一報目・狸穴坂の老紳士
裏辻奈美はしがない東京のタクシードライバーである。
主に港区・千代田区・中央区――所謂都心三区と言われている場所を日々走り回り、お客を目的地まで可能な限り迅速にお連れするのが仕事だ。
「ふぁ…………」
平日の千代田区・大手町。 眼前で変わった赤信号で大人しく止まりながら、裏辻は欠伸を零した。
目の前の横断歩道は、小洒落た服装を纏った人々が忙しなく行き交っている。
云十年前は帝都、それより更に前は江戸。 呼び名を変えながらも国の中枢であり続けているこの都市は、今日も今日とて人で溢れていた。
ただ信号待ちをしているようで、裏辻の目はあちこちに動いていた。
横断歩道を渡ってからタクシーに乗って来るお客というのは、結構多い。それに、後ろから乗ってくるお客も多い。つまり、信号待ちの時間はお客を乗せる絶好の機会といえた。
不意に、後部ドアの窓ガラスがコンと叩かれた。
裏辻が振り向きつつレバーを操作してドアを開くと、人が良さそうな老紳士が乗り込んでくる。
「狸穴坂へやってください」
「狸穴坂ですね、畏まりました」
足元に気を付けるように促してドアを閉め、裏辻は脳内の地図でルートを探った。
「――内堀通りから桜田通りに出て、飯倉を右で狸穴坂の方でよろしいですか?」
「ええ、それでお願いします」
経路の確認を取り、眼前の信号が青くなったのを確認して車を走らせつつメーターを入れる。
左折のレーンにそのまま入り、大手門を左折して内堀通りに。信号に時折ひっかかりつつ祝田橋を右折し、法務省の赤煉瓦棟を左に見ながら桜田通りに入った。
「いやあ、運転手さんは運転がお上手だ」
「ありがとうございます」
ご機嫌らしい老紳士に礼を言いつつ、裏辻は何となくバックミラーに視線を遣り――老紳士の髪の毛から生えている獣の耳に目が点になった。
(うわあああ薄々そうだろうとは思ってたけどやっぱり人じゃない人だったああああああああ)
信号で止まったのを良い事に一度目を閉じ、また開いてバックミラーを見る。
幻覚でも何でもなく、相変わらず老紳士の頭には獣の耳が生えていた。
狐……ではなさそうだ。“狸穴坂”らしく、狸だろう。多分。
「あのー、お客様」
「なんでしょう?」
話を振っておいてあれだが、裏辻は迷った。とても迷った。
これは指摘してもいいものだろうか。それともそっとしておくべきなのだろうか。そっとしておいても構わないが、もしこの老紳士が耳を隠し忘れたまま降りて行ってそのままうろついてしまいでもしたら如何しようか。それはこう、些かまずい気……がする。
無表情の下で悩む裏辻と老紳士の視線がバックミラー越しにあう。
「……おや、解けてしまったようですね」
裏辻の視線が何処に向いているかに気付いたらしい老紳士が、ぽんと自分の頭を叩いた。
獣の耳が一瞬で消え失せる。
「流石狸、お上手ですね」
「それほどでも」
思わず呟いた裏辻に、老紳士はにっこり笑った。
「僕は人に化けられるようになってそれなりになりますが……貴女、最初に僕を見た時から、僕が人ではない事に気付いていましたね?今の人間にしては、とても良い目を持ってらっしゃる」
「それは、どうも」
老紳士にそう返しながら飯倉の交差点を右に曲がる。ロシア大使館と警備のために周囲をうろつく警官を眺めながら、ロシア大使館の先の信号を左に曲がって狸穴坂へ。
「この先は如何なさいますか?」
「ああ、坂を下りきって右に曲がって、信号を越えた所で停めてもらえますか?」
「かしこまりました」
言われるままに坂を下り、交差点を右に曲がって信号を越える。
此処だけの話、あと少しで黄色に変わるところを少々強引に突破した。
「ではこちらでお停めいたします」
「はい、ありがとう」
車を停めてメーターを支払いにして、料金を頂く。
びう、と金属質な何かの鳴き声が車内に響いた。
響いた声には何処となく警戒心が籠っているように聞こえる。
「お連れさんが心配しなくても、お金は本物ですよ」
「すみません、一回他の狸の方に木の葉のお札を出された事があったので」
おやおや、と苦笑いする老紳士から紙幣を受け取り、裏辻はさりげなく感触を確かめた。
この前は相手も遊びで出して来たのか、質感がなんとなく違うからすぐに分かった。
無賃乗車かこの野郎警察を呼ぶぞと真顔で脅したら、顔を引き攣らせながらすぐに本物で払ってくれたが。
とまあ、それはさておき。
滞りなく釣銭を支払い、領収書を渡す。
老紳士は領収書を受け取ると、そこに書かれている無線番号――車両ごとに割り振られている番号だ――を眺めているようだ。
「貴女はいつもこの番号の車に乗っているのかな?」
「はい、そうですが」
今後の展開が予測できて、裏辻は内心溜息をついた。
「そう。では、今度から呼ばせてもらおうかな。またよろしくね、辻の御嬢さん」
「……カシコマリマシタ」
お客様からまたよろしくねと言われたら、しがない社畜に断る権利はない。
げんなりする裏辻を余所に、老紳士は機嫌よく車から降りて歩いて行ってしまった。
「また人じゃないお客が増えた…………」
老紳士を降ろした場所からしばらく走って、芝公園の近く。
車を停めた裏辻はハンドルに額をつけ、深くため息を吐いた。
いや、お客が増えるのは良いのだが。良いのだが!
人ではない御仁達を乗せると、大体妙な所を通らされたりおちょくられたりするので、裏辻としては少々複雑だ。
「うびーう」
そのまま暫く突っ伏していると、妙な鳴き声と共に、べしべしと頭を叩かれる感触。
裏辻が顔を上げると、裏辻を妙な銀色の生き物が覗き込んでいた。
頭が龍、胴体は魚。ひらひらと鰭を動かして空中を泳いでいる。
中途半端に瀧を昇って龍になりかけた鯉はこのような姿なのだろうか、と思わせなくもない見た目だ。
「びー」
妙な生き物は、今度は裏辻の頬を鰭でべしべしと叩く。
慰め…………ているわけではないようだ。どちらかというとこれは、何かを催促しているような気がする。
「あー、おやつね」
そういえばもうそんな時間か。
裏辻はダッシュボードの中を探ると、飴玉を二つ取り出した。
包みを解いて、一つは自分の口へ。もう一つを妙な生き物に差し出した。
「ふび」
ぱたりと一度尾を振ると、妙な生き物は飴玉を咥え――バリボリっと豪快に噛み砕いた。
「銀太や、飴は噛む物じゃなくて舐める物だっていつも言ってるでしょうが」
「ふびゅー」
呆れ気味の裏辻に構わず、妙な生き物――銀太は飴を噛み締めてご満悦だ。
「まったく、やれやれだわー」
昼寝したら帰ろうかなあ、なんて思いつつシートにだらりと凭れる。
今日も結局、いつも通りの一日のようだ。
裏辻奈美はしがないタクシードライバーである。
他のドライバーと同じように走り回って、お客を乗せて目的地までお連れし、また走るのを日々繰り返している。
唯一つ、彼女が他のドライバーたちと違う点を挙げるとすれば――彼女が乗せるお客には、時々人ならざる者たちが混じっている、という事だろう。
思い付いたら適当に続きます。
狸穴坂と書いて『まみあなざか』です。