White Spirit
好々爺の雰囲気を漂わしていた老人たちは、正しくその姿を、彼らの燃ゆる魂が示すものへと戻した。
目の前にいる老人たちから発せられる圧力は、物理的な重さを持ってわたしに降り注ぐ。自分の頭を、巨人が押さえつけている。いいや、そんなものではない。まるで、これは海だ。深い深い海の底に沈められているようだ。
カウンターに近い場所で集まっていた彼らのうちの一人が、丁寧な言葉使いでわたしに声をかけてくる。
「白い色のFCと、そう言ったね。そのFCはどんな見た目だったか、私たちに教えてくれないか。君が見たクルマが本当に絶叫なのか、わかるかもしれない」
すでに時計の針は深夜と表される数字の間を指し示していた。かちりと、強者の雰囲気に飲み込まれた店内の中で、時計の秒針が動く音だけが響いている。
止まりかけた思考に再起動を促したのは、マスターが料理を運んでくる音だった。マスターの規則的な足音に合わせて、両腕に乗せられた皿がかすかに触れ合う音を鳴らす。
意識が戻って来る。静まり返った店内で、自分の心臓の鼓動の音が大きく聞こえてくる。いつのまにか呼吸は浅くなっていた。
無意識に握りしめていた手の甲に、ぽたりと何かが垂れる。緊張からか、それとも潰されかけたからなのか。背中は汗でぬれきっていた。
「ドライバーは若い男だった。遠目でしか見ていないけど、間違いない。FCの見た目だけで、ノーマルと大した差はなかったね。ボディカラーは白。リアウィングがダッグテール。ああ、あとはリトラクタブルのままだった」
頂上の駐車場で見えたあのクルマの姿を思い描く。ここらを走り始めているビギナーが走らせているようなド派手なエアロパーツもなければ、ペイントもしていない。一見普通のノーマルと思ってしまうほどだった。
老兵たちは無言のまま続きを促す。彼らの雰囲気は変わらず、よりさらにその鋭さが増していた。
より濃密さを増したプレッシャーに、知らず手を握り締める。じとりとした嫌な汗が頬を伝う。喉の渇きを話したせいで乾いたのだと意識をそらし、紅茶の入ったカップを傾ける。
上質な茶葉を使って丁寧に淹れられた紅茶の味は、全くしなかった。勢いよく飲み込んだせいで、口の中がひりひりと痛む。
その不安のなかに、ひっそりと自身の願いが叶うのかもしれないと期待を抱いている自分がいる。
「そうか。若い男かぁ……。時間を考えれば、たしかにそうなっているだろうな。かつてあの男の隣に唯一並び立てた者なのだから、そうさ、”絶叫”を継ぐのに相応しい」
「なぁ、そう思うだろう」
ぽつりと言葉を零した老人のつぶやきが引き金になったのか。それとも、元から燃え続けていた彼らの魂がそうなったのか。
目の前の老人たちは、年老い、しわだらけになっている。それなのに、その見た目に重なるようにして、別人の姿を幻視する。
全くの別人のように見えるが、よく見れば目つきや、顔つきなどが似ている気がする。
圧倒的な強者から漏れ出した闘志だけで、勝手にイメージが形作られる。
「さて、長話しになってしまったな。すまないね、老人の思い出話に付きあわせてしまってな。今夜は久方ぶりに元気になる話題を聞けてうれしかったよ」
老いを感じさせない歩みが、余計にそのイメージを補強していく。決して荒々しい動きでないのに、その動きの節々に激流のごとき力強さを感じる。
からん、と部屋にベルの音が鳴り響いた。軽やかな響きが、ちろちろと光の揺れる店内に浸透していく。
「お疲れ様でした。これ、どうぞ」
マスターが香ばしい匂いのするコーヒーを、そっとテーブルに置いた。ほのかにあがる湯気と、その温かさが張り詰めていた緊張をゆっくりと溶かしていく。
知らず、息を止めていたのか。呼吸はあらく、思考は酸欠を起こしたかのようにまとまりがつかない。
両の手で抱えるようにしてカップを持つ。じんわりとした熱が、カップ越しに手のひらに広がっていく。
そうして、心がようやく落ち着かせて、カップのふちを口に当てる。つつと口に流し込んだコーヒーは、苦かった。
