ストリートの世界 前篇
日中の間に済まさなければならない用事は全て片付けた。依然として、あのガレージを再び使えるようにするまでには至っていない。おおまかな掃除や整理などは終わったが、あのままでは店として運用することはできないだろう。
祖父のころの状態に戻すとなると、あの店舗スペースのほかにも宿舎の方も直さなければいけない。
それをするのも、まずは店側の整備が終わってからだ。
昨晩の峠から下ったあとも、普段は走らないような場所にまでFCを走らせていた。どこにいっても、どんな道でも、FCの思うような走りに近い運転をすることが楽しかったんだ。
あの真夜中の暗闇をリトラクタブル・ヘッドライトの明かりで切り裂きながら、2基のロータリーエンジンが奏でる音に魅了されていた。
そして、それは今もそうだ。キーを差し込んで、眠りについていた心臓に火を宿らせる。一瞬の静寂。キーを捻りきったあとのエンジンの点火音、そして目を覚まし、ボンネットからわずかに聞こえるがらがらと割れたような音。
アクセルペダルをほんの少しだけ踏み込めば、マフラーからこぼれる高いエキゾースト・サウンドが、俺の胸でどくりと鼓動を生み出す熱が生まれ始める。
さあ早く走りにいこう。今夜はどの道を走ろうか。
そんな、子供のころのような冒険心と好奇心をくすぐられる。まだこの場所は通っていない。この道の先に続く景色はどうなっているのか。
―――この丘を越えた先には、一体何が広がっているのだろう……。
小さいころに持っていたその想いが、このFCといるだけで湧き上がってくる。ロータリーエンジンが響かせる音が、身体に流れている血を熱くたぎらせる。
シートベルトのかちゃり、とした音を切っ掛けに、自分の中にある意識が切り替わる。まるで煮えたぎる鉄を飲まされたように全身が熱くなってくる。決して不快感を抱くことのないそれは、どくりどくりと鼓動を生み出す。
ひとつひとつ、感触を確かめるように指をハンドルに重ねていく。
全身の熱を冷ますように、レギュレーターハンドルを少しだけ回す。ほんの少しだけ開けた窓からは夜の冷えた空気が少しだけ流れ込んでくる。
熱に浮かされた身体にその風が気持ち良くて、自然に頬が緩んでくる。
よし、じゃあ今日はあの道を走ってみようかな。まだ、この時間帯に行ったことはなかったはずだから。
シフトノブのうえに手をのせる。手のひらのなかにしっくりとおさまる丸みに指先を合わせ、ギアを入れる。
クラッチミートの瞬間に、外の景色は一変する。街灯のないこの周辺は相変わらず暗いままで、月明かりのさしこまない場所は墨を流したように黒く暗く染まっている。
それでも、そんな景色がはっきりと見えた。暗い道の上に見える“見えないライン”がうっすらと浮かび上がり、FCが声をあげる。
まずは、峠道の方からだ。その方が静かだろうし、誰かが来るようなこともないはずだ。
連続したヘアピンカーブのなか、FCを走らせていく。頭上にあった月は雲に隠れてしまった。ときおり、雲のすきまから月明かりが降り注いでいるのか周囲がぼんやりと照らし出されるときがある。
5連続のヘアピンカーブを抜けた先の直線で、ふっとアクセルペダルから足を離す。
タコメーターの針が静かに下がり、夜の闇の静謐さが感じ取れる。
この峠道に入ってから、ずっと誰かが後ろを走っているような気がする。耳を澄ませば、FCのじゃないエキゾースト・サウンドが山に響いている。
どうして付いてくるのか分からないが、こうまでぴったりとついてこられるというのも少しだけ嫌な感情が持ちあがる。
もう少しだけ待って、相手がテールライトを見た瞬間から突き放そう。アクセルペダルに足をかざしながら、その時を待つ。
バックミラーに相手のライトがうつるその瞬間だ。さあ、さっきのヘアピンを順々に抜けてきている。
だんだんとエキゾースト・サウンドが近づき、高くうなるエンジンの音が聞こえ始める。
相手はロータリーじゃあない。着々と迫る音を前に、俺の心はひどくお落ち着いていた。
さあ、見えたっ……。
アクセルペダルを踏み込み、ロータリーの回転を上げていく。ボンネットから響くそのエンジン音が、ハンドルから伝わるその振動が、FCが前に出ようとする意志をダイレクトに俺に伝えてくる。
シフトノブに手を伸ばす。あの夜のように、どこか温かさを感じるそれの位置を一つ上げる。ギアアップをし、速度をあげる。
ずっと付きまとって来たんだ。どこまで粘る……。
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昨日の夜にいきなり現れた白いFC乗り。そいつは夜のストリート中を走り回るだけ走り回ってから帰った。
今まであんな奴は見たことがない。昨日初めてこのストリートにやってきたのか。
それにしては、ずいぶんと走りのキレが鋭い。さっきからずっと聞こえてくるエキゾースト・サウンドの高さが、かなり高いペースでそいつが走っていることを教えてくる。途切れることのないその音が、ずっと続いていた。
すっといきなり音が小さくなった。何かトラブルでもあったのか。
―――いいや、違う。これは、こいつは誘っている……。
全身の血が急激に沸騰を始める。身体中が熱く燃え上がり、闘志がわき立つ。
新参者にここまで勝手された挙句に、今度は挑発と来た。
それなら。さぁさぁ、お前のテールランプを見てやろうじゃないか。そして煽ったことを後悔させてやる。俺の愛車の後ろ姿を見て悔しがるがいい。
そら、見えたッ―――!
連続するヘアピンカーブを走り抜けたその先に、四角いテールランプを照らした一台が目に入る。
その瞬間に、FCのエキゾースト・サウンドが猛々しく吼える。ロータリーエンジン特有の甲高く割れた音を響かせる。
奴はこのまま走りきるつもりか。興奮か、それとも舐められていることへの怒りゆえか。じわりと汗がにじむ指をハンドルに重ねる。
この日の走りは、きっとあのFCのドライバーにとっては何でもないことだったのかもしれない。それでも、俺にとっては、完全なる敗北をした屈辱の日であり、誇らしいものになったのだ。
俺は、あのFCを追い求めるひとりになったきっかけなのだから。
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