番外・裏辻の朝
朝起きてから出庫するまでの裏辻ってこんな感じだよ、っていう、それだけのお話です。
午前四時三十分。
「うー…………」
鳴り響くアラームを止め、裏辻は呻いた。十分おきに仕掛けたアラームはもう四回鳴った。いい加減、起きなければならない時間だ。
まだ布団に包まっていたい衝動と戦いつつ、何とか目を開いて身体を起こす。窓の外は暗く、未だ太陽は顔を出していない。ふああ、と大欠伸しつつ裏辻はひとつ伸びをした。
「ぷー…………んぷみゃっ」
軽くストレッチをしていると、妙ないびきらしきものが横から聞こえた。銀太はいつも通りまだ寝ているらしい。カボチャ型の容器の中で丸まって、ぷすぷすと寝息を立てている。身支度いらずの銀太はまだ眠っていられるのだ、心底羨ましい。カボチャの容器を八つ当たり気味に一度弾き、裏辻はベッドから降りた。
トイレに行って、顔を洗って、乳液やら化粧水やらを付ける。面倒だが、これを怠るともっと面倒な事になるので、肌のお手入れはさぼれない。
洗面所から戻り、裏辻はハンガーラックに掛けてある制服を手に取った。
さっさとブラウスとズボンを身に着け、スカーフも巻く。なんだか最近前髪が視界の端をちらついているような気がした。次の休みの日に床屋に行くべきだろうかと思いつつ、ベストも羽織る。
「うー…………?」
ベッドに目を遣ると、何時の間にやら起きたらしい銀太がカボチャの縁に顎を乗せてぼんやりとしていた。大方、裏辻が動き回る音で目を覚ましたのだろう。が、まだ半分以上寝ているらしい。今にもずり落ちてしまいそうだ。
「寝惚けてないで起きなさーい。寝なおしたら寝床をひっくり返すわよ」
「ぶびぃー…………」
裏辻の言葉に、銀太は寝床から出ながら不満気に鳴くが、寝起きの所為か元気がない。くりっとした銀色の目は半分以上閉じていた。
「ほら、ご飯にするわよー」
「うびー…………」
ふよふよ浮いた銀太がテーブルの上に着地する。ぷああ、と大欠伸しているのを眺めながら、裏辻は朝食を用意した。自分の分は皿に入れたシリアルに牛乳を掛け、銀太の分は小皿に入れたミニトマトを幾つかとグミを置いてやる。
「うびびびびー」
「いただきまーす」
銀太は頭を下げ、裏辻は手を合わせ、各々食事を始める。
食事をしながら、裏辻はノートパソコンでネットを閲覧し始めた。行儀が悪いのは理解しているが、如何せん時間がない。天気予報と最新のニュースを適当に眺める位しかしないので、勘弁して欲しい所だ。そうこうしているうちに、一人と一匹の食事は終わる。
「さてと、そろそろいきますか」
食器を片付け、歯を磨き、裏辻はジャケットを羽織った。
「んび!」
銀太も完全に目が覚めたらしい。ぱたりと尾を振ると、裏辻の肩に飛び乗る。鞄を持ち、電気を消し、裏辻は部屋を後にした。
●…………………………●
午前五時四十分。
自転車を漕いで十数分、歩くと二十分と少し。足立区の某所に、裏辻の会社の営業所はある。
自転車を駐輪所に置き、裏辻は車の群れを眺めながら車庫を歩いた。
夜勤明けの同僚達が、車を拭いたり談笑したりしている所に挨拶すると、適当に返事が帰って来る。
「おー、アンタが来る時間かぁ。帰って寝ないとなー」
「そうですよー、もう日勤が出て来る時間ですよー。早く帰って寝ましょう、目の下の隈が酷い事になってます」
「まじか」
目の下に触れながら真顔になる同僚に裏辻も真顔で頷き、更に車庫の中を歩く。
「うび!」
裏辻の肩の上で、きょろきょろと周りを見回していた銀太が声を上げた。
銀太が鰭で示す方に裏辻も目を向けると、黒い車体に記された、自分の愛車の無線番号が目に入る。
「ありがと、銀太。…………あら、今日は手前の方にあるわ。ラッキーね」
「び!」
胸を張る銀太の頭をぽんぽんと撫でてやり、裏辻は運転席のドアを開いた。右下のレバーを二つ引き、ボンネットとトランクを開く。レバーを弄ってライトもハザードも全て灯し、鞄から仕事に使う物を取り出した。
