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十九報目・港区三田ののっぺらぼう

 平日の朝、通勤時間帯真っ只中。

 裏辻は赤羽橋南の交差点で信号待ちをしていた。


「さて、お客はいるかしらねえ」

「ぷいー」


 信号が青になり、動き出した前の車に合わせてアクセルを踏み込む。

二つの病院と保健所の前を抜け、中之橋の交差点の赤信号で止まった。

 交差点の左側にはごく最近できたばかりの、妙なデザインのオフィスビル――住友不動産麻布十番ビルが建っている。


「うびうびびうび、うんびうびびうーびんびうびび?」

「え? “ここは三田なのに、なんで麻布十番ビルなの?”…………いや、そんな事はこのビルの名前を付けた人に聞きなさいよ。私に聞いても分かんないわ」

「ぷー」

「まあ、この道をこのままずっとまっすぐ行ったら麻布十番の商店街だし。あながち間違いじゃないかも」


 不満気に鳴く銀太に適当に返し、信号が青になったのを確認してから裏辻はブレーキから足を離した。

 ここから一の橋までの間には、大きなタワーマンションが二つほどある。

このタワーマンションから出てきて手を上げるお客は多い。前に空車が二台ほど走っていても、お客を乗せられる程度には、多い。


「みーっけ」


 タワーマンションの前の横断歩道、丁度トラックとトラックの間からひらひらと揺れる手が見える。

ハザードランプを点滅させつつ軽やかに車を加速させ、裏辻はお客の前ぴったりに車を停めた。


「おはようございまーす」

「おはようございます」


 挨拶と共に乗り込んできたのは、如何にもキャリアウーマンと言った服装の若い女性だった。

 ヘアアイロンで丁寧に巻かれたと思しき焦げ茶の髪がふわりと揺らし、女性はUターンして大手町まで、と行先を告げる。

 言われるままに裏辻は周囲をよく確認し、くるりと車をUターンさせた。


「この先中之橋を左折して突き当りを右折、赤羽橋左折で東京タワーの下を抜けてそのまままっすぐ祝田橋から大手門に出て、永代通りを曲がる形でよろしいですか?」


 回りきってからメーターを押し、ルートの確認を取ると、女性は少し考える素振りを見せる。


「んーと、三井物産があった所を右に曲がってもらっても良いですかー?」

「あ、はい。かしこまりました」


 大手門じゃなくてその次を右、と頭の中の地図で確認し、裏辻は中之橋の交差点を左折した。

 客席では、女性が鞄を漁っている。何かを忘れたのだろうか、鞄の中身を引っ掻き回す音が響く。


「あれ、ないー……あ、あったあった」


 突き当りを右折しながら裏辻がバックミラーで後ろを窺うと、丁度化粧道具が入っているらしいポーチを引っ張り出した所だった。

 声から察するに、ほっとしているのだろう。表情は全く無いので分からなかったが。

 いや、“表情は全く無い”処の話ではなかった。

女性には、目鼻立ちが、無かった。ふわふわした巻き毛で囲われた顔に当たる部分は、表情を描きこまれる前の人形どころか、茹で卵のように白くつるんとしていた。


(そういえば、のっぺらぼうってどうやって周りを認識してるのかしらねえ……目が無いのに)


 何やら作業を始めた女性から視線と意識を戻し、裏辻はアクセルを踏み込んで赤羽橋の交差点を斜め左前に――東京タワーの方に向かって左折した。

 緩やかなカーブを走り、東京タワー下の交差点を通り過ぎ、少しきつい右カーブを抜ける。

 カーブを抜けた先の信号を左折し、歩道橋がある信号をすれすれで抜けると左側にビルが二つ並んで立っているのが目に入る。愛宕グリーンヒルズと、その住居棟だ。

 住居棟の方から出てきてタクシーを捕まえようとするディスパッチャーを横目に、裏辻は交差点を駆け抜ける。

 まだ早い時間の所為か、車通りも少なく快調だ。

 オリンピックとパラリンピックのエンブレムを掲げた虎の門ヒルズの前を抜け、西新橋二丁目西の交差点を越えた所でようやく信号に引っ掛った。

 裏辻から見て左斜め前に、ビルに囲まれた小さな店がある。“砂場”と書かれたその店が何なのか、裏辻は不思議に思っていた。が、この前乗せたお客たちが話しているのを聞いたところ、どうやら蕎麦屋であるらしい。それなりに評判も良いようだ。

