」
「わかってるよ。安心しろ、眠れと言われても興奮して眠れない」
ぶっきらぼうに答えると、リュージュは阿修羅に背を向けた。
――ホント、色々と刺激的な夜だったぜ。ったく、人の気も知らないで――
リュージュはテントに戻ると、ナダ隊長に昨夜の報告をした。ナダは呆れながらも報告に満足し、直ちに先発隊出陣の命を出した。
「行くなと言っただろ!」
テントで阿修羅を出迎えたシッダールタはカリカリ怒っていた。
「しかも、リュージュを共に連れて行くとは!」
「何だ、うるさい奴だな。リュージュは身軽な奴だから、こういう時には役に立つ。おまえだってわかっているだろ。さ、行くぞ。出陣だ!」
ぶつくさわめいているシッダールタを無視し、さっさと鎧を身につけ、戦の準備を整えている。
――ガザに会いに行ったな。全く目が離せない――
シッダールタははぐらかされたままだったが、この退屈凌ぎの偵察のお蔭で敵の真意も掴めた。夜明けとともに総攻撃をかけるべく、全軍に号令をかけた。
「いよいよだな」
シッダールタはやや緊張した面持ちで呟いた。その呟きを受けて阿修羅がシッダールタに告げる。
「ビンビサーラは何を仕掛けてくるのかわからない。戦闘中であっても常に頭に置いておけ」
天に空色が鮮やかに蘇る。カピラ軍はラージャグリハ城を目指し進軍を開始した。
「敵だ!」
先発隊のナダ隊長は、城壁の前に幾重にも列をなすマガダ軍を認めた。
「行けえ!」
ナダの地声の数倍はあるかのような怒声が轟いた。同時にマガダの先鋒隊も攻撃に出、弓が放たれ雨のように振り注いだ。
「怯むな! 進め!」
ラージャグリハ郊外の草原地帯は一瞬にして両軍相乱れる死闘の場と化した。
「白龍、行くぞ!」
白龍の嘶きが天を突く。
阿修羅は本陣で指揮を取るシッダールタから離れ、戦場へと駆けゆく。乾ききっていた大地が、雨を得たように、生き生きと輝いている。
「ビンビサーラの旗を目指せ!」
群がる敵を苦もなく討ち取りながら、阿修羅は敵の懐深く切り込んで行った。
「阿修羅! 待て!」
黒い鎧を身に纏ったガザが、阿修羅の前に立ち塞がった。
その姿を認めた阿修羅は馬を止め、ゆっくりとガザの方へ進み出た。その瞳は冴え冴えとし、自信に満ちた笑みを浮かべている。
「ビンビサーラ王のところへは行かせない」
「一気にカタをつける。おまえと遊んでいる時間はあまりないからな」
阿修羅は剣を構えた。ガザも既に、臨戦態勢にあった。カピラ、マガダ両軍、最強の戦士による再戦が開始された。
だが、その様子をじっとうかがう冷めた目が、戦場を臨む丘にあった事を二人は気付いてはいなかった。
カピラ軍とマガダ軍が死闘を繰り広げているころ、カピラ国王スッドーダナは、一人の老兵の家へと向かっていた。
老兵の名はディーバ。その昔、まだ王が若く血気盛んであった頃から、教育係兼軍師として王に仕えていた。が、シッダールタ王子が軍を指揮するようになった二年前、年齢を理由に引退し、今はカピラヴァストゥの街に妻とともに余生を送っていた。
そのディーバの家に、スッドーダナは数名の共を連れ、忍びでやって来ていた。
「二人だけで話したい。ここで待っていてくれ」
「はっ」
王は扉の前で出迎えていたディーバと門をくぐった。
「どうされたのです、王。今や、カピラは印度国一の強国になろうとしている時。王子のご活躍に、私も陰ながら嬉しく思っています。それなのに、そのご心痛の様子は」
ディーバはその色つやを失った王の顔に、疑念の意を隠さなかった。
「ディーバよ。私は今、例えようのない不安に毎日恐れおののいている。これを救ってくれるのは、もはやおまえしかおらぬ。どうか私を助けて欲しい」
王はその頭を深々と下げた。
「止めて下さい。王、私は引退したとはいえ、心は今でも忠実な王の僕です。このような老体がお役に立つならば、いかなる事でもいたします」
「ディーバ……。その言葉、信じておるぞ」
王は、ディーバに阿修羅とシッダールタの事を話して聞かせた。今や、カピラ国で知らぬ者はいない軍神が、女である事も全て。
「あの軍神、阿修羅殿が女。これは驚きましたな。しかし、王子が阿修羅殿を愛しているとはいえ、妃にするわけではないでしょう。スッドーダナ王はマーヤ妃以外の女人をめったに近づけられなかったが、本来、王となる者に妾など何十人いても不思議はない。まあ、彼女が宮廷に入り、妾になるなどとは想像もできませんが」
「ディーバ……。おまえはシャリーンという女剣士を覚えているか?」
スッドーダナ王はディーバの気休めには関心を示さず、話を先に進めた。
「シャリーン。ああ、覚えております。剣の舞の第一人者であり、剣技の達人でしたな。確かウパーリ殿の所のお抱えだったかと」
「そうだ。人を斬る事はなかったが、彼女の剣の舞は美しく潔かった」
王の脳裏に舞うシャリーンの姿が浮かんで消えた。