眉をしかめながら、ぐいとさらに流し込む。少しだけ冷ませていたとはいえ、その熱さはそう変わることはない。舌がひりひりと熱せられる感覚が少しむず痒い。
息継ぎをすることなく飲みきり、空になったカップをソーサラ―の上に戻す。
飲まれた。飲み込まれた。そして、潰された。
バトルもしていない。敵として見られていない。それなのに、何もしていないのに、負けを認識させられた。
あたしだって、ここを走り込んできた。自分が得意な場所で負けないように積み重ねてきていた。あたしこそが一番だと思うことはなかったが、それでもやれる程度には強いと思っていた。
改めて強く意識させられた。頂きにいる奴らにとって、あたしはまだまだひよこなのだ。いくら場数を積もうと、腕を磨こうとも。そこらでクルマを走らせているビギナーと変わりはしない。
じわりと視界がにじむ。その感情がどこからこぼれ出たものなのか理解かるよりも早く、目元を乱暴に拭う。
そうだ、あたしの目的は伝説に遭遇することじゃない。会っただけで満足するはずがない。わたしは走り屋なんだから。
「ありがとう、マスター。いやあ、緊張したね。あれで歳とった言うのは詐欺でしょ、ほんと。全然衰えていないじゃない」
さっきまでのプレッシャーがなくなり、落ち着いた心の次に訪れたのは純粋なる闘志だった。
あたしが目指す場所の高さが見えた程度でうじうじ言っていられない。それに、このままじゃ、あのFCにすら追いつくことは難しい。
それじゃあ、今日はどこを走ろうか。今までよりももっと鋭く、ほんの少しでも深くこの子と接することができるように。
あの娘さんから聞いた峠まで来ていた。頂上の駐車場には自分たち以外のクルマは居らず、耳をすませば木々のざわめきが聞こえてきそうだった。
もしかすれば、山の動物の鳴き声も聞こえたのかもしれない。もっとも、この場からあふれ出んばかりの闘気を気にしなければ、だがな。
「この場所か。たしかにあの娘はそう言っていたよな。この峠のダウンヒルで会った、と」
それに確認の意味が込められたものではないことを、この場にいる全員が理解していた。誰ひとりとして言葉を返すことなく、しかし、全員が胸中に同じ風景を幻視していた。
雲一つなく、あるのは頭上から降り注がれる柔らかな温かさをもつ月明かりと、闇夜の影を切り裂かんばかりに照らす大量のクルマのヘッドライト。
本来は静かなはずの駐車場は、この場に集まったクルマから響くエンジン音で満たされていた。
かつての景色が、眼前の暗闇にだぶる。ピントがずれてぼやけた写真のように、在りし日の記憶が、無意識のうちに重なっていく。
「ああ、何一つ変わっていないと思ったが、あそこにいないじゃないか。それじゃあ、ダメなんだ。いくら集まっても、そこが空白のままじゃ、よろしくない」
自販機がある場所から少し離れた場所。うっすらと自販機の灯りが暗闇を照らしている場所を、じっと見続ける。
ある日を境に消えたライバル。歳を取り、やんちゃ心もだいぶ落ち着いてきていたはずの自分たちの心の奥底で、あの白さが燃え続けていた。
一人、二人。一番最初に声をあげて笑ったのは、はたして誰だったのだろうか。そんなことを気にしている程に、冷静ではなかった。
いつしか笑い声はエンジン音さえかきけす程に大きなものになっていた。
「あぁ、あぁ、そうだ。そうだとも。かつて見た白さが今なおのこる。あの娘に、いいや違う。この町のどんな奴らにだって渡すものか。わたしたちが―――、ああ、俺たちがあの絶叫をつかんでみせようじゃないか!」
声があがる。己の魂に燃える闘志が形となって、かつての姿に戻っていく。長い間に擦り減っていった情熱が再び熱をおびる。
自販機の灯りが、節電モードによって消える。照らされていた場所は、再び暗闇へと戻る。
この日、この場所で、再び彼らの歯車は動き始めた。
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