二十一報目・今戸の猫又
「あら、おい……じゃなかった、可愛い金魚ちゃんねえ」
師走も終わりつつあるとある平日の、台東区今戸。
乗車してきた猫のような縦長の瞳孔の瞳の恰幅の良い婦人の言葉に、銀太は「ぴえっ!」と悲鳴を上げた。
慌てて裏辻の肩にしがみつき、ぷるぷる震えながら鬣を逆立てる。
「あらあら、怖がらせちゃったみたい。ごめんねえ、あたし猫なもんだから、どうも魚っぽい見た目をしてると美味しそうだなと思っちゃって」
「あー……成程……」
猫は魚が好きだもんな、と納得する裏辻の肩の上で、銀太は婦人を警戒している。
ぷくっと膨れている様子はさながら河豚か針千本のようだ。
「えーと、どちらまでお送りいたしますか?」
「あら、ごめんなさいね! アメ横までお願いします」
気を取り直して問う裏辻に、夫人は朗らかに行先を告げる。
「目の前の交差点を右、その先の大通りを左、あとはまた大通りを右に曲がって高速が上にある通りを左ね」
次いで告げられた道順に、裏辻は手元のナビを操作した。
最終的に言問通りから昭和通りに出ればいいらしい。
「かしこまりました。では、発車します。安全のためシートベルトの着用をお願いします」
お決まりの口上を述べ、メーターを押し、裏辻は車を発進させた。
目の前の、浅草七丁目の交差点を右折し、そのまま路地に入る。
年末が近くもう学校が休みになっている所為か、遊びに出ている子供達を見ながら、裏辻は慎重に車を進めた。
子供達は何時飛び出してくるかわからない。何せ、彼等は此方を見ていない事の方が多いからだ。
ボール遊びをしている子供達のボールが目の前に転がって来ない事を祈りつつ路地を抜け、浅草五丁目の交差点を左に曲がって馬道通りに入る。
そのまま直進し、馬道の交差点を右に曲がると言問通りに出る。
この辺りは丁度浅草寺の裏手に当たる場所だ。ちらほらと貸衣装屋の和服を着た観光客や、彼らを乗せた人力車の姿を見る事が出来る。
「あらあら、今日は御機嫌なのかしらねえ」
窓から外を眺めていた婦人が呟く。
首を傾げながら信号待ちの為車を停める裏辻に、婦人は浅草寺の方を指した。
「一寸見上げてみて御覧なさい。御嬢さんなら見えるでしょ?」
「はい?…………わーお」
言われるままに斜め上を見上げ、裏辻は思わず声を上げた。
縹色の空と白い雲を背景に、一頭の龍が悠々と空を泳いでいる。陽の光を金色の鱗が弾き、龍の周囲を華やかに彩っていた。
「ぴゃーあ」
ぺたっと助手席の窓に貼りついた銀太が、龍に向かって鰭を振る。
それに応えるように、龍は空中で大きく8の字を描いた。
あの距離から銀太の姿が見えるとは。龍の視力は随分良いようだ。
「あら、金魚ちゃんは龍の子供なのねえ」
「一応、そうらしいです」
「ぷー!」
一応、と付けられて不満気に鳴く銀太に、婦人はころころと笑った。
信号が青になったので裏辻は前を向き、ゆっくりとアクセルを踏み込む。
視界の端で、龍がぱたりと尾を振るのが見えた気がした。
「にしても、年末はやっぱり車通りが多いわねえ」
駐車車両で混みあう左車線を見ながら婦人は呟いた。
「そうですねえ、買いだしに来る方がやっぱり増えるみたいで。あと、ちょこちょこ余所の地方のナンバーを――――おっと」
会話しつつ、裏辻は急に停まろうとした軽自動車をひょいとハンドルを回して躱した。
車のナンバーは札幌、すれ違いざまに見た運転席の人影は必死の形相でナビを見ている。
「今みたいに急に停まったり曲がろうとしたりする方が多いので大変ですね、この時期は」
「あらあらあらあら」
目を丸くする婦人に笑いながらそう返し、裏辻はさっとアクセルを踏んで加速した。
