5 オーク
青い月が中天を過ぎ、それよりも小さな緑色の月が木々の梢の隙間から見え始めた。
逃げ出した直後は気が付かなかったが、俺の体は小さくないダメージを受けていたらしい。怪獣大戦争の現場を離れ、少しほっとしたと同時に、腕や背中がズキズキと痛むのを感じるようになった。
しかし、緑の月の光が俺の体に当たると、痛みが和らぐようだ。魔法なのだろうか。本当にここは不思議な世界だ。
痛みが引いた後、よく見ると自分の体が少し筋肉質になったような気がする。これも月の光のせいなのか。そうこうするうちに、やっと住み慣れた群れの縄張りに入ることができた。
俺たちの群れの縄張りは暗黒の森の東、大体20㎞四方の範囲だ。この中を移動しながら、小動物や虫を獲ったり、木の実や根を採取したりしながら暮らしている。
移動するのはいくつか目的がある。
まずは効率よく食べ物を得るため。
俺たちゴブリンは基本狩猟と採取で暮らしているため、餌場を定期的に変えたほうが効率が良いのだ。
幸いこの森は広大であり、尚且つ豊かだ。生まれてから一度も飢えに苦しんだ記憶がないことがそれを示している。
俺はまだこの世界で人間の姿を見たことがない。
人間のいない世界なのか、単にこの辺りが未開の地なのかは分からないが、ひょっとしたら『人間がいない』ということが、この自然の豊かさをもたらしているのかもしれないな。うんうん、いいこと言った俺。
次に安全に子供を育てるためだ。
ゴブリンは繁殖力が強く、短期間で成熟するとは言っても、やはり子供は弱い。小さい子供や出産を控えたメスが多い時は、ある程度しっかりと身を守る場所が必要になる。
そのため、俺たちの縄張りには何カ所かの営巣地があるのだ。大抵は森の中にある岩場の洞穴や大木の洞がある場所、倒木が折り重なってできた空間など、大型の魔物が入ってきにくい場所が選ばれる。俺が今向かっているのもその一つだ。
最後の目的は、強敵から逃げるためだ。
俺たちゴブリンはこの森では捕食対象の最弱モンスターだ。食料を求める捕食者に狙われることは多い。
ウルフ種やオークなどがその代表格だ。その他の魔物にも遭遇することがあるらしいが俺はまだ見たことがない。とにかく強敵が来たらその場から逃げるのが、唯一の手段なのだ。
捕食者の方も心得たもので、ゴブリンを全滅させるようなことはしない。それをやったら、自分が飢えることになるからな。ただ定期的に襲撃はあるので、群の一部を犠牲にしながら何とか生きながらえているわけだ。
人間の俺から見ると理不尽を感じないわけではないが、群れが大きくなれば、餌場も足りなくなるわけだし必要悪といえるかもしれない。
もっともこんなことを考えるようになったのは、人間の記憶を取り戻してからだ。ゴブリンの時は、本能的に知っていた感じだな。やはり知識や思考というのは、大切なんだと感じる。
まあ考えて分かったのは、自分が犠牲になる立場だったってことだけどね。
そんな自然淘汰の運命に翻弄される自分を思いながら移動するうちに、目的の営巣地の目前までやってきた。
この営巣地は巨木が倒れてできた広場のような空間で、倒木の隙間に隠れることで、俺たちは身を守ることができるのだ。
ん?よくよく考えてみると、何でこんな場所が森の中にあるのだろう?ゴブリンの時には思いもしなかった疑問にぶつかった。あの木々の幹には、大きな爪痕みたいのがあったような・・・。
ひょっとしてあの巨木をなぎ倒すような魔物が暴れた跡だとか。いやいや、いかんいかん、こんなフラグを立てては命がいくつあっても足りない。ハイ、やめ。この話、やめやめ。
営巣地に近づくにつれ、何か激しく争うような音が聞こえてきた。何かあったのだろうか。嫌な予感に俺は足を速め、物陰に隠れて慎重に営巣地を観察できる場所に移動した。
営巣地では多くのゴブリンたちと一頭のオークが戦っていた。
オークの足元には、棍棒で潰されたゴブリンの死体が折り重なっていた。オークの体にもゴブリンの投石や棍棒で付けられたと思われる傷が多数あり、その体は血で染まっていたが、それを気にする様子もなくオークは棍棒を振るい続けている。
その目は真っ赤に染まり、口からは緑色のよだれが垂れていた。それを見て俺はやっと気づいた。あれは俺を襲った奴、そしてこいつは、はぐれオークだ。
オークはゴブリンほど大きな群れを作ることはないが、それでも家族を中心に小集団で行動する。狩りなどを行うときも大体2~3頭で行い、単独で行動することはほとんどない。
しかしオークの中には時として、単独で行動する変異体が出現することがある。それがはぐれオークだ。
