第五章 激闘(前編)
小国乱立のインドにおいて最強国マガダとカピラ軍はついに闘いを開始する!
インドの未来を左右する激闘が始まる!
第五章 激闘(前編)
「準備は出来ているか」
明け方近く、阿修羅はいつも通り支度をして隊へと向かった。
「はっ。仕掛けも作り終えております」
「よかろう。リュージュは?」
「もう、砦前においでになります」
「早いな」
阿修羅は昨夜のシッダールタの言葉を思い出した。
「リュージュが? そうか、すべからくカンのいい奴だからな。だが、気にするな。それを言い回る奴ではない」
「だが……」
「それに、いつかはわかる事だ。阿修羅、今更おまえが女だとわかっても、おまえがカピラにとってなくてはならぬ戦士である事に変わりはない。誰がおまえを排除できよう。もしそういう愚か者がいたとしても、私が命に代えてもそんな事はさせん」
シッダールタはそう言って笑ってみせた。
「この国を二人して駈け巡ろうと誓った事、まさか忘れていまいな。もう、おまえを誰にも渡さない」
阿修羅はシッダールタの語る目に、体の芯が熱く火照るのを感じた。が、努めて平静を装い、
「おまえを真の王にしてやるさ。それが私の望みだ」
こう答えるに留めた。
砦の前には、すでに態勢を整えた兵達が、将を待っていた。その中で、一際目を引く長身の男がリュージュだった。
「やあ、阿修羅」
「リュージュ、先発隊は日の出とともに出陣だ」
「ああ。阿修羅?」
「何だ?」
「王子のお守りは終わったか?」
不意を突かれたその問いに、阿修羅は一瞬ぴくりと眉を動かした。それと気がついたのか、リュージュの顔は失意とも好奇ともとれない、らしからぬ表情に変わった。
「その顔、カピラのおまえのファンが見たら嘆くぞ」
「ちっ、あんな女ども、ここの兵達にみんなまとめてくれてやるさ」
そうヤケ気味な口調で言うと、不機嫌そうに馬に乗り、ナダ隊長のもとへ駈けていった。
「そろそろ時間か」
その後ろ姿を眺めながら、一人言のように呟くと阿修羅は白龍に跨った。昇り始めた朝日が、阿修羅の鎧を鮮やかに輝かせる。
白龍の嘶きに、兵士達の緊張の糸が最も強く張り詰められた。
「出発だ、われに続け!」
振り上げられた剣が、この世の物とは思えぬ光を放って天を突いた。
その頃、マガダ国の若き支配者ビンビサーラ王は、ヴァイシャーリーの城で、ガザ将軍の出陣を見届けていた。
「いつぞやの言葉、よもや忘れてはいないだろうな」
「心得ております」
「うむ。吉報を待っているぞ」
城の外では大勢の象たちが、戦を前に興奮した唸り声を上げている。
「では」
ガザはもとより無口な武将だった。言葉少なに王の前を去ると、その筋肉の張った体を軽々と馬に乗せた。
「ガザ! 阿修羅を必ず倒せ!」
一礼して歩を進めたガザ将軍の後ろを兵士達が続く。
その時、伝令の兵士が慌てて駆け込んで来た。
「王、大変です!」
「何事! 王の御前だぞ!」
「お、お許しください。しかし……」
「よい。どうした」
玉座から覗くように、ビンビサーラは身を乗り出した。
「はっ。ヴァイシャーリーに向かって来る敵に、シッダールタ王子の旗が認められました。王子が出陣している事は間違いないようです」
「何?!」
マガダの若い王は膝を叩いた。
「あの馬鹿者が、この時期に前線に出て来たというのか! 飛んで火に入るなんとやらだ。ガザ、私も行くぞ。この手でシッダールタの首、切り落としてくれよう!」
玉座から降りるとビンビサーラは武具を身に付けた。
「マガダの象軍をなめるなよ」
その目は残酷な光を帯びていた。
「そろそろ敵の先鋒隊と対峙する頃だろうリュージュ、策通りにいくぞ」
「わかっている。阿修羅、おまえは後方へ下がれ。目標は後ろの方がいい」
「そうだな、そうしよう。ここは任せたぞ」
「ああ」
阿修羅の白龍が後方へと下がっていく。その後ろ姿をリュージュはじっと目で追っていた。
「王子は阿修羅の心を捉えたか……。阿修羅の刺すような目が心なしか柔らかく感じる。大体、透ける様な肌に薄桃色のあざときたら……」
ふっと自嘲気味にため息をつき、憂鬱な気分に襲われる。が、首を横に振るとすぐ気を取り直して下腹に力を入れた。
「さあ! 今日の俺は機嫌が悪い。マガダの野郎ども、覚悟しとけ!」
リュージュの束ねられた長い髪が、風に流れていた。
「ビンビサーラ王、お喜び下さい。我が軍優勢のうちに戦いは進んでいます」
マガダ軍本隊、ビンビサーラは部下の報告に満足していた。
「そうだろう。さすがのカピラ軍も象軍には勝てんとみえる」
「はっ、ガザ将軍の騎馬隊もよくやっております」
「そうか。で、シッダールタと阿修羅は?」
「まだ、二人のいる本陣には届いておりません。敵は敗走中です」
「かまわん、追い詰めろ。砦まで攻め込み一気に落としてやる!」
ビンビサーラは自らも象に乗り、前線へと急いだ。
「シッダールタ、そろそろ象軍が届く」
「うむ。そのようだな。我が軍は?」
「リュージュがうまくやっている。そろそろ東の森に逃げこめるだろう」
「ビンビサーラめ、ろくな軍師もおらんとみえる」
シッダールタは余裕の笑みを見せた。
