第六章 深夜の密会
マガダ国の首都、ラージャグリハ侵攻の前夜。
阿修羅は驚きの行動に出る。付き合わされたリュージュは?
第六章 深夜の密会
その夜、ラージャグリハ城が月明かりに浮かぶ郊外に、カピラ軍は陣を張った。
城壁が堅固に内にあるマガダの王族を守っている。なるほど攻めるには至極困難な難攻不落と言われた城である。
「どう思う? ビンビサーラは出てくるだろうか」
シッダールタは大木の下に張られたテントの中で、阿修羅とともに食事を取っていた。形は軍師との軍議だが、何の事はない、腹ごしらえしながらの雑談だ。
「あの性格だ。籠城はしないだろう。しかし、出てくる限りは何か勝機があっての事だ。油断は出来ない」
阿修羅はしかし、慎重に言葉を選ぶ。
「だがこちらにしても、あの城を攻めるのは容易じゃない。出てきてもらわなければ」
「ああ。マカダ国は、要するにビンビサ-ラ王だ。他に国や軍をまとめ上げられる者はいない。もし、本気で籠城するつもりならあいつを何としてでも誘き出さなければ。さもなくば……」
「さもなくば?」
「暗殺するしかないな」
「ぶっそうだな」
シッダールタは思わず食事の手を止めて阿修羅を見つめる。
「だが、たとえ失敗しても、やつを誘き出すにはいい手だ」
「馬鹿な! 逆に殺されるだけだ」
阿修羅は上目遣いに視線を投げ、口許からつい笑みが洩れた。
「ふふっ」
何か良からぬ事を企んでいる顔つきである。
「おい、阿修羅。おまえ何を考えているんだ。私は許さないぞ。今夜はここから一歩も出るな」
「ここから? ばかな、私は自分のテントに戻る」
阿修羅はカピラ軍でシッダールタに次ぐ位置にある。一人用のテントが彼女にも用意されていた。今、彼女を女と知るものは、シッダールタ以外ではリュージュだけだ。
ただ、既に衆知となった感のあるシッダールタとの関係から、口にはされなかったものの実際には気付いている者もいるようだった。
「やつが出てくるとしたら、夜明けには激戦だ。私は寝る」
食事を済ませた阿修羅は、さっさと席を立ち、シッダールタに背を向けた。
「阿修羅!」
シッダールタはその背に声を飛ばした。
「城へは絶対に行くな!」
「わかっている!」
振り向く事もなく、右手を振って阿修羅は言った。
「全く……、好戦的な奴だ。私といるより戦っている方が楽しいらしい」
シッダールタはふと不安になった。
この戦いに勝って、印度国を完全制覇したら、阿修羅は自分の元を去ってしまうのではないか。
新たな戦いを求めて行ってしまうのではないか。
――もちろん、私とて印度国だけで満足するわけではない。ここを手中に収めたら、まこと聖王となるべく、東へも西へも駆け巡るつもりだ。そう、阿修羅とともに、あの日の約束通り――
立ち止まる事はない。次の戦い、未開の地を求めて進み続ける……。シッダールタは、昨夜阿修羅が言った言葉を思い出した。
「シッダールタ、私は誰の物になるつもりもないし、私を縛る事は誰にも出来ないだろう。たとえおまえでもだ。私は婚姻も子供を産む事も興味はない。私が心惹かれるのは戦だけだ。このまま戦士として、軍神として生きていくだろう。私にはそういう生き方しかできないからな。明日、敵の刃にかかろうとも。ただ……」
「ただ?」
「おまえがもし、それでもいいと言うなら、私はおまえの傍にいる。おまえとともに戦う」
阿修羅は不自然にシッダールタから視線を逸らしてそう言った。
「阿修羅」
「私はおまえがこの地上の真の王となるためなら、どんな激しい戦いの中にも身を置ける。そして必ず勝つ。その気持ちに変わりはない」
再び顔を上げた阿修羅の瞳は、遥か遠く未来も捉えるほどの光を湛えていた。
――私とともに戦う。それが阿修羅の、彼女なりの愛なのだろう。精一杯の表現だったろう。だが、私はあの時聞く事が出来なかった。私が真の王となったその先、阿修羅がどうするつもりなのか――
不安な気持ちに胸をまさぐられ、シッダールタは横になってもなかなか寝つけなかった
――だが、阿修羅。私は決めたよ。私は決して妃を取らない。おまえ以外の女を愛する事はない。たとえ父王がなんと言おうと――
