4 群れを目指して
穴を出た俺は、手に入れた魔獣の角を右手に持ちながら、月が作る濃い影を利用して、少しずつ移動していた。
もともと移動する予定だった場所は、俺たちの群れが利用している営巣地の一つだったので、おそらくそこを目指せば間違いないだろう。
進む方向は大体見当がついているのだが、ゴブリンの記憶の中には方角の概念がないため、どの方角に進んでいるのかはわからない。
だが今出ている月の方向や記憶にある太陽の上る方向から、おそらく東に向かっているだろうと思っている。
そうやって考えてみると、俺たちの群れが生活しているのは暗黒の森の東の外縁部ということになる。
ゴブリンの時にはほとんど意識しなかった周囲の状況が、人間の記憶や知識と組み合わさることで明らかになっていくのは霧に覆われていた視界が開けるようで、何とも言えない感慨がある。
そうやって記憶をたどってみると、俺はまだゴブリンとして生まれてから3か月余りしか経っていないことに気が付いた。
魔物としてのゴブリンの優位性に繁殖力の高さがある。
群れは一人のリーダーを中心にして、数人のメスがハーレムを作って出来上がる。メスの妊娠期間は1か月ほどで、一度に5人から10人の子供が生まれる。ハツカネズミみたいだな。
何、ゴブリンだから人じゃなくて匹じゃないのかって?いやいや、俺、中身人間だからね。俺の主観で話してるんだから、人で合ってるよ。まあ、こまけぇことはいいんだよ。
生まれた子供はすぐに自分の足で立って歩くことができ、だいたい3か月くらいで一人前のゴブリンになる。一人前っていうのは、動物の狩りに参加したり、木の実や根の採集をしたりできるようになるって意味だ。
実際今の俺の力も、人間だった頃と比べて随分と強い。おそらく身長は120㎝くらいだが、握力は100kgを超えてるんじゃないかな。壁とか普通に指をかけてスイスイ登れたからね。イメージとしては人間よりチンパンジーに近いかもしれない。
そんなゴブリンだが、暗黒の森では最弱の魔物で、他の魔物に捕食される立場だ。繁殖に適した年齢にまで成長できる個体は稀なのだ。割とすぐ死ぬんだ。うん。今回俺が生き残れたのは、本当に運がよかったと思う。
俺の人間としての記憶は「いやいやそんなことより、この状況どうよ?」と問いかけてくるが、ゴブリンとしての本能がまずは生きるという選択をさせているのだろう。今の俺は自分でも驚くほど冷静だった。
今はとにかく慎重に移動して、群れを目指すことだ。どうか強い魔物に出会いませんように。
そう思ったせいかは知らないが、俺は自分で立てたフラグを速攻で回収することになった。
十分に気を付けて、木の陰から移動しようとした途端、20mほど先からこちらを見つめる赤い二つの目を見つけてしまったのだ。
慌てて木の陰に隠れたものの、時すでに遅し。暗闇の中、こちらにまっすぐ向かってくる四足獣の姿がはっきり見えた。あ、これタゲられてますね。もう、詰んだかもしれない。短いゴブ生だった。南無。
俺がそう思ったのは、近づいてくる四足獣がウォリアーウルフであることに気が付いたからだ。体長は優に4mを超え、体高は今の俺よりもはるかに高い。
鋼色に輝く体毛はその色が示す通り鋼のように硬くゴブリン程度の攻撃では傷つけることができない。
おまけに森の中を自在に動く敏捷性と鋭い目と耳、鼻を持っているため、逃げることもままならない。普段俺たちが生活している森の外縁部ではまずお目にかからない上位モンスターだ。
あの恐ろしいオークでさえ、こいつの前ではただの獲物に過ぎないのだ。この状況で生き残るのはさすがに無理ゲーすぎるだろ。
俺がまだ子供の頃に、外縁部でこいつの下位種であるソルジャーウルフに群れが遭遇した時は、リーダーの号令の下、作戦もへったくれもなく、みんなてんでばらばらに逃げ出した。
その時、俺はまだ母親であるメスゴブリンに手を引かれを必死に逃げるだけだったが、しばらく後に群れのみんなと合流した時には、群の半数以上がいなくなっていたのを覚えている。
群れを作らず、単体で狩りをするこのウルフ種は、俺たちゴブリンにとって天災以上の脅威なのだ。生き残った群れの年寄りが俺にそう言い聞かせてくれた。
その群れを壊滅させかけた怪物以上の化け物が、今俺に向かって真っすぐに向かってきている。何とかしないとと思った時にはすでに、俺の目の前に怪物の鋭い爪があった。俺の胴より太い前足を振りかぶり、攻撃してきたのだ。
無意識のうちに俺は持っていた魔獣の角を両手で前にかざし、身を守っていた。金属同士がぶつかった時のような凄まじい衝撃音がし、かざした両手が砕けるかと思うほどの衝撃が伝わってきた。
その直後、俺の体は吹き飛ばされ、後ろの木に背中から激突した。
激突のダメージで肺の中の空気が一瞬で抜け、視界が暗転する。
しかし湾曲した角のおかげで、偶然致命的な爪の一撃を逸らすことができたようだ。信じられない幸運に驚く間もなく、震える両手で角を握りしめ、頭を振ってウルフをしっかりと見つめた。
しかしウルフはすぐに攻撃してこなかった。
ただの餌だと思った俺に自分の一撃が防がれたことを警戒しているのだろう。赤く光る眼を細め、こちらの様子を窺う気配がした。やっぱりこいつは頭がいい。
まあ、追撃されたら次は防げないと思うけど。ウルフもすぐに同じ結論に達したようだった。ほんの少し後ろに体を引いた後、勢いをつけて弾丸のように俺に飛びかかってきた。
その時、ウルフの左上方から巨大な影が飛び出し、ウルフに襲い掛かった。
飛び出した直後で空中にいたウルフは、完全に不意を突かれた格好で、そいつの攻撃をもろに受けた。ウルフの毛皮が裂け、血があたりに飛び散る。俺は余りの事態に動くこともできないまま、新たな襲撃者の姿を見た。
一言で言うなら、そいつは巨大な熊だった。ただ人間の俺が知る熊とは全くかけ離れた姿だった。
ウルフに負けないほどの巨体をしたその熊は、フクロウの顔を持ち、全身を羽毛に覆われていた。前足には退化した羽根のような小さい翼がついている。
昔テレビで見た鳥人間コンテストの出場者のようだと思った。この熊は音もなく落下してきて、ウルフを前足の短剣のような鉤爪で引き裂いた。おそらく木の上から滑空してきたのだろう。
ウルフはその勢いのまま押さえ込まれそうになった所を紙一重で回避し、熊と向き合った。ダメージは大きいようだが、致命傷というわけではなさそうだ。
2頭の魔物は俺のことそっちのけで、互いに威嚇の声を上げている。逃げるならこの時しかない!そう思った俺は、東へ向け一目散に駆け出した!今は乗るしかない、このビッグウェーブに!
ぶつかり合う魔物たちの咆哮を後ろに聞きながら、身を潜める物陰を探しつつ、俺は死に物狂いで群れのもとへと走り続けた。
個体名:なし(後藤 武)
種族名:ゴブリン
生息地:暗黒の森
装 備:魔獣の黒角
レベル:3
スキル:登攀L1 潜伏L1 武器防御L1