二十八報目・コミケのなまはげ
とある日の早朝。外堀通りを虎ノ門から新橋方面に向かってタクシーを走らせていた裏辻は、新橋駅の高架の手前でぶんぶんと手を振る人の姿にハザードを点滅させて応えた。
車を寄せて停めると、人――いかつい顔と体つきの男性だ――の周りにスーツケースがいくつも見える。裏辻はトランクを開けて、車から降りた。
「いやー、ごめんね大荷物で! あっこの大きいのは重いからわしがやるわ。こっちの小さいのを助手席に入れてもらって良いかな」
そう言って大きなスーツケースを抱え上げる男性に「かしこまりました」と返し、裏辻は小さめのスーツケースを押して助手席のドアを開けた。少しシートを後ろに下げていると、シートベルトの金具を咥えた銀太がぱちりとシートの金具にベルトの金具を嵌める。
「ありがと」
「んぴ!」
とーぜん!と胸を張る銀太を軽く撫でてから、裏辻は助手席にスーツケースを押し込んだ。中々の重さだ。一体何が入っているのだろうと気にしつつも助手席を閉める。
丁度男性もスーツケースを押し込み終わったらしい。が、トランクが閉まらない。
「あ、固定用のバンドがあるので大丈夫ですよ」
「そう? ありがとー」
裏辻はトランクの奥から固定用のバンドを取り出すと、トランクの蓋、留め金から少し離れた場所にフックを引っ掛けた。それからトランクを閉めつつ、車体の下にあるフックをかける部位にフックを引っ掛ける。これでトランクが開く事は無いだろう。
自分でドアを開けて乗り込んだ男性に一声かけてからドアを閉め、裏辻は運転席に戻った。
「ご乗車ありがとうございます、どちらまでお送りしますか?」
「うん、東京ビッグサイトまでお願いします」
「ビッグサイトですか、かしこまりました。昭和通りから三原橋を右であとは突き当りまでまっすぐでよろしいですか?」
「はいはい、お願いしますー」
シートベルトを締めながら目的地と経路を確認する。
周りを確認し、ウインカーを出してから、裏辻は車を発進させた。
高架を潜り、道なりに直進する。第一京浜――左に折れれば中央通りと名前が変わる大通りを過ぎ、緩く左に折れて昭和通りに入る。
途中のアンダーパスには入らずに暫く進むと大きな交差点――三原橋が見えてきた。右折信号は出ていたが、残念な事に曲がれそうにない。静かにブレーキを踏んで停まる。
「やっぱり空いてますねえ」
「そうですね、昨日からお盆休みに入ってしまったので……すっからかんです」
三原橋界隈は、男性の言葉通り閑散としていた。いつもなら多くの人と車が行き交う交差点も今日はぱらぱらと人が渡っていくだけだ。心なしか行き交う人々の顔が暗く見えるのは、早朝にもかかわらずじっとりと纏いつく蒸し暑さのせいか、それとも「お盆なのに出勤」という空しさ漂う事実のせいか。
信号が青に変わる。
裏辻はアクセルを踏み込んだ。直進と左折の車がまだ遠くにいるうちにさっさと右折する。これも普段は出来ない、空いているからこそできる技と言える。
寂しげに幟を揺らす歌舞伎座の前を抜け、高速道路の上に架かる橋を渡り、築地四丁目の交差点を抜ける。右側の場外市場はそれなりに人がいた。朝早くから新鮮な魚介類が食べられるこの場所は、朝食を此処で取ろうという観光客が多く訪れる。市場が築地から豊洲に移った今も、人気は健在のようだった。そのままもう少し走り、次に裏辻が車を止めたのは勝鬨橋の手前だった。
「ういびびびぃ」
風の吹き出し口の所にぺったりと張り付きながら、銀太は尾を振って鳴いた。空いている道路を飛ばしていくのを見るのが楽しいらしい。
信号が変わったのを確認してアクセルを踏み込み、勝鬨橋を渡る。いつもなら混みあう勝どき駅前の交差点も今日は静かだった。
「しかし今年も暑いねえ」
