二十四報目・月島の濡れ女
「あづい……」
平日の昼前、中央区月島は清澄通り沿い。
裏辻は迎車の表示を出した愛車と共に、炎天下の中、お客を待っていた。
燦々と容赦なく降り注ぐ日差しが地面を焼く。タクシーの車体も焼く。ついでのように裏辻も焼いていく。
あまりに強い日差しの所為か、空は最早青ではなく白に近い。地面は陽炎が立ち上り、逃げ水が路上を揺蕩う。
直射日光とアスファルトからの照り返し、駄目押しと言わんばかりに車からの放射熱。
制服も黒いのでさらに暑さが倍増する中、裏辻はきっちりと背筋を伸ばして立っていた。
「もうやだ誰よ悪天候だろうが暑かろうが寒かろうが迎車は車外待機っていう規則作った馬鹿野郎は轢き潰してやる」
ただし、目は若干死んでいる上、小声で恨み言を呟いていたが。
「いい加減何度以上は車外待機しなくても良いとか規則を追加すべきだと思うのよねえ……そろそろ死人が出るわよ、これ。というか、熱中症で倒れたら労災って降りるかしら」
ぶつぶつ呟きながら車内を――ナビの時計を眺める。
運転席側のエアコンの吹き出し口に銀太がべったりとへばりついていた。
裏辻と目が合うとひらひらと鰭を振って寄越す。が、いつもより元気がない。暑さに参ってしまうのは、人も龍も一緒らしい。
「早く来てくれるといいんだけれどなー」
時刻は指定時間丁度。
辺りをそれとなく見回してみるが、今のところ車に近付いてくる人間はいない。
私がこんがり焦げてぶっ倒れる前に出て来て欲しい、と裏辻はぼんやり考えながら車の前に佇む。
それから数分後。
女性が一人、裏辻の方に近付いてきた。
明るい空色が華やかな印象を与える、ワンピース姿の女性だ。
斜に被った、つばの大きな白い帽子についた赤いハイビスカスの飾りと、日の光を玉虫色に反射するサングラスも相まって、非常に南国情緒が溢れている。濡れたように艶やかな黒髪を靡かせて颯爽と進む様はモデルのようだ。
それならば、まあごく普通の、夏らしい服装の御婦人で済んだだろう。
「…………おう、これは、うん」
女性の下半身が、巨大な蛇でさえなければ。
(わー鱗が深緑なんだお日様の光できらきら光って綺麗だなー……って違う違う)
思わず盛大に現実逃避を図ろうとする脳みそを叱咤し、裏辻はどうしたもんかと考えた。
ご乗車いただく時に手を貸すべきだろうか。それとも自力で乗れるのだろうか。
いやそもそも、あちらは意外とこちらが見える人間であると認識していない事の方が多いわけで。
「お待たせしましたー、予約していた鏡です」
「鏡様ですね、お待ちしておりました」
まあいいや様子を見てから考えよう、と内心思いつつ、裏辻は笑顔でタクシーのドアを開く。
女性はあっさりと乗りこみ、長い尻尾を器用に丸めて足元に収納していった。
「お足元宜しいですか? ドアをお閉めします」
「はーい」
尻尾とワンピースの裾を挟まないように気を付けながらドアを閉め、裏辻は運転席に戻る。
「ご乗車ありがとうございます、乗務員の裏辻と申します。どちらまでお送りいたしますか?」
「銀座の東急プラザまでお願いしますー。晴海通り真っ直ぐでいいわ」
「かしこまりました」
シートベルトを絞めつつ行き先とルートを確認し、周囲を素早く確認しながらウィンカーを出しつつメーターを押す。
車の列が途切れた隙をついて、裏辻の車は滑らかに清澄通りに合流した。
少し走り、橋を越えた先で右側の車線に入る。
偶然にも車の量が少なかった事もあって、信号に引っ掛る事なく晴海通りに右折する事が出来た。
「珍しいわねー、いつもここで信号に引っ掛るのに」
「そうですね。私もひっかかるものだとばかり思っていたので、ちょっと驚いてます」
右折した先の橋は勝どき橋だ。その昔は両開きの跳ね橋だった橋は、今は多くの車が行き交う大通りになっている。
時々盛大に渋滞が発生するのは、築地界隈から豊洲や晴海に行くルートが少ない所為だろう。
「にしても、今日は暑いわねー。ここ数年で一番暑いんじゃない?」
「そうかもしれませんねえ。……空調の温度、もう少しお下げしましょうか?」
「んーん、平気よ。ありがとね」
エアコンの吹き出し口に貼りついていた銀太がのそのそと裏辻の肩に上ってくる。
銀色の身体は冷風に晒されて随分冷えていた。冷たい感触が、今の裏辻には心地いい。
「もうねー、親戚が築地に勤めてるんだけど、最近“私より築地で売られてる魚や野菜の方が遥かに待遇が良いんだ”って愚痴ってたわー」
