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第四章 光と影(後編)

シッダールタはついに自分の想いを遂げることができるのか?

マガダ攻略を前に神をも恐れぬ夜が更けていく



第四章 光と影(後編)




「で、何の話だ」

 観念したように阿修羅はシッダールタと向かい合った。


「まあ、そう改まれると言いにくいが。とにかく、砦に突然来たのは悪かった。兵達の手前、おまえの立場も考えてやればよかった。だが、とにかく会いたかった」


 阿修羅はしばらく何も言わなかった。が、頬のあたりが熱くなるのを悟られそうで少々慌てる。


「いや、もうそれはいい。実際、象軍を倒し城を攻略するのに、おまえなしではどうにも確実な策がたてられなくて焦っていた。おまえの旗印がいるのだ。それを見た時、正直言ってほっとした」


 ――確かに、シッダールタの顔を見た時、私はほっとしていた。だが、理由はそれだけだろうか……――


「そうか。ナダから明日からの城攻めの策は聞いた。確かに私がいた方がよさそうだ。ああ、それを聞いて私も少しほっとした」


 ふふっと阿修羅が笑みをこぼした。


「あっ、やっと笑った」


 シッダールタは阿修羅の寝床に腰掛けた。そして言葉を選ぶように天井を見やる。


「阿修羅、なぜ男のふりを」

 天井を向いたままそう言うと、ゆっくりと視線を阿修羅の方へ向けた。


「物心ついた時から、母は私を男として育てていた。男と同じ仕事を、同じ歳の者以上にしていたよ。私はずっと、母が男としての労力の方が金になるからそうしていたのだと思っていた」


「命を狙われていた事と関係あるのではないか?」


「そうかも知れん。実際、母は私の名を呼ばなかった。お蔭で私は自分の名を知らん。でもそれについては、母から何も聞いた事がないから皆目見当もつかんさ」


 阿修羅は自嘲するように笑って見せた。


「大体その事は、今となっては大した意味を持たん。私はずっと、私自身男として生きる事を望んでいたから」


「なぜ?」

「なぜ……だと?」


 阿修羅は厳しい瞳をシッダールタに投げた。


「決まっているだろう。女なんてくだらない生き物だからだ。私の母は、自分の居場所を求めて男に抱かれた。私たちは一つ所に居られなかった。母の芸は見世物小屋で人気はあったが、それだけでは置いてもらえない。小屋の連中は仲間ではない。母に人気が出ると、平気で陥れる。」


 何がスイッチとなったのか、いつもは冷静な阿修羅が支離滅裂にわめきだした。まるで今まで堰き止められていた濁流が突然溢れ出たように。


「阿修羅、だがおまえの母だって、おまえと生きていくため仕方なく……」


「は、笑わせるな! 奴隷はそんなに甘くない。自分のくいぶちは自分で得る。それができなきければ、死ぬか、売られるかだ。母は私を労力と認めている限りは私を男として働かせるつもりだったろうが、その先はわからんさ。宮殿で平和に暮らしていた奴には想像もつかんだろうがな」


 ――何を言ってるんだ。私は! シッダールタの言う通りじゃないか! でも!――


 阿修羅は脳裏に浮かぶ思考を振り切るように言葉を続けた。


「私は力が欲しかった。どんな権力にも屈しない力が。だから、盗賊に拾われた時、私は誓った。男になると。男として剣技を磨き、必ず名を馳せた盗賊になってやると。私は我楽とともに来る日も来る日も剣を持った」


 小さな体で岩のような大男に向かっていった。何度も何度も砂の上に叩きつけられた。そんな光景が浮かんでは消えた。


「照りつける砂漠の太陽の中、汗が滝のように流れた。涙すら乾ききって、体中の水分が一滴もなくなるぐらい剣を振るっても、私はその手を離さなかった。頭の芯まで空っぽになって倒れるまで、我楽や他の盗賊達に向かって行った。私の心にあったのは、憎しみしかなかった。誰に対してなのか。何に対してなのか、それすらも定かではない何か」


 そこまで言って、阿修羅はふいに黙り込む。


 ――違う……。私は自分自身を恥じていた。母を置き去りにして逃げた弱い自分を嫌悪していたんだ。女の自分を憎んでいた!――


 阿修羅は怒りに任せて吐く言葉と裏腹に、自分の心の声にあらがう事はできなくなっていた。ようやく気付いた。おのれが憎しみを向けていたのは自分自身だった。


「阿修羅……」

「ははっ。笑えるな」


 突然、阿修羅は首を横に振って笑い出した。


「どうした?」

 シッダールタが心配そうに声をかける。阿修羅はふっと軽い溜息をついた。


「そうか。そうだったんだ……」


 髪を逆立てるほど怒ったかたと思うと急に空気が抜けたように脱力する阿修羅。突然の変化に戸惑うシッダールタに、阿修羅はゆっくりと言葉を繋いだ。


「今になって気付いた。私の心にあった憎しみの矛先は自分自身だったようだ。私は母を置き去りにして逃げた自分の弱さが憎かったんだ。力のない自分が許せなかった。確かに母が夜、私を外に出して男を迎える時、哀れで、惨めで、母を嫌悪したのは本当だ。幼心にも傷ついた」


