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第五章 激闘(後編)

マガダ国最強の戦士、ガザ将軍との激闘後、ふいに倒れてしまう阿修羅。

意識が遠のくなか、阿修羅が見たものは…。



第五章 激闘(後編)




 ――砂漠だ。私は帰って来たのだろうか。砂漠に……――


 阿修羅はたった一人、砂の海にたたずんでいた。空には太陽だけが輝き、風も音もなかった。


 ――私はマガダ国の兵士と戦っていたはずだ。シッダールタ、シッダールタは何処だ――


 阿修羅は周りを見回したが、人の姿はどこにもなかった。




『おまえは今日から阿修羅を名乗れ』


 ――! その声は我楽!――


 驚いて振り向く阿修羅の目に飛び込んできたのは、若き日の我楽と小さな自分の姿だった。


 ――なに? 一体、これは……――


『砂漠では風が見える。おまえにも見えるだろう。今日も乾いた風が、砂の海を渡るのを』


 我楽は幼い自分に何かを伝えようと語りかけている。


『あそこの砂の山。随分と大きなものだがあれをおまえは、昨日見る事が出来たか?』 

『いや、我楽。あのような山はなかった』


『そうだ。全ては風が運んだ。僅かな時の流れの中で』


『我楽、砂漠は毎日顔を変える。いや、一刻もその姿をとどめておく事はない。私もここに来て三年、それくらいはもうわかる』


『ほほお……』

 我楽はのどを鳴らして笑った。


『そうだな。だが、見えているものだけではない。全てはあの風に流れる砂のごとく、なに一つとして変わらぬ物はない。そして、今は石のように重く固い物も、いつかは砂になる』


『砂に?』


『そうだ。そして流れていく。何もかもとどめる事なく、悲しみも苦しみも、生きていた事さえ忘れさられるように』


『何が言いたい』

『さて、何かな』


 我楽の一人言のような言葉に、小さな阿修羅は軽く息をついた。


『我楽……。私の心にあるものは消えぬ。たとえ、我が身が滅びようと。忘れられる事はない』


 我楽は遠くを見つめるように目を細め、しばらく風の音を聞いていた。


『そうか。ならば俺はもう何も言うまい。ただ、これだけは覚えておけ。近い内におまえはこの砂漠で最強の者となるだろう。そうなる前に見た、この流沙を。修羅の王となるおまえへ、俺からの最後の教えだ』


 ――流沙――


 阿修羅は再び砂漠を見た。風も音もなかったはずの砂漠に、激しい風が砂を追い立てている。


 ――この音……。懐かしい――


 頬に腕に足に、容赦なく砂が叩きつける。しかし、阿修羅は気に止める事もなく、ただ黙って砂の風を見つめ続けていた。


 ――我楽――


 阿修羅はもう一度後ろを振り返るが、二人の姿はもうどこにもなかった。ただ、砂を狩る風の音だけが耳に残った。


 ――我楽よ。おまえは私に何が言いたかったのだ。私の内にあるものを、何も知らなかったはずのおまえ……。私が憎悪し、嫌悪していたもの。私が叫び続けていたもの。おまえは気付いていたというのか。この……、戦いに明け暮れるこの日々に、砂は今も流れ続けているのだろうか――