トランクに荷物を詰めに行くついでに車体の側面を眺め手傷の有無を確認し、荷物を入れながら燃料の残量を確認し、トランクを閉めつつ後部灯が切れていない事も確認する。さらに反対の側面をさっと眺めて前に戻り、ボンネットを開けてエンジンルームの中を見る。オイルゲージを引っこ抜き、オイルの量や色に異常がないか確認し、バッテリーやファンベルトにも異常がない事を確認して、裏辻はボンネットを閉めた。
「異常はなさそうね」
「うびー」
運転席に戻ってハザードとライトを全て消し、ついでにブレーキを踏んでブレーキ灯もチェックする。三つ全て付いている事を確認してからブレーキから足を離し、裏辻は座席に置いたクリップボードを手に取って、事務所に向かった。
「おはようございまーす」
挨拶をしながら、がちゃりと事務所の扉を開く。
裏辻の挨拶に、掲示板を眺めている同僚はちらりを裏辻を見て軽く手を上げた。名前札を付けた見習い乗務員達は生真面目に挨拶を返してくる。壁の隅でがちがちに固まっている青年は、今日が研修初日らしい。珍しく教習室から出てきている教官が、何やら説明していた。
事務所の奥の納金室では、話に花を咲かせる一団や、何やら机に向かっている背中が見える。何となくその背中に哀愁が漂っているのは、気の所為だと思いたい。
「おう、なっちゃん。おはようさん」
「おはようございます」
アルコールチェックを済ませ、出てきた用紙を千切って運転免許証と一緒にカウンターに置きながら、裏辻は配車表を眺めている、厳つい顔の男性――部長に挨拶を返した。
「おはようございます、乗務員の裏辻奈美です。行動前に一呼吸、後退時は二呼吸。私は絶対に事故を起こしません」
「……頼むから無事故でお願いね。昨日も夜に一件やられ事故があったから」
眉間に皺を寄せながらそう言った部長に、業務日報と免許証を受け取りつつ裏辻はこくこくと首を縦に振った。道理でなんとなくカウンターの中の面子が渋い顔をしているわけだ。部長の奥では課長と宿直の事務員がパソコンの画面とにらめっこしている。なにやら音が聞こえてくるので、多分防犯カメラの画像をチェックしているのだろう。
画像を眺めながら話し合いをする事務所の中の人達を横目に、裏辻は日報と免許証をクリップボードに挟み、チェック項目にさくさくと丸を付け、そのほか書き込むべきところに書き込みをしていく。書き込みを終え、掲示物を眺めていると、事務所の扉が開く音。
「おは、よう、ござい、ます」
ぜーひーと肩で息をしながら男性が入って来た。
「あ、主任。おはようございまーす……壊れたバイク、まだ直ってないんですか」
「あと、一週間だって、さ」
裏辻の挨拶に切れ切れに返事を返し、へひぃ、と妙な声を上げながら男性――主任はカウンターの中に引っ込んでいく。それを眺めていた同僚が、裏辻に話し掛けてきた。
「主任、今何で通勤してんの?」
「自転車らしいですよー。結構遠いところから来てるらしいから、毎朝ああなっちゃって」
「へー。まあ、運動になって良いじゃん」
「大分しんどそうですけどね」
カウンターの奥で麦茶を飲んで大息をつく主任は、勤務前から大分お疲れのようだ。今日の点呼は彼が当番のようだが、大丈夫だろうか。まあ、大丈夫だろう、多分。
「ぷぁあああ」
裏辻の肩の上で、銀太が呑気に大欠伸をしている。それにつられるように裏辻も欠伸を零した。
「何だなっちゃん、眠そうだなあ」
「ふぁ…………ちゃんと寝てはいるんですけどねえ」
「んびんび」
苦笑いする部長に、裏辻は目を擦りながら答えた。銀太もこくこくと頷いているが、残念ながら部長には見えていない。他愛のない雑談をしばらく続けていると、段々と事務所の人口密度が上がってきた。
「さーて、そろそろかな?」