外はもう、夜が深まっていた。
「おい、リュージュ、起きろ」
数人の兵士が眠るテントで、リュージュは自分を呼ぶ声に目を覚ました。
「誰だ……」
「しっ、静かに。私だ」
リュージュは目を擦りながら上半身を起こした。
「なんだ、阿修羅。驚いたな、夜這いなら歓迎するぞ」
「馬鹿、何を言っている。ちょっと出ろ」
手で合図すると、テントの外へと出て行った。
「どうしたんだ。まだ夜中じゃないか。明日は早いというのに」
伸びをしながらリュージュが後を追った。
「ここのところ暇だったから、体が鈍っているだろう? 私と月夜の散歩でもしないか?」
「色気のある散歩なら喜んで」
「残念だな。血の気ならありすぎて困るぐらいなんだが」
阿修羅は口元の片側を軽く上げる。
「城か?」
呆れたような顔つきでリュージュは阿修羅を見た。
「ああ。ちょっと見物にな。やつらに、ビンビサ-ラに出陣の意志があるかどうか」
「偵察か。危ない奴だな。そんなの斥候に任せればいいだろう」
「奴に出る気があるのならそれでよし。もしなければ、少し脅しをかけてやる。斥候にはできないだろう?」
「脅し? 何をするつもりだ?」
いつもの事だが、穏やかでない文言ばかりが飛び出てくる。
「ん……、嫌でも出てくる気にさせてやるだけだ」
片目をつぶり、笑う阿修羅。月を背に青白く浮かび上がる。その魔性の美しさに、リュージュは思わず身震いした。
「さあ行くぞ。馬を引け」
「仕方無い。付き合うか」
闇に紛れ、ラージャグリハを目指す。松明が城のあちこちに炊かれ、ラージャグリハは臨戦態勢の様相を示している。
「どうやって忍び込むんだよ」
馬を木に繋ぎ、二人は城壁近くの森にやって来ていた。
「さすがに厳重だな。だが、何処かに穴があるさ。心配するな。私は夜目が利く」
阿修羅はリュージュの心配をよそに、飛ぶように木々を渡って行った。
「なんて広い城だ。カピラの三倍はある」
瞬きの間に、阿修羅は最も手薄だった門を見張る兵士を倒し、まんまと城内に潜入した。リュージュは城に入り、改めてその城の広大さに驚嘆の声を漏らす。
「城下の街の灯りがあんなに。大きな街なんだな」
「印度国一の大国、マガダの首都だ。当たり前だろう。それよりも見ろ、リュージュ」
城内で一際目立つ巨大な木の枝の上で、阿修羅は腕を組み、顎で方向を示した。
「城内の道という道、邪魔になる物全てを取り払い、きれいなものだ」
「ああ。それはオレも気がついた」
「どうやら、やるつもりらしいな」
阿修羅は目の前の小枝を一本折ると、口に加え満足そうに微笑した。
「おい」
「ん?」
「そう、幸せそうな顔するな」
「ふふっ。籠城なんかされたら、欲求不満で死んじまう。が……」
「どうした?」
阿修羅より下の枝に腰掛けていたリュージュは、見上げるように首を捩って言った。
「これはビンビサーラにとっても賭だ。だが、彼の事だ。十分勝算あっての事だろう。それが何か……」
「確かに気になるが……。阿修羅、これでもう夜明けとともに戦闘開始されるのは明白だ。帰ろうぜ。俺たちも陣に戻って準備しないと」
「あ……ああ、そうだな」
阿修羅の言葉に、リュージュは腰を上げる。だが、折角の二人きりだ。リュージュはちょっと阿修羅をからかいたくなった。
「なあ、阿修羅」
「なんだ? お望み通り帰るぞ」
咥えた枝をポキリと折ると、無造作に幹の穴に突っ込む。
「ところで、シッダールタとはどうだった?」
にやつくリュージュの突然の問いに、阿修羅は咄嗟の言葉も出ない。
「な、何の話だ」
「なにって、ナニだよ。決まってるだろ?」
いつも振り回されてばかりのリュージュなのに、今は阿修羅が返答に窮している。その様子がおかしくて可愛くて、リュージュはついつい笑みがこぼれる。
「く、くくく! その顔! たまんね~」
「バカ、静かにしろ! 敵に気付かれるぞ」
リュージュは必至で笑いを飲み込むと、
「いや、悪かった。阿修羅でもそんな顔するんだな。あ、だが、これだけは言っとくぞ。俺の方が王子より千倍上手い!」
