序章 旅立ち
歴史ファンタジー「流沙のごとく」連載小説です。
記念すべき第一話。
序章 旅立ち
吹き抜ける砂の風のなか、何もかも乾ききった灼熱の下で、一人の少年が遠くを見つめていた。獣の皮で作られた鎧をつけてはいるが、その華奢で細い腰と整った顔立ちは少女のようにも見えた。
流れるような黒髪はつむじの辺りで束ねられ、風に音をたてている。少年は、砂の原を陽炎のように揺れるキャラバンを見ていた。
「王。あの隊商は西の国のものでしょうか」
少年の背後に控えていた大男が尋ねた。男は髭面のいかにも肉戦型といった風貌で、腰には大きな刀剣をぶら下げていた。
「そうだな。背負った荷が重そうだ。少し軽くしてやろう」
“王” と呼ばれた少年はにやりと笑い、指で何かを合図した。
「はっ」
大男が頭を下げ、後ろを振り向いた。その視線の先、くずれかけた岩影には数人の荒らくれた男達が潜み、合図とともに一斉に立ち上がった。
「行け!」
少年の声とともに、ある者は馬を駆り、ある者は素早い足取りで走り出した。
「ピュウ!」
少年の口笛が砂上を渡る。何処からともなく白い馬が砂の波を蹴散らし駆けてきた。
「白龍!」
優雅な跳躍で白馬に跳び乗ると、男達の先頭に立ち、揺らめく影へと突き進んで行った。
「盗賊だ! 逃げろ!」
突然舞い上がった砂煙りに、隊商の商人達は慌てて逃げ惑った。が、草の一本も生えぬ砂漠では、隠れる所も無い。荷を捨てて逃げるも、その命は盗賊の手の内にあり、もはやどうする事もできなかった。
「白い馬の盗賊! “流沙の阿修羅” だ! 阿修羅王だ!」
商人の一人が恐怖に満ちた叫び声を上げた。
『流沙の阿修羅』
商人達はみな、その名を砂漠の砂嵐よりも恐れていた。隊商の傭兵達も、彼らの前に次々と血に塗れ、砂に埋もれていく。
「おう! 私は阿修羅王だ。命以外はここに置いて行け。それを拒む者に容赦はしない」
白馬の上で阿修羅は余裕の笑みを浮かべる。盗賊どもはすでに隊を取り囲み、もはや蟻の這い出る隙も無い。
「わ、わかりました。どうか、命だけはお助け下さい」
隊商の年長者が、懇願するようにそう言うと、商人達は砂にうつ伏して震えた。その姿を阿修羅はいつもの冷めた目で見下ろしていた。
「王、今日の収穫はなかなかの物でしたな。これなら市でも高く売れます」
「ああ」
勝利の宴、盗賊どもが上機嫌なのに反して阿修羅は常に不機嫌だった。酒も殆ど口にせず、ただ不満気な顔で頬杖をついている。舞い踊る女たちにも無関心だ。
傍に控える大男は、宴の間中、阿修羅の機嫌がこれ以上悪くならないよう言葉を探した。
「そうだ。王、この話を御存知ですかい。今、印度国の天下を治めんと戦をしかけている王子の事を」
砂漠の盗賊達は、隊商の商人達より、宝の他に豊富な情報も得ていた。西の国、北の国、そして砂漠が隔てる印度国の出来事も細部に到るまで掌握していた。
印度国は今、小国乱立の緊張高まる時期。その印度を統一しようとしている王子がいるのだと言う。
「王子? 印度での強国ならば、マガダ国かコーサラ国か?」
「いえいえ、それが違うのです」
男は楽しむように、阿修羅を焦らす。
「何だ、我楽! 早く言え!」
我楽は阿修羅が食いついたことに満足して言葉をつなげる。
「それが驚いた事に、あのカピラ国なのです」
「カピラ国?! シャカ族の?」
そう言って、阿修羅は飲みかけの杯を膝に置いた。
「シャカ族は昔から穏健で、国は領土的にも軍事的にも小国だ。それが何故? カピラ国の王子と言えば……」
「シッダ-ルタでございます」
“シッダ-ルタ” 。阿修羅のような盗賊ですらその名を知っていた。
十六年前、その生まれし時、仙人アシタよりこの世の救世主になると言われた王子。剣を取れば聖王となり、法を取れば仏陀となって広く印度国ばかりではなく宇宙を救うと。
「ふん。馬鹿な、本当に聖王にでもなるつもりか」
阿修羅は鼻で笑うと、珍しく酒を飲み干し大声で叫んだ。
「さあ。おまえたち、もっと歌え! もっと騒げ!」
「おおー!」
盗賊達の宴は夜明けまで続けられた。
朝日の眩しさに瞼を焼かれ、我楽は漸く目を覚ました。
―― 王? 王は何処におられる?――
阿修羅の部屋に、主の姿はなかった。そればかりか、彼の身の回りの品が幾つか無くなっている。
「王!」
我楽は慌てて阿修羅の愛馬、白龍の小屋へと走った。
「阿修羅王!」
白馬の傍に旅支度を整えた阿修羅の姿があった。
「ああ、我楽か」
いつもの不満げな様相とは違う、すっきりとした表情で阿修羅は我楽を見た。
「何処へ行かれるのですか?」
その嗄れた声を益々かすらせて我楽は尋ねた。
「我楽。私が盗賊としての自分に満足していない事、おまえは知っているだろう」
我楽は阿修羅の言葉に黙って頷いた。
「おまえには感謝している。七つの時、印度国より命からがら逃げて来た私を救ってくれた。そして、生きる術、戦う術を教えてくれた。私が “流沙の阿修羅” と呼ばれるまでになったのもおまえのお蔭だ」
「王……」
――ついに来たのか。この日が……――
我楽はその身体に似合わず涙脆かった。もう既に、その目に涙を溜めている。阿修羅はそんな我楽の姿に優しいまなざしを送ると、俄かに表情を引き締め、
「私は今一度印度国へと戻り、そしてこの手に天下を取ってやる」
そう言ってくっと右手の拳を固めた。
「カピラ国へ、シッダールタの軍へ行くつもりだ」
「シッダールタの!?」
我楽は飛び跳ねるように顔を上げ、驚きを隠さなかった。
「まこと奴に聖王としての器があるのか、この目で見てやりたい。もしその力があるのなら手を貸してやってもいい。だが……」
「だが?」
「とんだ食わせ物なら思い知らせるのも悪くない。いずれにしろ、最後は私の物となる」
阿修羅は我楽の方を見て、片目をつぶってみせた。
「阿修羅王。私もお供させてはもらえないか」
阿修羅はそれには答えず、白龍に跨がった。
「我楽。私は天下取りには興味があるが、天下を治めることには興味がない。いずれ私はここへ帰ってくる。おまえには私の帰る場所を守っていて欲しい」
我楽は馬上の阿修羅を見上げた。気負うでもなく、へりくだるでも無く、いたって自然体で阿修羅は我楽に顔を向けている。
「王。あなたがいつかここから去るのはわかっていた。印度国すら王には狭い場所でしょうから。初めて会った時からそう感じていた。どうか、ご無事で」
我楽は阿修羅の目を見つめた。あの日と同じように。
「我楽、元気で。皆にも伝えろ。今日からおまえがここの王だ」
阿修羅は踵を返し、東へと視線を送った。
「行け! 白龍!」
白龍の胸腹を左足で蹴った。白龍は嘶き、砂を巻き上げ走り去って行く。
「阿修羅王!」
だんだんと遠ざかる砂の柱を我楽は何時までも見送っていた。
つづく