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第五話 ボルティマー/アンブレスベリーの虐殺/サクス

 ロンドンは鎧を着込んだ騎士たちで溢れかえっていた。

 ボルティゲルンの息子ボルティマーが立ち上がり、暴君に対抗するために軍勢を集めている。その噂を聞いた貴族や領主が、次々と集結していたのだ。

 騒ぎがここまで大きくなっても、ボルティゲルンは行状を改めることをしなかった。むしろ、今まで以上に妻のロウィーナに傾倒し、彼女の親族である異教徒と結束を強めていく有様である。

 そして、ついに戦いの火蓋は切って落とされた。

 父親とはまったく異なり、ボルティマーは指揮官としてきわめて優秀な才能を発揮することになった。

 彼は、ロンドン市街に居座っていたサクソン人を追い出すことからはじめた。まずは戦いの基盤を固め、キリスト教徒に化けたサクソン人に内側から引っ掻き回されることを防いだのだ。


 戦いは、四回に渡って行われた。

 ロンドンから追い出されたサクソン人は、テムズ川の支流ダレント川の堤に布陣し、ここで最初の戦いがはじまった。

 ボルティマーの行動は素早かった。散らばったサクソン人が集結し切る前に、電光石火の勢いで襲いかかったのだ。

 浮足立ったサクソン人はケント地方の内陸にまで後退し、アイルズフォールドで立て直しを計った。

 ニ度目の戦いにおいても、ボルティマーは果敢にサクソン人に挑んだ。しかし、すでにケント地方はサクソン人の手に落ちて久しい。集結したサクソン人は粘り強く応戦してきた。

 そして、戦いの行方は、二人の騎士の一騎打ちへと移っていく。

 かたや、ボルティマーとともに暴君と袂を分かった末の弟、ボルティガー。

 対するは、ヘンギストの片腕ホルザである。ブリテン人を押し返すべく、この戦いに参戦していたのだ。

 一騎打ちは熾烈を極めたが、意外な形で終わった。

 どちらが先に力尽きたのかは分からない。ボルティガーもホルザも、戦いの喜びと高揚の中で痛みを忘れ、血を流すことをいとわずに激しく斬りあったのだ。

 結果、勝利はどちらの手にも渡らなかった。二人とも、この一騎打ちで命を落としてしまったからである。

 しかし、動揺はサクソン人のほうが大きかった。ヘンギストと並ぶほどの闘士であるホルザが死んでしまったことで、指揮系統が無くなってしまったのだ。

 ボルティマーをはじめ、多くの貴族や領主が健在なブリテン軍は一気に攻勢に出て、ここでもサクソン人を撃退した。

 後のなくなったサクソン人は、ケント地方を死守するために、ハンバーからスコットランドにかけての広大な地域に散らばっている同胞を掻き集め、ケント沿岸に集結した。

 ここで三度目の衝突を迎えたが、もはや破竹の勢いで進軍を続けるボルティマーの前に、ホルザという強力な指揮官を失ったサクソン人の勝ち目は無かった。

 そもそも、普段の戦い方からして、ブリテン人に化けて一般市民を襲い、形勢不利になったら一目散に逃げてブリテン人に紛れ込む、そんな卑劣な戦いばかりを繰り返してきたサクソン人である。正面からのぶつかり合いとなれば、勝負になるはずもない。

 サクソン人は、ついにケント地方の最東端、サネット島[1]にまで追い詰められた。そこには、この侵略者たちが乗ってきた無数のガレー船が停泊しているのだ。

 四度目の戦いは、もはや戦いとは呼べないほどの一方的なものとなった。ボルティマーも艦隊を組織し、陸と海からの挟み撃ちにしたのだ。

 ガレー船の中に逃げ込んだサクソン人だったが、もはや反撃すらもままならない。陸は桟橋から、海はブリテンの軍艦から、次々に放たれる弓と弩の矢に耐えることしかできることはなかった。

