二十六報目・上野広小路の新米噺家
今回のお話を書くにあたりいつもお世話になっている友人の方に度々お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。
「すみません浅草演芸ホールまでお願いしますううううううう!!!!」
師走も終わりにほど近い平日の午後、夕方に近づきつつある時。
上野広小路の交差点――丁度上野松坂屋の向かいに当たる場所で信号待ちをしていた裏辻と銀太は、ドアレバーが跳ねあがるのと同時に車内に転がり込んできた女性に目を白黒させた。
「ええと、演芸ホールですか」
「そうですー! 浅草のドンキの前の!!」
場所間違えちゃってー! と叫ぶ女性は大変元気が良かった。
歳は二十歳そこそこだろうか。くりっとした目ところころと変わる表情が可愛らしい。
鮮やかな、いっそ蛍光オレンジと言えそうなくらい明るいオレンジ色の着物が良く似合っている。
「えーと、そうしましたら浅草通りから国際通りに出て、雷門通りを右に曲がってちょっとぐるっと回るルートでもよろしいですか? ちょっとあそこ、一方通行になってたり歩行者専用道路になってた筈なので」
「辿り着ければ何でもいいです!!」
ぐっと拳を握る女性に「かしこまりました」と頷き、裏辻は車を発進させた。
京成上野駅の前を過ぎ、緩く道なりに右に曲がってJR上野駅の高架を潜る。
向かって右側のアメ横は、買い出しの為か随分と混雑しているようだった。車道に溢れた人々を、バイクが迷惑そうな顔をしながら避けて行く。
高架を潜れば一気に車線が広がるので、裏辻は「浅草橋」と書かれた車線に入った。そのまま道なりに行けば高速道路の高架から浅草通りに入れるのだ。
浅草橋方面以外にも、ほぼUターンする形で日本橋方面、斜め左に進む形で春日部方面と車線が別れている。春日部方面と浅草方面の分岐の間にある分離帯には警官が立っていて、オレンジの線を踏み越えて車線を変えようとする車を見張っていた。
上野駅の交差点を抜け、浅草通りを走る。
「いつもと違う感じがしますねえ!」
「そうですね、やっぱり年末が近いので」
何処かそわそわしているお客をバックミラー越しに認め、裏辻は「もしかして、お急ぎですか?」と声を掛けた。
「いや、その、急ぎという程じゃあないんですけれどもー……。こう、一番の新米が遅れて行くのはあれかなあと。今日が初めて高座に上がる日なんで、家に居てもどうも落ち着かなくって」
「あら、そうなんですか! それは、おめでとうございますというか、頑張ってくださいというか……」
裏辻の言葉ににお客はにぱっと笑う。
「ありがとうございますー! いやね、もう緊張しすぎて私ってば着物をうっかり左前に着付けちゃうところでしたよ! もう死んでるから別に左前でもいいんですけれども、一応生きてる人たちの所を通る時はそれやっちゃうと駄目ですしぃ……。もうねー、帯結ぶ前に気付いてよかったですよう!」
そして元気よく続けられた台詞に、丁度信号に引っ掛って車を停めた裏辻は、肩の上の銀太と無言で顔を見合わせた。
「うんびび」
「そうらしいわよ」
「うびび?」
「しっ! あれで? とか言っちゃいけません!」
しんでるにしてはげんきすぎない? と言いたげな顔をする銀太を小声で窘めて小突き、裏辻は車を再び走らせた。
「あとそうそう運転手さん聞いてくださいよ! 私の友達、みんな酷いんですよ! 芸名どうしようかなーって思ってて、“播州菊姫”とかどうだろーって聞いてみたら、“お前はどう見ても姫じゃない”だの“こんなそそっかしい姫がいてたまりますか”だの“顔は姫かもしれないけど中身が駄目駄目の極みだろお前”だの! 挙句の果てに多数決で決められちゃったのが“皿割りお菊”ですよ!? 自分で自分のネタの落語を披露するという私の計画がおじゃん! 名前からして完璧なるネタバレ! なんてこったい!!」