この程度で驚いていたら年末の東京は走れない。
なにせ一方通行の逆走から転回禁止場所での転回、一時停止を無視して突っ込むなどあらゆるルール違反が起こるのだ。勿論、信号違反とスピード違反も当然のように多発する。
人形町通りを逆走する地方ナンバーの車を見た時は大変驚いた覚えがある裏辻だったが、地方の人間からすると五つも車線があるのに一方通行なのが信じられないらしい。お互いさまというやつだろう。
ちなみにその車は、しばらく進んだ先で警官に捕まっていた。
「運転手さん、大変ねえ」
「そうですねえ…………まあ、大分慣れてしまいましたけれども」
何となくしみじみした口調でそう言った裏辻に、婦人はまた「あらあら」と笑った。
そうしてしばらく走っているうちに、目の前に入谷の交差点が迫る。
裏辻は交差点を左折して、日本橋方面に高速道路に沿う道へ入った。
この交差点は、左折してすぐ斜め左――清州橋通りへの分岐がある為、ぼんやりしていると間違えそうになってしまう事もある。
ちなみに入谷の交差点は直進すると鶯谷や日暮里、千駄木方面へ、右折すると根岸や千住、最終的には日光方面まで抜ける事が出来る。
「……やっぱり混んでますね」
「うーん、もうちょっと早い時間にお買い物に行ければよかったんだけれどねぇ……」
昭和通りに入って少しすると、車の列の動きが急に鈍くなった。
渋滞が始まってしまったようだ。
出遅れちゃったわぁ……と項垂れる婦人に、銀太がぷいぷいと鳴きながら寄っていく。
「あら、金魚ちゃん。優しいわねえ」
「……ぷすぅ」
よしよしと婦人に撫でられつつ、銀太は何となく不満そうな声で鳴く。
「ぼく、金魚じゃないもん……」と撫でられながらいじけている姿が簡単に想像出来て、裏辻はこっそり笑った。
そのまま暫く渋滞に引っ掛りつつ昭和通りを進んでいると、道が緩く二手に分かれ始める。
右手には高速道路の高架に遮られつつも上野駅の肌色の駅舎が見えた。
「あらー、車が一杯ねえ」
「そうですねー……あーあ、えらい事に」
道を緩く右に曲がり、高速道路と歩道橋を過ぎ、鉄道の高架の手前。
道は路上駐車している車と荷物を積み込んだり降ろしたりしている車で、激しく混雑していた。
「うーん、もうちょっと行きたかったけれど此処で降りるわあ」
「かしこまりましたー」
残念そうな婦人に従い、裏辻はなるべく車を左に寄せて停め、メーターを切った。
迷惑そうにこちらを見てくるバイクや歩行者から目を逸らしつつ、料金を受け取りお釣りを渡す。
「お忘れ物にご注意ください。では、ドアを開けます」
「はーい」
人の流れが途切れた隙を見計らい、裏辻は慎重にドアを開いた。
「じゃあね、運転手さんと金魚ちゃん。頑張ってね。良いお年を」
「あ、はい。そちらこそ良いお年をお迎えください」
年末の挨拶を交わし、忘れ物の有無を確認し、ぱたんとドアを閉める。
途端に後ろからクラクションを鳴らされ、裏辻はメーターを空車に戻しながら溜息を吐いた。
「そんなに簡単に動けたら苦労しないってのよ……」
「うびー」
この混雑の中不用意に動こうものなら簡単に事故になる。
危ないと思ったら無理に動かない、というのが鉄則だ。
案の定無理矢理裏辻のタクシーを追い抜いて前へ出た後ろの車は、路地から出てきたバイクとぶつかりそうになっていた。
「まー、だらだら行きましょーか」
「んびゃ」
少しずつ車の列は動いているし、しばらくすればこの渋滞からも抜ける事が出来るだろう。
焦らずのんびり待つことにして、裏辻は一つ欠伸をした。
肩の上の銀太も一緒になって欠伸をする。
だらけた雰囲気漂う車内と裏腹に、外は何処までも騒がしいのだった。