くいっと胸を張るリュージュ。都で散々プレイボーイを鳴らした男だ。丸きり嘘でもあるまい。
思わず阿修羅も笑い出し、
「やめろ、笑わせるな。ホントに敵に気付かれる」
と、珍しく年相応の表情を見せた。
それから阿修羅は呼吸を整え、リュージュの気が収まるのを待って話し始めた。
「私が夜目が利くのはな。まだ幼いころ、盗賊たちから身を守るために身に付けたからだ」
「え?」
突然話がすり替わり、リュージュはしばらくついて行けない。
「7つの頃はまだ良かったさ。殴られる事は日常茶飯事だったとしても、十分に耐えられる。だが、10歳にもなると、やつらは私を体目当てで襲ってきた。ほぼ毎晩、代わる代わる、たまには数人一緒に。あいつらにとっては男でも女でもどっちでも良かったからな」
淡々と話す阿修羅。からかい気分がどこかに吹き飛んでいった。
「私を育ててくれた我楽という男も、それについては何も助けはしなかった。自分の身は自分で守る。その辺の連中に犯されるようじゃ、砂漠一の盗賊なんて夢のまた夢だ」
「阿修羅……」
その頃の阿修羅は常に緊張を強いられていた。剣の修行、隊商の襲撃、下働き、そして夜も眠る事が許されない。一時も気が休まる事はなかった。
盗賊たちの自分を見る目が変わってきた事に気付いた阿修羅は、目隠しでの剣の修行を始めた。
「灯りのある部屋というのは、どちらにも条件が同じになる。私は敢えて部屋を真っ暗にして、自分を有利にした。どんなに暗くても目が見えるように訓練したんだ。夜盗じゃなかったから、他に夜目が利くものはいなかった」
「大丈夫だったのか?」
恐る恐る尋ねるリュージュに、阿修羅はふふっと笑った。
「小娘を犯す。その愚かな望みを叶えられた奴は一人もいなかったな。そのうち明るくても私に敵う者はいなくなったし。お陰で私があの盗賊団で頭になるのが早まったくらいだ」
リュージュは暗澹たる気持ちに襲われた。わずか十歳で、男どもの餌食になるのを自らの知恵と力で防ぎ、その上で支配する事に成功した。いかに盗賊といえど、殺戮集団だ。容易い事ではなかったろう。
「という事で、男は王子が初めてだった。だから上手いも下手もわからん。悪かったな」
さらっと言われてリュージュは益々混乱した。
「あ! な、何だよ。もう……俺は道化か? ああ、もう帰るぞ」
結局藪蛇、からかうどころかのろけられる寸前だった。やけ気味にそう言うと、リュージュは大木から降りかける。
「待てっ」
阿修羅の指先がそれを留めた。
「ガザだ」
大木の下を、簡素な鎧をつけたガザが通っていく。阿修羅の瞳がにわかに輝いた。
「よせ。阿修羅、行くぞ」
「挨拶なしでか? ごめんだね」
言うが早いか、阿修羅の姿がリュージュの視界から消えた。
「あのばか!」
ガザはふいに背筋の凍る思いがした。自分の背中に凄まじい殺気を感じた。
「動くな」
阿修羅はガザの背後に降り、顎の下に短剣をつきつけた。
「やはりおまえか。驚いたな。なんて命知らずだ」
ガザは城内に侵入者ありの報を受けて、一人見回りをしていた。侵入者の数が、二~三人らしい事から、目的は暗殺か偵察以外は考えられない。王の回りは厳重にし、自分は城壁近くを見ていた。
この城に単身乗り込んで来るような非常識な奴は阿修羅以外にはいない。そう考えていたガザは焦ってはいなかった。マガダに出陣の意があるかどうかを、確かめにきたと予測していたからである。
「ふん。で、傷は治ったのか」
「お蔭さまで。丈夫が取り柄なんでな」
短剣を突きつけられても、ガザは動じる事なく軽口をたたいた。
「おまえを今、ここで殺ってもいいが、それでは面白くない。夜が明けたら、外で決着を着けよう」
「そう願いたいもんだね」
言い終わると同時に、ガザの体が素早く動いた。
「!」
阿修羅の短剣を右足で蹴り飛ばした。が、阿修羅も瞬時に反応し、空転すると飛ばされた短剣を掴み、ガザ目掛けて投げつける。ガザはそれを間一髪、剣の柄で防いだ。
「夜明けに!」
阿修羅はそう言い残すと、リュージュとともに闇に消えた。
「阿修羅……。恐ろしい奴」
残されたガザは、しばしそこから動く事は出来なかった。
つづく