「…………確かに、売り物のお魚は氷の上で寝てますもんね……」
確かに、外のうだるような暑さを思えば市場の中――たとえば売り物が置かれている倉庫などは快適だろう。多少の薄暗さも生臭さも、もしかしたら暑さよりマシに思えるかもしれない。
長居したら、涼しいを通り越えて風邪を引きそうではあるけれども。
「にしても、いつもより人が多い気がするわぁ。何か催し物でもあったかしら」
「うーん、早めの夏休みを取った観光客の方が来ているのかもしれませんね」
「ああ、そういう事」
雑談しつつ、裏辻はしっかりハンドルを握って前を見据えた。
晴海通りは、此処からがある意味難所である。
築地四丁目から数寄屋橋――銀座界隈は、今日も今日とて大層混雑していた。
お客の乗降をしているタクシーや、駐車場に入れなかったらしい一般車、大型バスや路線バスで一車線が埋まり、そこから右の車線に逃れようとした車の影響で車の流れが滞る。
無理矢理脇をすり抜けようとしたバイクや自転車に驚いた車が急ブレーキを踏み、その所為で後続車がつんのめるように止まる。
慌ただしく喧しい道路の風景を余所に、三原橋の交差点の手前、裏辻達から見ると右側で、歌舞伎座はゆったりと幟を風に揺らして佇んでいた。
「納涼歌舞伎ねぇ……行こうかしら。でもあんまり暑いと動きたくないのよねぇ……」
「動きたくないの、よく分かります……」
「でも一番動きたくないのは寒い時なのよー……変温だとどうしても冬眠したくなっていけないわぁ」
渋滞で車を停めつつ「動きたくない」に心底同意していた裏辻は、続いたお客の言葉に軽く固まった。
変温。へんおん。まあ確かに、乗客の彼女の下半身は蛇ではあるが。
まさか生態まで蛇に寄っているとは、思わなかった。
「……ぴ?」
何とも言えない裏辻の視線を受け、銀太は小さく鳴いて首を傾げている。
爬虫類のような見た目をしている銀太だが、特段冬眠している訳ではない。
寝汚いと言えば寝汚いが、それは単なる習性とか性格の問題だろう。
「運転手さんは冬眠したくなったりしない?」
「あっいやそんなことはないですけれども……」
銀座四丁目の交差点を何とか越えつつ、裏辻はそう答えた。
生憎、裏辻は変温動物でもなければ冬眠する恒温動物でもない。ずっと布団に埋もれていたいと思う事は無いわけでもないが、それは単に眠かったりなんだりするだけだ。
「運転手さんはそうなのねえ……種族差ってやつなのかしらねえ」
何処かしみじみとした口調のお客に、裏辻は内心首を捻った。
何故だろう。何となく、釈然としない。種族差、という言葉に何となく引っ掛かりを覚える。
釈然としないながらも車を走らせ、数寄屋橋の交差点を信号ギリギリで越え、複雑なデザインのガラス張りの建物――東急プラザの前で停車する。
値段を告げ、料金を受け取り、釣銭を返す。
いつもならこの後運転席からドアを開いてお客を降ろすが、無線で呼ばれた場合は少し違う。
裏辻はシフトをパーキングに入れると、車から降りて客席のドアを開いた。
「お忘れ物はございませんか?」
「はーい。大丈夫よー」
すとんと客席から降りたお客の足は、すらりとした美脚になっていた。
蛇の下半身は何処に行ったのだろうか。裏辻にはいつも通りよく分からない。
「じゃあ、運転手さん。暑くて大変だけども、お互い頑張りましょ」
「あ、はい、ありがとうございました」
手を振って去っていくお客を見送り、客席のドアを閉めようとして、裏辻はふと客席に違和感を感じた。触れてみると、シートカバーが、何故か濡れている。
「お客さんの所為?」
「うびん?」
裏辻の首の後ろにくっついて来ていた銀太が客席に近寄り、ふんふんと匂いを嗅いだ。
「うびびうびー」
「ただの水? じゃあ、あとでちょっと乾かしてくれる?」
「うび!」
お願いにはあい、と元気に鰭を上げた銀太を撫でてやりつつ、裏辻は運転席に戻ってメーターを切る。
「にしても、なーんかあのお客さんの態度がこう、もやっとするわ……。銀太、なんか心当たりある?」
「うぴ? …………うびんびん」
「わかんないわよねぇ」
よくわからんと首を捻り合いながら、一人と一匹は和光の鐘が正午を告げる銀座を後にした。
終業後。何の気なしにそのことを報告した主任に、「なっちゃん、もしかしてそのお客さんから妖怪仲間って思われてたりしない……?」とツッコまれ、裏辻が愕然としたのは、また別のお話である。