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義民の末裔 その八  作者: 三坂淳一
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義民の末裔 その八

九月二十三日、正午、早馬を乗り継いで江戸に着いた赤井喜兵衛は主君の備後守政樹に拝謁して、今回の百姓騒動の顛末を言上し、結論として、追徴課税に関しては撤回する他、採るべき道はございません、と進言した。

 政樹は喜兵衛を労った後で、次の言葉を発し、騒動の早期解決を命じた。

百姓が騒擾を起こしたのは無理もない。こうなった上は、幕府並びに周辺の藩への聞こえもあるから、お前は急いで帰って、夫役金の免除を図って、百姓の騒擾を鎮めよ。

 一方、国許では、一揆頭取たちの指示に従って、二十三日、二十四日と今年収穫された籾の納入が行われた。城方が安堵したことは言うまでも無い。

九月二十六日、夕刻、江戸から舞い戻った喜兵衛が家老たちに藩主の意向を伝えた。藩からの回答は百姓方全面勝利という方向になるかと思われたが、内藤舎人は、このままでは藩として百姓たちに示しがつかない、今後のこともある、百姓たちを勝たせたままではならない、掟破りに対するみせしめのためにも、一揆の首謀者たちには厳罰を与えねばならないと主張した。

 十月五日、藩主からの回答を伝えるという藩からの連絡を受けて、武左衛門、長次兵衛、与惣治含め十一人が赤井喜兵衛宅に集まった。赤井は、いろいろと問題はあるものの、とにかく全面的にお前たちの要求は受け入れることとなったと一同に申し渡した。集まった百姓たちの代表者が大いに喜んだことは改めて言うまでも無い。しかし、これは、藩重役からの指示により、赤井が吐いた嘘であった。同時に、【お尋ねの儀、これあり】ということで、一同は全員、田町会所へ出頭させられた。そこで、一同はてぐすねひいて待ち構えていた藩の捕り方に突然捕縛され、全員牢舎に投獄された。

十月六日、前日不参加の一揆指導者層に対する逮捕が始まった。と同時に、番頭・赤井喜兵衛の任務は終わり、一揆に関する全ての案件が郡方へ移され、拷問を含む厳しい詮議がなされることとなった。捕縛され、獄舎に繋がれた百姓は百名を下らなかった、と云われている。

 

 佐藤と何だか気まずいままで別れて、二週間ほど経った或る日のこと、私は久し振りに新宿に出て、紀伊国屋を覗いた。私は本屋が好きで、買いもしないのに、ぶらぶらと本を立ち読みしながら、二時間ほどそこで時間を潰した。それから、歌舞伎町に行って、ジャズ喫茶で、大音響で鳴り響くジャズをやはり二時間ほど聴いてから、電車に乗り、吉祥寺のアパートに帰った。吉祥寺は今でこそ、賑やかな街となっているが、四十年前はそれほど賑やかな街では無く、駅前の「ハーモニカ横丁」を除けば、井の頭公園あたりが少し賑やかなくらいで、全体的には落ち着いた感じと云うか、むしろ場末の町といった感じの街だった。私のアパートは、駅をハーモニカ横丁の方に出て、左に十分ほど歩いて行ったところにあった。木造二階建ての古いアパートでギシギシと音を立てる階段を登って、一番奥の室が私の室だった。登ってみると、室の前に誰か座っているのが見えた。ここらへんは、ハーモニカ横丁か井の頭公園の『いせや』あたりで飲んで酩酊した酔っ払いが結構多い。初め、酔っ払いかあ、嫌だなあと思った。

 そっと、歩いて近寄った。女の子が蹲って眠り込んでいた。若い娘のように見えた。覗き込む私の顔と、ふと目を覚ました女の子の目が合った。女の子が照れたように、ぎごちなく笑った。驚いた。そこに、蹲っていたのは、真智子だった。私立の歯学部に通っていた歯医者の卵の真智子であった。私は、汚いところだけど、入れよ、と真智子をとりあえず部屋に入れた。六畳の部屋の中央に炬燵があり、真智子は寒そうに体を少し震わせながら、炬燵に入った。