 暫く待っていると信号が青になったので、またアクセルを踏み込んで車を発進させる。

 西新橋一丁目の交差点を越えて少し走ると、向かって左側は官庁街だ。経済産業省別館、人事院に環境省。更にその奥に、家庭裁判所や最高検察庁。出勤してきた官僚たちが、次々と建物に呑みこまれていく。

対象的に右側の日比谷公園からはどんどん人が出て来ていた。


「今日はいつもより早いですねえ」


 何時の間にか香水をつけたのだろう。甘い香りを漂わせながら女性が言う。


「そうですねえ、あまり信号に引っ掛らなかったので」


 そう返し、何気なくバックミラーに視線をやり、裏辻は軽く固まった。

 顔がある。

 のっぺらぼうに、顔がある。目があって鼻があって口がある。

 比喩抜きに茹で卵のようだった筈の彼女の顔は、如何にも仕事が出来そうな、それでいて可愛らしいものへと変わっていた。

 成程、化粧は確かに“化ける”ものだ。

 驚きが一周回って妙な所で納得しつつ、アクセルを強めに踏み込んで祝田橋の交差点をすり抜ける。この祝田橋の交差点は、東京タワー方面から来ると青信号の間隔が短い。のんびりしているとすぐに詰まってしまうので、多少強引にでも突破すべきところだった。

 信号を通り過ぎてからもうかうかしていられない。何しろこのままのレーンにいると、次の二重橋前の交差点で右折する羽目になってしまう。

 車の流れが途切れた隙にさっさと一本左のレーンに移り、裏辻は内堀通りを駆け抜けた。

 一直線にスピードを上げて大手門の交差点を過ぎ、その次の交差点で右折レーンに入る。

 今は工事の囲いに覆われた一角に、昔、三井物産の本社があった。その所為か、今でもこの交差点の事を“三井物産があった交差点”というお客は多い。ちなみに三井物産の本社は今、パレスホテルの裏にある〝日本生命丸の内ガーデンタワー”という建物に入っている。


(そう言えば、丸紅の本社も何時の間にか更地になってたわねえ…………)


 丸紅は何処に移転したのだろう。そんな事を考えつつ、裏辻は交差点を右折した。


「この先は如何なさいますかー?」

「フィナンシャルシティに行きたいので-、サンケイビルの角を左に曲がってください」

「かしこまりました」


 女性の返答に頷き、裏辻は車を加速させる。首塚の横を抜け、日比谷通りとの交差点を越え、読売新聞本社――箱根駅伝のスタート地点だ――も過ぎて、サンケイビルの角を左に曲がる。

 サンケイビルの前にはオブジェがでんと立っている。鮮やかな赤色のそれは、灰色に沈みがちなオフィス街の中で一際目立っていた。

 サンケイビルの前を抜け、更に道を一本越えればもう大手町フィナンシャルシティだ。


「えっとー、横断歩道のところで停めてください」

「あ、はい」


 言われるままに横断歩道の所で車を停め、裏辻はメーターを切った。

 料金を受け取りながら、こっそり女性を観察する。

最初に見た時の茹で卵ぶりが嘘のような、くっきりとした目鼻立ちになっている。

 此処まで変化が強烈な人外は早々いないだろう。裏辻同様、様々な人外を見慣れている筈の銀太が、目を見開いて間抜けに大口を開けてしまう程だ。


「お忘れ物はございませんかー?ありがとうございました」


 お決まりの台詞を述べて女性を送り出し、裏辻はレバーを操作してドアを閉じた。


「銀太。いい加減口を閉じなさいよ。驚きすぎ」


 鼻先をつんと突かれ、銀太は口を閉じた。ぱふん、と間抜けな音が車内に響く。


「うっびん。うびびーっび、うびびうんびび」

「そうね、可愛いは作れるわね。ゼロから作るなんてほんっとに凄いわ」


 元からある物を整えるならまだしも、茹で卵状態からのスタートというのは早々無い。普通は無い。寧ろ、あったらおかしい。


「朝から凄いもの見ちゃった気がするわぁ」

「んびんび」


 メーターを戻しながら裏辻と銀太は顔を見合わせた。

これ以上の驚きは、恐らくこれから暫く無いだろう。


「さーて、驚くのは程々にして、次行くわよ次ー」

「うびー」


 パンと軽く頬を叩いて気を取り直し、裏辻はハンドルを握り直した。

 通勤時間は、タクシードライバーにとって正念場ともいえる時間だ。呆けている暇は、ない。

 少しでも多くのお客を乗せるべく、裏辻は車を走らせたのだった。

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