「言われてみれば、王はシャリーン殿に熱心でしたな。だがあの女人は身持ちが堅いと評判で、しかもウパーリ殿が手離す様子なく、思うようにいかなかったと覚えております」
「それは表向きだ……。いや、表にはできなかったのだ」
「では、王はシャリーン殿と?」
ディーバは寝耳に水と驚いて尋ねた。
「そうだ。私は王妃がいるというのに、シャリーンに夢中になった。ウパーリも私がシャリーンに贈り物や文を送るのを渋い顔でみてたよ。だが、冷たくされると気持ちが傾くばかりで。王妃も具合が悪くて実家に帰る事が多くなっていたから」
「そのような事が……」
溜息ともとれる息をはいてディーバが言った。
「しかし、シャリーン殿はシッダールタ様が生まれたころ、ウパーリ殿の所から出たと聞いておりましたが。祝いの席で剣の舞を見せられないと言っておられました」
「そうだ。確かにウパーリはそう言った。体調を崩して実家に帰ったと」
「では、今更何故あの女剣士の話を?」
「ディーバ、シャリーンを捜し出して欲しい」
王はその皺深く刻まれた顔を両手で覆った。
「私はシャリーンを自らの地位を利用して自分のものにしたのだ。王妃とは全く違うあの凛とした美しさを手に入れたかった。だが、シャリーンはある日突然行方をくらました。私はすぐに追ったが、既にウパーリのところにもいなかった。実家に帰ったと言われて使いを送ったが、そこもシャリーンどころかもぬけの殻だった」
「王、まさか、シャリーンは」
王の暗い表情に、ディーバは思わず口を挟んだ。
「そうだ。おまえの思っている通りだ。シャリーンは子供を身籠もっていた。私の子だ。シッダールタが王妃のお腹にいた同じころ、シャリーンも私の子を……」
「なんて事を」
深いため息をディーバはついた。
「スッドーダナ王ともあろうお方が……」
「ああ、私は酷い王だ。いや、酷い人間だった。シャリーンに横恋慕して、そのうえにできた子供を……」
王は苦悩に顔を歪めた。
「私はシャリーンの子がもし男の子なら、災いの種となる前に殺さねばと考えていた。同時期に生まれる男児が後々シッダールタのためにならない事はわかっていた。全てシッダールタのため、予言者が口を揃えて言った偉大な王子のためだ。同じ私の血を受け継ぐ者なのに、私は自分勝手で残酷だった」
ディーバは王の告白を哀れに思いながらも腹立たしく感じていた。真っすぐな武将として生きてきた男にとって、この告白は簡単には腹落ち出来なかった。
「シャリーンはそれを恐れて城から抜け出したんですね」
「シャリーンはずっと自分を恥じていた。自分の望まぬ相手と結んだ事を。私はそれも面白くなくて、彼女につらく当たる事までした。彼女は自分の産む子供がどんなめにあうか、わかっていたのだろう」
再び王は肩を落として首を振った。
「ウパーリ殿は病で亡くなったと聞きましたが」
「ああ……。私に何を言う事もなく、何もかも秘密のまま逝ってしまった。」
ウパーリはカピラ国の昔ながらの豪族だった。妻は3人の子供を産んで亡くなっていた。富豪の豪族であった彼は芸事を愛する文化人で、その縁でシャリーンら舞人を抱えていたのだ。
「私は諦めず、シャリーンを捜した。ようやく兵から報せを受けたのは、すでにシッダールタが三つになる頃だった。ウパーリが死んですぐだったから、やはり逃亡を助けていたのだろうな。その兵が言うには、生まれたのは女だったと」
「女の子。名前は?」
「いや、名前はわからなかった。シャリーンはいつも用心していたようだ」
「そうですか。それでどうなさいました」
「私はもう、シャリーンを追うまいと思った。生まれた子供が女であれば、その必要はないと。シャリーンもその子も不憫に思えて、ウパーリの援助もなくなっただろうし、私は償いをしてやりたいと思った。兵に命じていくばくかの金を渡した。決して生まれた子に、父親は私だと知らせない事を条件に。シャリーンはそれを承諾した。だが、シャリーンはその後再び行方知れずとなった。九年前のあの日以来、今度は完全に……」
「あの日?」
ディーバはすかさず聞き返す。
「ディーバ。その後は聞くな。とにかくシャリーンを捜してくれ。私はどうしても彼女に問わなければならん事がある。こんな事を頼めるのはおまえだけなのだ。城の中には信用できない者もいる」
王は両手を組み、拝むようにそう言った。苦渋に満ちたその表情はやつれた顔を一層暗く映した。
「確かにそうですな…。承知しました。元より王の願いを断るつもりはございません」
複雑な想いを抱えながらも、自分を頼みにした王を拒否できるはずもなかった。ディーバは全てを飲み込むつもりで承諾した。
――あ……――
その時、老いたディーバの脳裏に一つの仮説が浮かび上がった。もし、それが真実ならば、王がこれほどにやつれ苦悩するのも頷ける。
――阿修羅殿は元は盗賊、素性の知れぬ者だったというが……。もしや――
ディーバは旅支度を始めた。
つづく