普通、男の子の部屋は万年床を敷きっ放しと聞いているけど、武藤君は違うのね、といつものように、拗ねた口調で言う。それは先入観に過ぎない、僕が万年床にするのは二日酔いで寝ている時しかしない、と私はお茶の準備をしながら真智子に話した。ふーん、やっぱり、武藤君は几帳面なんだ、と呟くように言う。お茶を淹れて、真智子に勧めながら、私も炬燵に潜り込んだ。風が強く吹いて、窓ガラスをきしませた。もう、木枯らしの季節が始まったのね、と真智子は湯飲みに手を伸ばしながら、やはり呟くように言う。私たちは暫く、窓ガラスをきしませて吹き渡っていく風の音を黙ったまま聴いていた。武藤君はやっぱり変わっている、とふいに真智子が言った。かなり、断定的な言い方だった。いきなり、そんなことを言われ、私は少しムッとして、真智子の顔を見詰めた。だって、何の用事でここに来たんだ、とか、どうしたの、とか、普通訊くようなことを何にも訊かないんだもの、と真智子は私の顔をじっと見ながら言った。じゃあ、訊くよ、山本さん、今日来た理由は何、と私は真智子に言った。真智子は私の少し怒った顔を見て、吹き出して笑った。笑うとこんなに可愛い顔になるのか、と思いながら私も笑った。急に、真智子と私の間は近くなった。

しかし、その後、真智子が私に話した内容はかなり深刻なものであった。真智子は佐藤が好きだった。しかし、佐藤の方は真智子のことをそう好きでもなさそうで、会っていても、楽しそうな感じはあまり見せなかった。それで、思い切って、今日、王子に行ってみた。以前聞いていたアパートはなかなか見つからなかったが、何とか探し当て、部屋をノックした。でも、出てきたのは少し年配の女だった。佐藤さん、居りますか、と訊いたら、今、彼は外出している、あんた誰、と逆に訊かれた。高校の頃の友達です、と答えたら、友達?、嘘、ガールフレンドね、と言う。違います、と言ったら、諦めてね、彼は私と暮らしているのよ、とその女は勝ち誇ったように言った。その後はよく思い出せないが、気がついたら、武藤君のこのアパートに居た、ということをぽつりぽつりと私に話した。

私は二週間前に見たあのラーメン屋の店員の女の顔を思い浮かべた。佐藤の馬鹿野郎、と思った。気がついたら、部屋の中はすっかり暗くなっていた。真智子が『いせや』に行って、焼き鳥を食べたいと言う。私たちは部屋を出て、暗くなった中道通りを歩いて、井の頭公園に行き、『いせや』に入った。混んでいたが、丁度、テーブルが一つ空いていて、私たちは座って、注文することが出来た。私はその時まで、焼き鳥にいろんな種類があることを知らなかった。真智子も面白がって、いろいろな種類の焼き鳥を頼んで、出されてきたもので注文したものの種類を知り、結構喜びながら、食べていた。私たちは結構酒も飲み、酔った。真智子もかなり酔ったようで、吐きはしなかったが、とても品川まで帰れるような状態ではなかった。結局、私の部屋に泊まる羽目になった。いつも、佐藤が泊まる度に使う蒲団で、真智子は寝ることとなった。武藤君、襲ってきちゃ駄目よ、と言いながら真智子は蒲団に入り、入ったと思ったら、すうすうと寝息が聞こえて来た。私は暫く、本を読んで起きていたが、その内、眠くなった。自分の蒲団を部屋の片隅に取り、寝ようとしたら、いつの間にか、目を覚ましていた真智子が、私の蒲団に入っていい、と訊いてきた。少し、眠ったけど、起きてしまった、武藤君の傍なら温かいから、傍で寝させて、と言うのであった。私の返事を待たずに、私の蒲団に潜り込んできた。そして、抱いてもいいのよ、と言ってきた。

 しかし、私は胸に顔を押し付けてきた真智子の背中に手をまわすのが精一杯であった。

 翌朝、朝早く、真智子は私の部屋を出て行った。

 真智子は一陣のつむじ風のように、私の心の中を通り過ぎて行った。


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