「弓を持て!」
阿修羅の声が響く。自らも弓を持ち、シッダールタの前に壁を作った。象の走る地響きが敵の到来を告げる。
「シッダールタ!」
象軍の中央からビンビサーラの怒鳴り声が耳に届いた。
「今日がおまえの最後だ。この数の象軍ではいかにおまえでもどうする事も出来まい!」
勝利を確信しているマガダの王は、象の上で声を上げて笑った。
「それはどうかな」
シッダールタが冷ややかに応じる。
「ふん。この後に及んで負け惜しみか。オレは容赦しないぜ。おまえなぞ、ぺしゃんこにしてやる」
ビンビサーラの合図で、何百頭とも見える象軍が一斉に押し寄せた。弓を構えたカピラ軍は、誰一人動かない。
「行けぇ!」
さらにそう畳み掛けて叫んだ時、ビンビサーラの乗った象が傾き、突然彼を振り落とした。
「何!?」
象の大きな体はバランスを崩し、前足は地中に埋もれていた。
「落とし穴だと!」
次々と悲鳴のような声を上げて、象が穴に落ちていく。後続の象達も穴に落ちた象に躓き、将棋倒しになっていく。
「今だ! 矢を放て!」
シッダールタの号令とともに、一斉に放たれる矢の嵐。
「しまった! くそ!」
いつの間にか、東の森から現れたリュージュ達も象軍に攻撃をかける。先刻の言葉通り、リュージュは憂さ晴らしのごとく、敵を蹴散らしている。
阿修羅の策は、象軍をできるだけ横に広げないような場所に誘い、縦に長くする事だった。そしてその行く手には落とし穴を掘っておく。深い必要はない。象は大きいがために足元が見えないのだ。誘われるがままに突入した象たちは、阿修羅の策に文字通り落ちた。
「た、退却だ!」
ビンビサーラは倒れる象達の中で、右往左往している。穴の中に敷いてあったいばらの刺に絡み、象が巨体をのたうちまわらせているのだ。
「王! この馬に乗り、お逃げ下さい!」
「ガザ!」
リュージュ達に撒かれたガザの騎馬隊が、ようやく本隊に追いついた。
「後は私が!」
這うように逃げ出すマガダ軍を追うべく、カピラ軍の馬に鞭が入る。阿修羅の白龍もシッダールタと共に続く。
が、前を行く兵士達が馬上の黒い影に阻まれ、一歩も進めなくなった。
「何者だ!」
阿修羅はシッダールタの前に馬を止めた。
「阿修羅か?!」
「そうだ。貴様は?」
黒い影は、真っ黒な鎧をつけたマガダ国の兵士だった。
「マガダのガザだ!」
名乗ると同時にガザの鋭い剣が阿修羅を襲った。二つの剣が雷光を放った。刃がぶつかり合う度、それはきらめき大気が震える。
――ガザ!?――
シッダールタはその名に聞き覚えがあった。昔、まだ彼が幼くカピラがマガダに属国扱いされていた頃、マガダ国一の戦士と先代マガダ国王が自慢していた男。
真っ黒な鎧をつけた無口な戦士。
――阿修羅、手強いぞ!――
「くっ!」 ――重い!――
阿修羅の眉間に苦痛の皺が刻まれる。
「はっ!」
剣を押し返し、阿修羅は白龍を走らせた。
――ついて来い! ガザ!――
「逃げるか! 阿修羅!」
追うガザ。馬を激しく打ち続ける。
――速い! なんという馬だ。この私が追いつけんとは!――
鞭を持つ手が痺れてきた。が、白馬は疾風のごとく走る。ふいに白龍はその身を翻した。そして次の瞬間、猛スピ-ドの馬の背に、阿修羅が立ち上がった。
「何!」
風が阿修羅の束ねられた髪を巻き上げる。流れるような髪が天を刺す。剣をガザの真正面に構え、走り狂う馬の背にいながら微動だにしない。
――魔……、妖魔!?――
一瞬、ガザは我を忘れた。その全身が総毛だつような恐ろしさと同時に、この世のものとも思えぬ美しさに目を奪われる。鼓動一つ程の時間、完全に止まったように感じた。
「覚悟!」
阿修羅が白龍の背を蹴り、空を飛んだ。
――いかん! かわせるか?!――
ガザの頭部を目掛け、阿修羅の剣が振り降ろされた。
「う!」
疾走する馬上でガザは辛うじて剣を振った。だが、白く光る冷たい刃がガザの左腕を掠めた。
「しまった!」
飛び散る血しぶき。
――傷は深い!――
背中で口笛が響く。馬を翻すと、既に阿修羅は体勢を整え、白龍がまさにその主を乗せんと間近に迫っていた。
――これまでか!――
「ガザ将軍! 王は無事退避されました!」
騎馬隊の生き残りが前方で叫んでいる。
「よし! 我等も撤退だ!」
リュージュ達と戦っていたマガダ兵達も、次々と後退し出した。
「逃げるか、ガザ!」
白龍に難なく着地し、ガザを追う阿修羅。
「阿修羅! 今日は私の完敗だ。しかし、次は負けん!」
左腕を押さえたガザはそう言い残して、戦線を離脱した。
「深追いするな、阿修羅!」
シッダールタが叫んだ。阿修羅は白龍をとどめ、シッダールタの元へ戻った。今日の戦いは十分な戦果があった。これ以上の深追いの必要はないだろう。
「大丈夫か? 阿修羅」
「ふっ、久々にプレッシャーを感じる相手だった」
――シッダールタに感じたものとは、全く異質なものだったが……――
額の汗を拭う阿修羅は、ふいに目眩を感じた。
――あ、痛っ……――
地面が突然近くに見えた。
「阿修羅!」
シッダールタの声が耳を擦ったのを最後に何もかも闇に閉ざされた。
つづく