 阿修羅はぽつりぽつりと昔語りを続ける。


「だが、自分がいるために母がそうしている事もわかっていた。母を嫌悪するという事は自分を嫌悪する事だったから、母を憎むという感情は不思議なほどなかった。いつしかそれが苦しくなって、女そのものを疎んじたのかもな」


 シッダールタは何も言わず、ただじっと静かに耳を傾けていた。


「強くなりたかった。その負いから逃れるために。だから命を削っても圧倒的な強さを手に入れようとしたんだ」


 ――もう母に会う事は叶わない。何故かそう思えて、それが悲しくて、苦しくて、悔しかった――


「十二の時、私は盗賊達から “王” と呼ばれるようになった。もはや私に勝てる者は砂漠にはいなかった。その頃からだ。 “流沙の阿修羅” と恐れられ始めたのは」


 そう話し終えると、つかれたように阿修羅は肩を落とした。


 ――自分が何者と戦っていたのか、今頃気づくとは滑稽な話だな。いや、気付いていて認めたくなかっただけか……――


 阿修羅は座り直すと、改めてシッダールタを見て話し始めた。


「シッダールタ、母が別れ際に言った言葉“シッダールタ”の名。私はその意味をずっと考えていた。母の口から“シッダールタ”という名を聞いたのはあの時が初めてだった。あの時はまだ幼くてわからなかったけれど、私を殺しにきたのは間違いなくカピラ軍の兵士だ。母は何を伝えたかったのか?『シッダールタを探せ』?『シッダールタに会え』?」

  ――あるいは『シッダールタを殺せ』――


「それを、それを確かめに来たのか?」

 

 シッダールタは優しい目をして阿修羅に言った。どのような言葉を聞こうと、全てを包み込む事が可能なほどに優しい目を。


「そうだ。私はなぜ、殺されなければならなかったのか……。いや、本当は復讐しに来たのかもしれない、自らの人生に。母をあんな目に合わせて生き永らえなければならなかった私の人生に。私は我楽からおまえが出家せず戦に明け暮れていると聞いて、いてもたってもいられなかった。もしもおまえが真の聖王となるのなら、私自身、この歴史の中で意味を持つ存在なのか、それとも単なる歯車の一つなのか。それを確かめたかった」


 阿修羅とシッダールタはお互いを見た。あの日、初めて会ったあの時と同じように二人の視線は交差する。


「阿修羅、おまえの母君がおまえにした事は私にはわからない。おまえが命を狙われたわけも。だが、これだけは言える。幼い頃の母君との別離、母君を残した事を悔いているようだが、おまえは少しも悪くない。幼かったおまえにできる事はなかっただろう」