 阿修羅は泣いていた。何故かはわからず、ただ胸を締めつける痛みに耐え兼ねて。やがて、それが夢だと知れ、気付いていながら、夢の中で泣いていた。


 ――阿修羅――


 阿修羅を呼ぶ声がした。耳にではなく、直接心に問い掛ける声だった。そして、その声に、阿修羅はどうしても答えねばならなかった。自らの全てがその声に反応したがった。 


 ――阿修羅!――


 二度めにその声が届いた時、阿修羅は心の中でこう叫んでいた。


 ――シッダールタ!――


 意識は現実へと駈け昇っていった。





「よかった。気がついたのか、阿修羅」

「シッダールタ。ここは?」

「砦だ。おまえの部屋だよ」


 阿修羅は見覚えのある壁に、ようやく自分の居場所を悟った。目をシッダールタに移すと、そこに彼にしっかりと握られた自分の手を見つけ、思わず赤面した。


「私はどのくらい意識を失っていたんだ」 


「2時間程だ。ガザとやり合った時、脇腹に一発くらっていたんだ。気がつかなかったのか?」


「ああ。そういえば、倒れる瞬間どこかに痛みを感じたような」


「たいした傷じゃない。手当ては私がした。安心しろ。リュージュが気をきかせてくれたから、誰も見ていない」


「誰もって。何を……?!」


 握られた手を解いて、阿修羅は自分の体に触れ息を飲んだ。殆ど裸の姿だった。咄嗟に掛けられた織布を肩まで上げた。


「ど、どういう事だ!」

「そう怒るな。倒れた原因がわからなくて、とにかく鎧を外さなきゃならなかったんだ」


「冗談じゃない!」

 真っ赤になって阿修羅は横を向いた。


「マガダ軍は逃走したんだろう。小城は獲ったのか?」


「ああ、象軍は壊滅状態だ。小城はすでにもぬけの殻だった。今はモッガラーヤの隊が駐屯中だ。今度は一気にラ-ジャグリハまで行けるぞ」


「わかった。それまでまだ時間はあるだろう。少し休む。出ていってくれ」

 横を向いたまま、阿修羅は言った。


「そうだな。私も少し休むとしよう」

 シッダールタの席を立つ音が聞こえ、続いて扉に向かう足音が寝床に伝わった。


「待て!」

「ん? 何だ、阿修羅」

「あ……その。心配かけて済まなかった。次はガザとか言ったな、息の根止めてやる」


 阿修羅は背を向けたままそう言った。


「ああ」


 シッダールタは、頷くと扉に手をかけた。が、思いなおしたように振り向くと、再びその足を阿修羅の方へと向けた。


 それと背に感じた阿修羅の心臓は、飛び出さんばかりに打ちだしている。


「阿修羅」


 シッダールタの手が阿修羅の肩にかかった。いつもは束ねられた髪が解かれ、シッダールタの指に滑り落ちた。


「阿修羅。おまえが白龍より落ち、地に伏した時、私は本当に生きた心地がしなかった。心の臓まで凍りついたほどだ」


「シッダールタ」


 阿修羅はゆっくりとシッダールタの方に顔を向けた。


「おまえは知っているか。人は何度でも生まれ、何度でも死に、生と死の苦しみを永遠に享受しなければならないのだと。その罪の深さ故に、虫となり、馬となり、鳥となり、決して終える事なく生き続けるのだと」


「輪廻の法か」


「そうだ。私は幼い時、その説法を聞いてとても恐ろしく思った。人として生きる事すら長く辛く耐えがたいのに、虫や獣として生きるなんて……。食い物にされたり、いみ嫌われたり、容易に殺されるだけの存在となるなど」


 シッダールタは寝床に腰を掛け、優しく阿修羅の額から髪をいたわった。


「だが……、だが今、私はそれを少しも恐れてはいない」

「なぜ?」


「私はおまえを見つけた。もし私が死んでも、おまえが死んでも、私は何度でも生まれ変わっておまえを見つける。虫となろうと、獣となろうと、鳥となろうと。私は何にでもなっておまえを見つける」


「私が小さな虫でも? 海深くすむ魚や、疾風の狼でも見つけられるのか?」


 阿修羅はシッダールタの瞳を見つめた。その瞳には、横たわる自らの姿があった。


「もちろん私は見つける。おまえがどこにいようと、どんなものになっていようと。こうして、私がここでおまえを見つけたように、必ず引き付けられおまえを見つける事が出来る。阿修羅、この出会いは、最初で最後の出会いなんだ。永遠に続く出会いなんだよ。私は信じている。私の全てがそう叫んでいる。もう、二度と離す事はない」


「シッダールタ」


 阿修羅にとって、それは途方もない話だった。だがシッダールタの澄んだ目を見ていると、何故かその夢物語が真実のように思える。


「ならば私もおまえを見つけよう」


 寝床の足が木の擦り合う音をたてた。


「愛している」


 シッダールタの唇の動きを、阿修羅の唇が読み取った。互いの唇を絡めるように長いくちづけが交わされる。シッダールタは軽く歯をたてた。


「ん……」


 白く細い指先がするするとシッダールタの首にかけられていくと、身も心もそのまま阿修羅に落ちていった。床板に滑り落ちた織布がかすかに音をたてる。

 

 窓から差し込む夕日は部屋を赤く染め、絡み合う二人を血塗れのごとく映し出していた。





 カピラヴァストウにマガダ国の象軍を一掃したという報せが入ったのは、激戦の二日後の事だった。王妃のマーハラと連れ立っていたスットーダナ王は、美しい庭園に足を止め、使者を出迎えた。