はぐれオークは目についた生き物すべてに襲い掛かり、手当たり次第に食らいつくす。それは同じ群のオークでさえ例外ではない。
はぐれオークは普通のオークよりも力が強く、また耐久力も段違いに高い。そして何よりどんな状況になっても決してひるむことはない。狂ったように戦い続けるのだ。
俺がはぐれオークを見るのはこれが初めてだが、群れの年寄りから聞いていた特徴とそっくりだったことからそれに思い当たった。
だとするとこの状況は相当まずい。普通オークはゴブリンを1~2人仕留めたら、それ以上戦うことはない。戦う意味がないからだ。
しかしはぐれオークはそうではない。生きているものがいる限り戦いをやめることはないだろう。このままでは群れが全滅してしまう。
それが分かっているから、群れのオスたちも死に物狂いで戦っているのだ。しかしオークを止める決定打に欠けていた。
この群れの長であるゴブリンリーダーは先頭に立ち、オークを牽制し続けているが、もうどれくらい戦い続けているのか、その顔には焦りと疲労がありありと見えていた。おそらく長くは持たないだろう。
群れを失うことは、死ぬことと同じだ。俺にできることはないか。
手元には魔獣の角があるが、俺の力ではオークの体を傷つけることはできても、致命傷を与えることは難しいだろう。他のゴブリンたちも同様だ。どうにもならない・・・。
そう思った時、ついさっき見た戦闘の様子が思い浮かんだ。あのフクロウ熊は、木の上から滑空してウルフを仕留めようとしていた。俺にも同じことができるのではないか?
そう思ったところで、ゴブリンリーダーの持っている棍棒がオークに弾き飛ばされた。バランスを崩し、それでも紙一重で攻撃をかわすリーダー。迷っている時間はない。やるしかない。
俺は角を口に咥えると、オークとリーダーの戦っている近くにある高い木を選んでにスルスルと上る。なんか穴の壁を上った時よりもスムーズに登れた気がするぞ。
地上まではおよそ10mほど。高所恐怖症ではなかったが、ここから飛び降りることを考えると足がすくんでしまう。しかし、やらなければ俺の大事な群れはなくなってしまうのだ。
勇気を振り絞れ、後藤 武!
俺は胸の前で角をしっかりと握りしめ、オークに狙いを定める。狙うのは首の辺りだが、でかい体の中心付近ならどこでもまあ御の字だ。
しかしオークの動きが速く狙いを定めることができない。焦ってオークの動きを見つめる俺とゴブリンリーダーの目が一瞬合った。
その直後、群れの長であり、俺の父でもあるリーダーは不敵な笑いを浮かべると、オークの足に組み付いた。オークの動きが一瞬止まる!
それに合わせて、俺は勢いよく木から飛び降り、外したら確実に俺が死ぬことになる一撃を、オークに叩き込んだ。
自分の胸に押し当てた角に全体重をかけて体ごとオークにぶつかる。幸運にもほぼ狙い通り、左の首筋に角を突き立てることができた。
しかし角はオークの左首筋付近から胸に向かって30㎝ほど刺さったところで止まってしまった。
硬い岩にぶつかったような衝撃が角から伝わり、角を押し込むべく押し当てておいた俺の胸からは、骨の折れるバキっという音が響いた。衝撃と胸の痛みで、息をするのも忘れてしまう。
さすがのオークも驚いたようで、棍棒を手放し左肩に乗った俺に掴みかかってきた。角が刺さった傷口からは噴水のように血が吹きあがっているが、オークの動きは止まることはない。
この野郎に何とかとどめを刺さなくては。俺はオークに掴まれたことを利用して足場を固定し、オークの頭を横から掴むと大きく体を反らした。
「ウガァァァァァァ!!」
力の限り叫び声を上げると、刺さっている角に思い切り頭突きを入れた。頭の奥でゴリっという嫌な音がして、目の前に星が飛び散ったが、刺さっていた角はさらに20㎝程オークの体にめり込んだ。
俺の足を掴んでいたオークは、俺をそのまま空中へ放り投げると口から血と咆哮を吹き出しながらしばらくその場で身悶えしていたが、やがて動きを止めそのまま背中から仰向けに倒れた。
俺は受け身も取れず地面に叩きつけられた。体のあちこちから、骨の折れるパキパキという音が聞こえる。
オークの倒れる様子がやけにゆっくりと見えるなぁと、場違いなことを考えながら、俺の意識は闇に飲まれた。完全に意識を失う前のほんの一瞬、何故かあの5年生の子供たちが笑顔で手を振る様子が見えたような気がした。
個体名:なし(後藤 武)
種族名:ゴブリン
生息地:暗黒の森
装 備:魔獣の黒角
レベル:3
スキル:登攀L1 潜伏L1 武器防御L1