 シッダールタは言葉を選びながら阿修羅に語りかける。


「そして、覚えておいて欲しい。おまえが生きてここにいる事が私にとっての全てだ。おまえ無しでは、私の戦いに勝利はない。そして、おまえ無しでは私は生きていけない」


 阿修羅はシッダールタが言い終わると、目を伏せ口を閉じた。本当のところは、返す言葉が見つからなくてただじっと黙って俯いていた。


「これでは、答えにならぬか。ああ、私も一汗流したくなった。明日に備えてどうだ?」


 シッダールタは、壁に立て掛けてある試技用の剣を取った。


「いいだろう」

 ようやく口を開いた阿修羅はゆっくりと立ち上がった。




「そこ! 甘い!」

「いて!」


 阿修羅の一太刀がシッダールタの腕に入った。


 五本やれば四本は必ず阿修羅が取る。シッダールタも軍きっての使い手ではあったが、阿修羅から一本取るのは容易な事ではなかった。


「まだまだ!」


 砦の中には闘技場はない。広めの軍議室で二人は剣を打ち合っていた。


「阿修羅、相変わらずの腕前だな。だが、今度は一本取らせてもらう」

「させるか!」


 声とともに飛び込んで来た阿修羅の剣をすばやく防ぎ、押し返す。二人の吹き出す汗が飛び散る。


「もらった!」


 シッダールタが飛び、剣を振り下ろす。


 ――やった!――


 一瞬の心の隙だった。口許が勝利の予感に緩むその僅かな瞬間、阿修羅が消えた。


「しまった!」


 シッダールタの剣は空を切った。


「あっ!」


 金属の乾いた音とともに燭台が倒れた。勢い余ったシッダールタの剣が燭台に当たったのだ。瞬きの闇。やがて、窓からの弱い三日月の光が灯りの代わりに部屋を包んだ。


「気を抜くな!」


 背後に阿修羅の気配がした。シッダールタは咄嗟に腰を低くし、剣を地に這わせた。


「!」


 手応えはあった。バランスを崩した阿修羅は体を翻し、体勢を整えようとした。が、倒れた燭台に足を取られた。


「あっ!」

「阿修羅?」


 月明かりに阿修羅が倒れたのが見えた。


「大丈夫か?」

「ああ、平気だ」


 阿修羅は稽古に疲れたのか寝ころんだまま動かず、大きく息を吐いた。


「疲れたのか?」


 阿修羅の指先から剣がこぼれた。目の前が真っ暗になった途端、シッダールタの黒髪が頬に触れた。


「何……」

「動くな。阿修羅」


 どこかで燭台が転がる音がしている。


 阿修羅の体はシッダールタの影の中にすっぽりと入っていた。瞳の中にお互いの姿が映る。


「人が来るぞ」


「誰も来ないさ」


 シッダールタの声が耳をくすぐる。熱を帯びた手が頬に触れるのを感じた。


「愛している」


 ためらいがちな唇が、一度風のように触れ合った。


「阿修羅」


 そして再びそれは重ね合わされると、お互いの全てを奪い取るほどに強く求め合った。 


「あ……」


 阿修羅の喘ぎともとれる声が洩れる。どちらも溢れる思いを止める事は出来なかった。心臓を鷲掴みされたように、阿修羅は頭の中が真っ白になるのを感じた。


「阿修羅、おまえを愛している。男であろうと女であろうと、私にはどうでもよかったのだ。阿修羅、おまえを、おまえ自身を愛しているのだから……」


「シッダールタ……」


 シッダールタは阿修羅の衣に手をかける。鍛え抜かれた、しかし美しい胸元と半身が露わになると、シッダールタの指が唇がその上を愛おしそうに這っていく。


「あ……んん……」


 阿修羅の手を放れた剣が月を映す。夜が更けるのも気付かず、シッダールタは阿修羅を抱き続けた。冷たい床に体が冷める事もない程、激しく、熱く。


 神をも恐れぬこの夜に、もう一つの運命が扉を開けた。



 


 その夜、カピラヴァストゥの丘高く、カピラ城は季節はずれの雷雨に見舞われていた。 


「何だろう……。この不吉な夜」


 スッドーダナ王は雨音に眠れず、亡き王妃の事を久々に思い出していた。


「マーヤよ。シッダールタにとって、この道は正しかったのだろうか。私は時々わからなくなる。アシタ仙人の望まれた救世主とは何も出家する事だけではないと私は信じていた。王としてこそ、人々を幸せにする事は出来るのだから」


「スッドーダナ王」


 振り返った王の視線の先に、雨に濡れ、疲れきった顔のアナンが立っていた。


「アナン! 待っていたぞ。どうであった?」

「王よ」


「どうした。早く申せ」

「王よ。驚かずにお聞きください。阿修羅は……」


 アナンは一つそこで息をつぎ、王の顔を見上げて言った。


「阿修羅は女です」

「何だと。あの阿修羅が女?」


「しかも……、王子は阿修羅を愛しているようです」

「なに? 今、何と言った?」


 そう口にしたきり、王は言葉を失った。


「王、阿修羅はどうやら、このカピラ国の身分の低い生まれのようです。幼いころ盗賊に拾われ育てられたのですが、なぜ砂漠に出たのかは、まだ……」


「カピラの生まれ? 砂漠……」


 スッドーダナ王の思考を悪夢のような疑惑が突然支配した。そして唐突にあの夜見た阿修羅の剣さばきを思い出した。


「まさか……」

「王?」


「アナン、阿修羅が砂漠で盗賊に拾われたのはいつごろの事だ?」


「え……。盗賊に襲われた商人や盗賊崩れの奴隷達の話で、確かな事はわかりませんが……。今の年齢から考えて、おそらく阿修羅が七、八歳の頃だと思います」


 王の顔からみるみる血の気の引いていくのが見て取れた。


「王、いかがされました?」


「いや……、なんでもない。もう阿修羅の事は調べなくてもいい。この事は誰にも言うな、絶対に。わかったら下がってよい」


「王?」

「下がれ! 今すぐに」


 わなわなと唇を震わせる王を怪訝に思いながら、アナンはその場を去った。


「ああ……。なんという事だ。まさか! あの災いの者、シッダールタの影!」


 王はその場に座り込み、激しい雨の中、轟音とともに暗天を駈ける龍に恐れ震えていた。





つづく

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