「そうか。いよいよだな」

 そう言ったきり、王は黙り込み、考え込んだように目を地に落とした。


「いかがなされました?」


 マーハラが王の横顔を覗き込んだ。ルンピニーより帰城して以来、王は無口になり、食欲もなく見た目にもわかる程やつれていた。 


「いや、何でもない。少し横になるとしよう」


 無理に笑顔をつくるとスッドーダナ王は、城へと向かっていった。


「我が軍が快進撃というのに、王の心を傷めているものは何なのでしょう」

 マーハラは、老いた影を引きずる後ろ姿を見て呟いた。


 マーハラはシッダールタの母であるマ-ヤ亡き後、王の妃となったマーヤの実妹であった。その目鼻立ちはマーヤとうりふたつと言われる、聡明な女性だった。


「王の苦しみを少しでも和らげる事ができれば。私には何の力もないのかしら。姉君マーヤ妃がもし、生きていれば……」


 マーヤ妃はシッダールタを産み、わずか七日でこの世を去った。もともと体の弱かったマーヤは、産後の肥立ちが思わしくなく、王や医師、侍女達の看病虚しく死を迎えた。


 その後、妹のマーハラが王妃となり、継母としてシッダールタの世話をしたのだ。


 ――姉君の産後の肥立ちが思わしくなかったのは、あの煩い噂に心を痛めていた事もあったのだろう――


 マーハラはその事を思い出すと、王に対しての気持ちが複雑になるのだった。





「王! 今、使いの者が戻ってまいりました」

「すぐに通せ!」


 印度国で最も荘厳で強固と呼ばれたマガダ国ラージャグリハ城で、ビンビサーラは使者を待っていた。象軍の大半を戦闘不能にされ、屈辱的な敗走を強いられてから、ビンビサーラは憤怒で眠れぬ日々を過ごしている。シッダールタと阿修羅の首を取るまでは、その血走った目は容易には閉じられそうになかった。


「それで、あったのか」


 使者がかしずくのも待ち切れず尋ねた。


「ははっ、ここに」


 使者は小さな入れ物のような物を取り出した。


「これがそうか? こんなに僅かなのか?」

 ビンビサーラはその入れ物を手にすると、不服そうに言った。


「今の季節ではそれが精一杯です。おそらく矢に塗れるのは三、四本分ぐらいでしょう。しかし、かすり傷でもつけられれば、必ず息の根を止められます」


「うむ……。よかろう」


「しかし王、阿修羅は飛んでくる矢すらその剣で弾き飛ばしてしまう強者。かすり傷でもつけられましょうか」


 側近の一人が疑念の声を上げた。


「ガザの剣につけるというのはどうでしょう」

 別の側近が口を挟んだ。


「いや、それとてガザが先に殺されてしまえば元も子もない。だいたいこの前の戦でも完敗だった上に、あの時の傷がまだ治りきっていない。あれでは阿修羅を倒せまい」


 黙り込む側近たち。議場は一瞬静まり返った。


「大丈夫だ」

 その沈黙を不気味に破り、若き王は低い声で言った。


「私に考えがある。我が軍で最も弓の腕の立つ者を一人選べ」


「はっ」


「言っておくが、失敗は許されん。心してかかれ」

「心得ております」


「それからもう一つ」

 さらに声を低くして続ける。


「この事はガザには内密にしろ。決して気付かれるな」


 ビンビサーラの赤い目が、その奥深いところで邪悪な光を放っていた。





 カピラ軍はラージャグリハを目指し、進軍を続けていた。象軍をほとんど壊滅状態に追い込んだとは言え、マガダに時間を与える事は得策ではない。間髪を入れず、ラージャグリハを攻め落とす事が勝利への近道である事は間違いなかった。


「マガダ軍の本隊とはどのあたりでぶつかるかな」


 シッダールタが、隣で白龍の背にゆられる阿修羅に声をかけた。


「そうだな。ラージャグリハ城近くまで行かなければならないだろう」


 退屈そうに阿修羅は答えた。ここまで小さな小競り合い程度の戦闘はあったが、阿修羅の出番はなく、少々機嫌が悪かった。


「勝算は?」

「勝つさ。私がいる限り」

「確かに」


 シッダールタは、そう言うと阿修羅の方を見た。阿修羅はにこりともせず、手綱を引いている。


 ――ガザ……、今度は絶対逃がさん。私に傷を負わせたのはあいつが初めてだ。しかも気付かぬ内に……。奴とは絶対に決着をつけてやる――


 ガザに傷をつけられたのは、阿修羅が馬上から斬りつけた際、かろうじて振り回された剣が、偶然掠ったものだった。


 疾走している馬の速度と無駄のないガザのひとふりで作られた圧が、阿修羅の腹部、丁度鎧の境目だった場所に傷をつけたのである。それだけで倒れてしまった事は、ガザの力を認めたとしても、阿修羅にとって恥ずべく事で腹立たしく思う事だった。


 だが、これも戦闘前夜のシッダールタとの秘事が祟っていたのは言うまでもない。


「今日中にはラージャグリハ郊外に届くだろう。明日の夜明けには決戦となるかもしれん。今夜は見張りを厳重にした方がいいな。」


 阿修羅はシッダールタを見ずに言った。ふと宙に浮く視線、髪が風にさらわれていく。


 阿修羅をいつも瞳の中に収めていたシッダールタは、そのおくれ毛が陽に透ける様を見逃す事は出来なかった。唐突に自らの腕に抱かれる阿修羅の顔が浮かぶ。誰にも見せた事のない、自分だけが知る阿修羅の顔だ。


 ――う……ん……――


 声をたてず、わずかに眉間に皺を寄せながらもその頬は薄紅色に紅潮している。愛しいその名を呼べば、開かれる瞳には妖艶な光が宿ってみえた。


 ――い、いかん!――


 シッダールタの下腹部が反応する。今すぐにも抱き締めたくなる衝動が湧き起こったが、それを無理やり抑え、意味もなく咳払いを一つ二つした。





つづく

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