ようこそ初戦闘へ!
「くっ、来るなぁぁぁああああ!!」
バタバタと騒がしい音が聞こえる対岸から叫び声が響いた。
緩やかな坂を駆け上がり、川側へ男が土手をド派手にバタバタ転がり落ちて来た。男は見るからに貧弱で、薄汚れた麻の服に茶色のベストが似合う『THE農民』といった感じだ。
対岸に居る二人には全く気付いていないらしく、しきりに後ろを気にしながら川を目指して進んでいる。が、しかし、転げ落ちたダメージからか立つことが出来ず、まるで犬のように四つん這いで必死の形相を見せている。
魔幻堂は男の様子を見て何かに追われている事を直感し、アリスに銀の剣の装備を促した。
急に起きた出来事にアリスは驚きを隠せず、「え?えっ!?」とアイテムを出す事に手間取ってている。
農民風の男は躊躇するとこなく川へ飛び込み、対岸を目指して不格好な犬掻きを始めた。そこでようやく二人の存在に気付き、水を呑み込みながらも「逃げろっ!」と叫んだ。
───ブブブブブブブブブブ・・・・・・・・・・・・・・・
異様な振動音と共に男を追い現れたのは、遠目に見ても大きな蜂だった。日本で、いや、地球ではまず見ることの無い小学一年生ほどの大きさを誇る巨大な蜂。黄色と黒の色彩に長細い形状は、大きさ以外スズメバチのそれである。
「【殺人蜂】・・・」
ようやくシルバーソードを手にしたアリスは、飛んできた巨大な物体の名をポツリと呟いた。
この世界へ来て初めて目にした怪物である。
「キラービー?ですか。物騒な虫ケラですねぇ」
あの巨大な蜂を見ても呑気に虫ケラ扱いする魔幻堂と相反して、アリスは初めて死と直面した恐怖に、剣を持つ手を震わせていた。
普通のスズメバチに遭遇しただけでも、あの禍々しい黄色と黒の威圧感に恐怖を覚える人は少なくないはずだ。それが人間の子供ほどの大きさで迫り来る恐怖となれば、即座に死を意識してしまうのは当然だろう。ましてや命が細い棒キレで見えてしまうのだから尚更である。
【殺人蜂】はその大きさからか、飛ぶ速度が普通の蜂ほど速いものでは無く、貧弱な男がここまで逃げ切れたのも納得がいく速度だが、急襲されたとなれば容易に逃げられる相手ではない。
男は必死の犬掻きで川を泳ぐ。幸いなことに流れは遅く、下手な泳ぎでも下流へ流されてしまう程ではない。しかしながら、狙われているので水の勢いを借り下流へ逃げる方が断然速いのだが、そんな事も考えつく余裕の無い男は、着々と二人の方へ近づいていた。
「あれは・・・連れてくる気満々ですよねぇ」
「ど、ど、どうしましょう!?」
ゲームでは画面越しに平然と戦ったアリスだが、やはり現実にとなればそう簡単に動けるわけが無く、アリスが思い描く【理想のアリス】になるには、まだまだ先が長そうだ。
キラービーは獲物を確実に追い詰めている。水など気にするとこなく男を捉えるだろう。しかし、キラリと黒光りする大きな目に別の姿が映り込んだ。
蜂は『黒い色』に反応すると言われている。それは、敵の弱点をつく為だとか、天敵が黒いものだからとか諸説言われているが、この世界のキラービーも然り。逃げる男のその先に『黒い敵』を発見したのだ。
黒いシルクハットに黒い燕尾服、黒いズボンの魔幻堂は、キラービーの敵対心を独り占めにした。
追って来た男など初めからいなかったかのように、犬掻きをする男の頭上を華麗にスルーし、魔幻堂へ向け一直線に飛んで行くキラービー。
標的が自分だと気付いた魔幻堂は、アリスから少し離れるよう前へ歩み出た。
「あんたぁ何してる!?あぶねぇから早く逃げろぉ!」
浅く足の届く所まで泳ぎ着いた元獲物は、自分がモンスターを連れて来たのにも関わらず、「逃げろ逃げろ」と訛り口調で騒いでいる。
ブブブブブブ・・・と背中が痒くなりそうな羽音を立て、腹部からもはや針とは呼べない大きさの巨大なトンガリを突き出し、速度を上げ突進して来たキラービーを、魔幻堂は難無くサラリと躱す。
ひらりひらりと何度も華麗に躱す姿は闘牛士さながら、騒いでいた男もその勇姿に見入ってしまい、口をあんぐり開けたまま川縁に座り込んでいる。
当たれば即死するであろう突撃を何度も繰り出し、その全てを軽く躱されたキラービーは、滞空状態で頭をぐるりと回し、カチッカチッカチッと威嚇音を鳴らす。
言葉も表情も分かるはずの無い相手だが、魔幻堂にはその行動が、怒りと動揺がごちゃ混ぜでイライラしている様にしか見えず、無意識に笑みを浮かべていた。
抜き身の【夢幻】を奮うこと無くギリギリの回避行動を楽しんだ魔幻堂は、何故か夢幻を鞘に収め、挑発するかの様に首をぐるりと回した。
それを理解したとは思えないが、キラービーのホバリングは大きく上下し、羽音と威嚇音が一層不快な雑音を響かせる。
今にも会心の一撃を繰り出そうと狙っているのだろうか、上下するホバリングの間隔がどんどん短く小刻みになっていく。
攻撃タイミングを察知し、先に動きを見せたのは魔幻堂だった。後方に大きく跳び、キラービーの突進を誘う。
黒光りする大きな目に黒い敵の動きを捉えたキラービーは、これ迄の攻撃が全て布石だったと思える速度で、空を切り裂く強烈な突進攻撃を繰り出した。
魔幻堂は突進を極限まで引き付け左側へサイドステップで躱すと、キラービーの巨大針が風を巻き上げながら地面に突き刺さる。
「きゃっ!!」
魔幻堂がキラービーを誘導した方向はアリスのすぐ側で、巻き起こった風がアリスのスカートをまくり上げた。握ったシルバーソードの柄で反射的にスカートを押さえたアリスだが、後ろにいる魔幻堂にはぷりんっとしたお尻がバッチリ見えている。
風に飛ばされたシルクハットを押さえようともせず、魔幻堂が手を伸ばしたのはアリスのそれで、下から上へぷるんと撫でるとアリスは再び叫び声を上げた。
「きゃあああああああああ!!」
臀部に感じた痴漢行為にアリスの身体は自然と反応し、撃退攻撃を繰り出す。前屈み気味の体勢から振り向きざまに振り抜かれたシルバーソードの一撃は、右側の地面に突き刺さったキラービーを綺麗に上下二つのパーツに切断し、ギッと短い断末魔と共にHPの赤い棒線を色無きものにした。
魔幻堂はバックステップでそれを躱し、飛ばされたシルクハットをキャッチする。
「えっ、は、あっ、な、なな何してるんですかっ!?せ、戦闘中にっっ!!」
「アリスさん、素晴らしい一閃でしたね♪」
悪びれない魔幻堂を責め立てるアリスのその横で、一刀両断にされた骸がドサッと崩れ落ち、細かい光の粒子となり弾けると、そこには巨大な針と紫色に光る小さな石が残された。
偶然なのか狙ってなのか、恐怖に震えて戦えそうにも無かったアリスがキラービーを倒し、この世界で初めての勝利をその瞬間確かなものにした。