身を焦がす熱
家に戻って来たのはあれから大分時間が経ってからのことだった。思ったよりも長くこのあたりを走っていたようだ。
自宅のガレージにFCを戻したとき、ボンネットから聞こえるエンジン音は、最初の頃と比べてやや高いものだった。
随分と放置していたようだったが、今夜のあの峠の走りを見る限りは別段大きな問題はなさそうだ。
ただ、やはり置いていた時間が時間であるから、しばらくは様子をみよう。足回りのアセンブリも簡単なものでいいから点検も考えておこう。
そんな考え事を頭のなかで巡らせていれば、時間は案外に早く過ぎるもののようで、高い回転数を示していたタコメーターは、落ち着いた数字を示していた。
キーをひねり、燃やし続けていた炎を止める。ガレージ内に響いていた鼓動が止んで、静謐だけが残る。
無機質な白色蛍光灯の灯りと、遠く町の方から聞こえるクルマのエキゾースト音。少しだけ耳を澄ませば、ガレージの壁に掛けられた電池式の掛け時計が鳴らす規則的な機械音が聞こえる。
ドアを大きく開けた状態で、流れ込んでくる冷えた空気を一身に感じながら、シートを後ろに大きく傾ける。
リラックスした体勢でシートに全身を思い切り預けた状態にして、目を瞑る。両手はハンドルに伸ばしたままで。
数瞬すれば、自分の身体の奥底から地響きのように鳴り響く熱が全身の血管を通じて運ばれていく。じわりと額に汗がにじむ。その危うい熱気を押しとどめるかのようにして全身を冷やそうとする理性よりも早くに興奮が身体を支配する。
クルマと自身の走りが調和した瞬間。角度のきついコーナリングを、クルマに過度のストレスを与えることなく侵入し、抜け切り始めたときの立ち上がり。
FCがどう走ればいいのかを教えてくれたようだった。どのラインで、どう走ればいいのかを示してくれた気がする。
いまなお全身が火傷してしまいそうなほどの熱を生み出す程に、あのときの走りは気持ちのいいものだった。
そして、その気持ちよさがあるからこそ自身の未熟さに気づいてしまう。もっと、より更にうまく走れたはずなのに、と。
目の前に広がる暗闇を前にして、その心に恐怖という要素がなかったと言えばそれは嘘だ。リトラクタブル・ヘッドライトが照らしていなかったとう訳ではない。単純に自分のなかで原始的な恐怖が興奮を覆いつぶしていただけだ。
暗闇のなかを疾走する爽快感の背後には、一手先を見ることが叶わないという先の見えない恐怖が常にあった。
その恐怖に俺は負けたのだ。
ああいや、それは違う気がする。負けてもいいはずなんだ、その感覚は絶対に必要なものなのだから。そう。だからこそ、恐怖に屈してはいけないのだ。
自分の身体の動作がワンテンポ遅れる。ハンドルを切るタイミングが、ハンドルの舵角が、アクセルの踏み加減が。
複雑なパズルのようにして組み合わさっているピースが崩れてしまうのだ。あのダウンヒルで、俺は暗闇のなかを走る恐怖に折れたのだ。
コイツを信じることもできず、自分の保身に走った。だからこそ、走りに乱れができて、本当はいらない負担をFCにかけてしまった。
どうすればいいのかなんてことは分かりきっている。その方法も。
かちん、とFCのコンソールパネルから音が鳴った。最後に動いていた電源がとまり、FCが、金属の体が眠ったことを告げる。
静かにシートを戻し、ドアを閉める。ぐるりとFCのまわりをゆっくりと一周してからガレージの明かりを消す。
まっくらになったガレージで、その白い車体が小さく揺れた気がした。
まだ稼働するには物も掃除も足りていない店舗スペースをさっと見てから自室に戻る。
パーツや工具は一通りそろっているので簡単な町の修理場の真似事くらいならできるが、まだ店として運用するには準備が足りていない。
部屋のすみで紺野ガレージと書かれた看板を覆ったブルーシートにまたほこりが積もっているのを横目にドアを閉める。
そこから少し廊下を歩けば住居スペースだ。一人暮らしにはかなり数の多い扉が面している廊下を抜けて、ようやく自分の部屋にたどり着く。
流しで軽く顔を洗ってから、ベッドへと全身を投げる。四隅のスプリングが軋む音で抗議の声をあげるのも無視して、そのまま二度三度ほどベッドの上で身体をひねる。
真夏にしてはずいぶんと冷え込んだ風が流れ込んでくる。FCから降りてから焼けるような熱さはなくなったものの、胸の奥底でどくりと鼓動が響いて熱が生まれる。
心地の良い興奮を感じながら、意識はゆっくりと眠っていった。
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その夜、ストリートに一筋の新星が流れ始めていた。決して速度が出ていた訳ではなく、誰かとレースをしていた訳でもない。
ただひたすらに真夜中のストリートを流している一台の白いクルマがあっただけだ。
他のクルマにはない特徴的なやや高音質なエンジン音と、マフラーから放たれる声にも似たエキゾースト・サウンドだけがストリートを満たしていた。
古きを知る者は、かつての伝説の白が新しい風となって甦ったことを知る。
今を駆ける者は、未知の新星が駆け抜けていったことを感じる。
年齢も性別も、互いが駆るクルマも全てが異なるドライバーたちだが、その胸中は同じだった。
かの伝説が過ぎ去ってから幾年の時が経った今なおも、この町には数多のストリートレーサーたちが己の腕と強者を求めて競い合っている。
かつてたった一台の前を走りぬけることを求めて、あらゆる場所からドライバーが競い合った町は、ゆっくりとであるがその姿を取り戻しつつあった。
耳の早い者達は、もう既に動き始めていた。
夜の闇に魅せられたドライバーたちに、一筋の白い軌跡を描いたクルマは再びその声を響かせるまであともう少し。
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