「は、はぁ…………それはこう、なんというか、お気の毒です……??」
のーん!! と叫ぶお客――もとい、お菊というらしい――に裏辻はなんとかそう返した。正直、どう言ってやれば良いのかさっぱり分からなかった。
信号が青だったのを良い事に、寿四丁目の交差点を左折して国際通りに入る。左折してすぐの所に止まっていた軽自動車を避けつつ、裏辻はふと首を傾げた。
皿割り。お菊。ついでに落語。何処かで聞き覚えがあるような。
「ういびんういびーい」
いちまいたりなーい、と肩の上で銀太が鳴く。
それで裏辻は思い出した。
「あの“番町皿屋敷”ですか!?!?」
「そうでーす! どうも、番町皿屋敷のお菊でーす! 以後ごひいきに!!」
思わず叫んだ裏辻に、お菊は満面の笑顔でピースを返す。
怪談の主人公にあるまじき陽気さに、裏辻は果たして怪談とはなんだったのか、と思わず遠い目をした。
元の話は、こう、おどろおどろしさだとか恐ろしさだとかそう言った物があったように思うのだけれども、彼女からそれらは欠片も感じ取れない。
そう言えば、落語のお菊は本来は九枚数える皿をわざと十八枚数えて、翌日を休みにしようとしていたような。
あれこれ考え込みつつ、裏辻は雷門一丁目の交差点を右折した。
浅草寺の門前町だけあって、此処は常に混雑している。
左折してから少し進み、二つ目の路地を左に入ると、両側に古びた料理屋が軒を連ねていた。
歩行者や自転車、人力車が往来する中をゆっくりと車を進めて行く。怖く無い怪談の主人公の事は、今は一度脳裏から追い出しておいた。正直な所、怪談よりも事故の方が、裏辻は遥かに怖い。
新仲見世通りのアーケードを横断し、軒先の席で昼間から飲んでいる酔っ払い達を眺めながら五叉路を斜め右前に入る。歩行者が大量にいるこの路地は中々曲がりにくいが、お笑いライブの呼び込みをやっている芸人達が注意を促してくれたおかげで思いの外スムーズに曲がる事が出来た。
偶々目が合った一人に軽く手を上げて挨拶し、裏辻はゆっくりと車を進めた。
昔の芸人の顔写真が見下ろしてくる六区通りの中をしばらく進むと、目の前に大きな交差点が現れる。
通りを越えた先に、ようやっと黒と緑と橙の定式幕を掲げた建物――浅草演芸ホールが見えた。
「交差点を渡った所で宜しいですか?」
「はい! 大丈夫ですよ!」
慎重に交差点を越え、車を停める。
ホールの前にはもう何人かが列を作っていた。
その何人かに耳と尻尾が生えていたり角が生えていたりするのは見ない振りをしつつ、裏辻はメーターを止めて料金を告げた。
「うぅー、なんだか緊張してきました」
小銭を出しながらお菊がぽつんと呟く。
「んー、まあ、大丈夫ですよ。いざ始まれば意外と何とかなりますって」
ね、と釣銭を渡しながら裏辻は小さく笑った。
銀太もうびうびと頷き、ぽとんと飴を一つお菊の手に落とす。
「ぃよっし! じゃあ、頑張ってきます!」
「はい、お気を付けて。御忘れ物はありませんか?」
「はい! ありがとうございました!」
元気よく降りて行くお菊を見送り、忘れ物が無いかもう一度振り返って確認して、裏辻はぱたんとドアを閉めた。
「すんごく賑やかな人だったわねえ」
「うび」
「あんなに賑やかな人、久し振りに乗せたわねえ」
「んびんび」
賑やかで少しばかり疲れてしまったのは事実だ。けれども、元気な彼女にこちらまで元気をもらってしまったように裏辻は思う。
「年末は死ぬほど暇だけど、元気出して頑張りましょうね」
「うび!」
元気よく鳴く銀太と軽く鰭と手を合わせ、裏辻は周りを確認してからゆっくりと車を動かし手賑やかな浅草を後にしたのだった。