回復したらしい主任が、カウンターの前に立つ。ほぼ同時に、チャイムが鳴り響いた。
●…………………………●
午前六時。
「はーい、六時になりましたので点呼始めまーす。おはようございます!」
先程までへばりかけていたとは思えないほど元気な主任の挨拶から、朝の点呼は始まった。
「早速ですが、昨夜、第二原因の事故が一件ありました。後ろの車が、うちの車がいる車線に車線変更した際、うちの車の左後ろと相手の車の右前が接触したそうです」
皆さん、事故を起こす側にならないで下さいねー、と続け、主任は手元のメモ帳に目を落す。
「あと、文京区で休憩する人ー。路上喫煙しないように。あの辺、すぐ通報されるから。…………それと、今夜、帝国ホテルで宴会があって、百五十台の台数口の仕事があるそうです。近くを通る方は是非寄ってってください」
文京区はあまり行かないし、夜勤ではない裏辻に夜の台数口は関係ない。思わず欠伸をしそうになった裏辻だが、欠伸をしたら主任にツッコまれるので何とか堪えた。
他にも、最近忘れ物が多いのできちんと声を掛けて確認するように、交通違反が増えているので注意するように、と主任はさくさくと話していく。
「注意事項はこんなもんですかね。では皆さん、本日も無事故無違反無苦情で、今日の夕方もしくは明日の朝、無事にお帰り下さい。以上!」
そう言いつつ、主任はカウンターの上にクリアファイルを手際よく並べて行った。クリアファイルには、乗務員のコード番号と氏名が印刷されたシールが貼られている。
一人ずつ名前を呼ばれ、日報に主任の判子を貰う代わりにクリアファイルを受け取っていく。ファイルには乗務員証、各車の無線番号のシールが貼られたETCカード、メーターの記録媒体が入っている。
きちんと一揃い入っているかを確認し、裏辻は事務所を出た。
「あ、裏辻さーん。車、ちょっと動かしちゃいました」
車に向かうべく歩こうとした所で、事務員の青年がやってきてそう告げる。
「あらら。どの辺?」
「ええとですね、一番道路側の真ん中です。すぐ出られます。むしろ、すぐ出てくれないと後ろが詰まりに詰まって裏辻さんが恨まれる羽目に」
「まじか! じゃあさっさと出るわね」
中々洒落にならない事態に、裏辻の顔が少し引き攣った。
普段は優しい同僚達だが、怒らせると怖かったりする……らしい。裏辻は怒らせた事が無いので分からないし、分かりたくも無かったが。
急ごうとしたところで、青年が「あ」と声を上げた。
「なあに?」
不思議そうに首を傾げる裏辻に、青年も何故か首を傾げる。
「あ、いえ。裏辻さんの肩になんか付いてるような気がし……たんですけど、気の所為でした。うん」
「そう? じゃあ行くわね」
「はい。いってらっしゃい」
気の所為、と言いつつ青年は微妙な顔を崩さなかった。
見えてるの? 銀太の事見えてるの? と問い質したい裏辻だったが、残念ながらそんな暇はない。
聞いてみるのは後回しにして、裏辻は車に向かって走った。
車の周りはまだ人気がまばらだった。幸い、まだ皆動き出してはいないようだ。大方、一服したり、用を足しに行ったりしているのだろう。
「セーフ? かな?」
誰ともなしにそう呟き、裏辻は自分の車の運転席に座った。ETCカードと乗務員証と記録媒体を所定の位置にセットし、手早く無線端末の開局処理を済ませる。銀太は相変わらず裏辻の肩の上だ。今日は一日中此処にいる事に決めたらしい。
「さーて、出発するわよー」
シートベルトを締め、裏辻は手を合わせた。
「今日も一日それなりに良い事があって、何事もなく戻って来れますように!」
「うび!」
一人と一匹で、お決まりの願掛けをしてからエンジンを捻る。いつの間にか日は上り、辺りは明るくなっていた。
さあ、一日の始まりだ。
台数口
一度にタクシーを沢山呼ぶ事です。
主にホテルで宴会や大規模な会合があった時にあります。百台とか二百台、あるいはもっと沢山呼ぶことも。