「そうですねえ、記録的な猛暑らしいですし。陽炎なんてしょっちゅう見ますよ」
もう一本橋を越えた先、左側には高いビルが三本、丸い屋根の背が低い建物を囲むように立っている。晴海トリトンスクエアだ。常日頃はサラリーマンで賑わうこの建物の周囲も、人っ子一人いない。
「ほんとはなー、冬に来るのが一番楽なんよ。わし秋田の山奥から来てるから」
「山の方ですか! それはまた、この暑さが相当堪えそうですね……」
「うん、実はわりと辛い……でも冬はな……冬は面と蓑を装備して悪い子を叱らねーとならんからな……」
悪い子を叱る、という男性の台詞にぴゃぁと僅かに怯えた鳴き声が被る。「あんた悪い子なの」と裏辻が目で問えば、銀太はぶんぶんと首を横に振った。
高速の入り口を右手に見ながら橋を渡る。新豊洲の駅を左手に見ながらもう一本橋を渡った。晴海大橋だ。右側の豊洲市場には動く車の影が見えた。今日は営業しているらしい。
渡った先からは景色が何処か殺風景になった。上には高速の高架が伸び、道路の左右に工事車両の姿が目立つ。右側の建物は工事の真っ最中だ。東京五輪に向けての準備は着々と進んでいるらしい。この暑さの中五輪を開催するのは正直に言ってしまうと正気の沙汰ではないと思うが、もう決まってしまった事なので仕方がない。選手も観客も、熱中症には十二分に気を付けて欲しい所だ。
かえつ学園西の交差点で一度停まる。すぐに信号が青になったので、再び発進した。
緩い上り坂を登り、角乗り橋を渡る。
渡った先は、妙に人と車が行き交っていた。人々は手に手にスーツケースやカートを引き、係員と思しき人の誘導に従って歩いている。アニメやゲームのキャラクターと思しきグッズをあちこちにつけたその姿に、裏辻はああと納得した。そう言えば、もうそんな時期なのだ。
「今日はコミケでしたか」
「そーそー。ぶっちゃけ新橋からならゆりかもめよりタクシーの方が早いからさあ。あとバスは嫌なんだよね、すし詰めにされるからそれだけで体力が削れるし人権が無い」
「成程。毎年お世話になっております」
「いえいえ、こちらこそ。毎年楽させてもらってます」
男性と軽く笑い合いながら、裏辻は突き当りの交差点――東京ビッグサイト東の交差点を右折した。
適当な所に車を停めようとしたタクシーが係員に追い払われているのを横目に、「何処でお停めしますか」と男性に尋ねる。
「うーん、車寄せまで行ってもらって良いですか」
「車寄せですか、かしこまりました」
一つ頷いて、裏辻は車をもう少し走らせた。左手に見える標識に従って、ビッグサイトの車寄せに入る。
薄暗く、カーブする車路には多くの車が停まって荷物を出し入れしていた。進める所まで進み、メーターを切る。
「いつ見ても凄い人ですねえ」
「ほんとにねー。年々増えていくんだもの、人間の熱意は凄いよ」
料金を受け取りながらそんな会話を交わし、裏辻は一声かけてから客席のドアを開いた。
トランクを開け、自分も降りて助手席の荷物を引っ張り出す。その後はトランクから荷物を出すのを手伝い、フックを元通りにトランクの奥に引っ掛け直した。
「お忘れ物はございませんか? あの、体調に気を付けて楽しんでくださいね」
「うん、大丈夫。ありがとー」
スーツケースを引いて去っていく男性を見送り、裏辻は車に戻った。
「うびび、ういびんびぃ」
「そうね、コミケは大変なのよ。でも皆これが楽しみなのよ」
ふんふんと頷く銀太と共に、ビッグサイトを後にする。
「また新橋に戻ってみましょっか。それか東京駅の方。運が良ければコミケに行く人がいるかも」
「び!」
お盆休みで暇な中、こうして人の動きがあるのはタクシーとしても有難い事だった。
コミケ期間中はいっそ新橋とビッグサイトを往復し続けてもいいかもしれないなと思いつつ、裏辻は車を走らせたのだった。