 もはや、サクソン人は完全に袋の鼠となっていた。そして、決定的なことに、食料が残り少なくなっていた。

 このままでは、戦いを生き残っても餓死するのみである。船上のヘンギストは、壊滅しつつあるサクソンの仲間を見て、ついに決断を下したのだった。

 勝利を疑わず、鬨の声を上げて戦いを続けていたブリテン人は、その喧騒の中に、ある人物を見つけた。

 鎧を着ることなく、剣すらも帯びずに、無防備な姿でガレー船から降りてきたのは、すべての元凶ボルティゲルンその人だったのだ。


 すぐさま捕らえられたボルティゲルンだったが、ブリテンの貴族たちを前に、彼は傲岸として言ってのけた。

「ヘンギストより和平の申し入れがある。我が息子ボルティマーへと取り次ぐのだ」

 この愚かな暴君は、いまや敵側の大使に成り下がっていた。

 実のところ、ボルティゲルンは戦いがはじまった時点では、サクソン人がこのような大敗を喫するとは、夢にも思っていなかった。しかし、気がついたときには、ヘンギストと一緒にサクソンのガレー船に乗り込んでいたのだ。

 いまさら、仲間を抜けるなどと言い出せるはずもなく、サクソン人と運命を共にするしかないボルティゲルンだったが、最後の最後で妙案を閃いたのだ。

 ブリテンの司令官ボルティマーは、自分の息子である。自分が和平を申し入れれば、あるいは耳を貸すかも知れない。

 こうして大使となったボルティゲルンは、まんまとサクソン人の輪から抜け出すことに成功した。そして、息子ボルティマーに対して、ヘンギストからのメッセージを伝えた。

 要求はただひとつだけである。

 いわく、すべてのブリテンの領地を放棄してサクソンの地へと引き返すから、その間、攻撃を加えないで欲しい。

 しかし、この要求ですら真実ではなかった。ボルティゲルンが息子の前でぺらぺらと喋っているちょうどその頃、サクソンのガレー船は動きはじめたのだ。

 もはや、陸地のブリテン人にも海上のブリテン軍艦にも目もくれず、ガレー船は海の彼方へと去っていった。サクソン人はボルティゲルンに交渉をさせて時間を稼ぎ、その返事を待つこともなく船の帆を上げ、オールを手に手に一目散に逃げ出したのだ。

 その逃げ足たるや、妻や子供を置き去りにしていくほどで、彼らが持ち帰ったものはブリテン人に対する恐怖の記憶のみとなった。


 今まで隣人に化けて悩ませ続けていたサクソン人はいなくなり、ボルティマーはケント地方やハンバー川以北、領主から奪われた土地という土地をもと通りに戻していった。

 ヘンギストや異教徒が破壊した教会を新たに建てて、それぞれの土地に神の法が改めて布告された頃、二人の司教がブリテン島にやってきた。

 ローマの伝道者、聖ロマヌスから使わされた聖ゲルマヌスと、フランスのトロワからやってきた聖ルイスである。二人は、ともに神への道を歩むため、荒廃したこの地を訪れたのだ。

 彼らによって、十戒の記された石版が教会に掲げられた。さらに二人の司教は、救いを求める大勢の人々に向かって、神の救済と奇跡、そして美徳を説いた。そして、キリストを信じる限り、神はこの地にて恵みをもたらすことを伝えた。

 こうして、戦乱によって神を見失いかけていたブリテン人は、正しい信仰を取り戻すことができた。

 ようやく、ブリテンに平穏が訪れたのである。


 ――だが、油断してはならない。

 神の法がもとに戻り、ブリテンがキリスト教徒の手に取り戻された今こそ、裏切りと妬みに、そして、それによってなされる悪行に注意せねばならないのだ――


 ボルティマーが死んだ。

 突然のことだった。誰もがこのままブリテンの王となることを期待していた王子は、ロウィーナによって毒を盛られてしまったのだ。

 この邪悪な継母は、夫のボルティゲルンに歯向かい、さらに父親ヘンギストをブリテンから追い出したボルティマーを、心の底から憎んでいた。

 すべての医者がさじを投げたとき、彼は貴族たちを招集した。死ぬ前に、自分の遺産を貴族に譲渡するためである。さらに彼は集まった貴族たちに遺言を残した。

「我が忠実な騎士たちよ」苦しい息の中で、彼は言った。

「私の遺産を、そなたたちの戦士たちのために受け取るがよい。決して、それを彼らに与えることを渋ってはならないぞ」

 彼の気がかりは、海の果てに逃げていったサクソン人たちのことだった。きっと、彼らはまたブリテンを狙ってやってくる。その予感があったのだ。そのために、戦士たちには充分な報酬を与え、力いっぱいに戦えるように備えておかねばならない。

 さらに、ボルティマーは続けた。

「もうひとつ。いつサクソン人が来てもいいように、各地を整備するのだ。……私の戦いが無駄にならぬように。……そして、サクソン人に永遠に恐怖を与え続けるために、私の屍を海岸に埋めよ。その上に、朽ちることのない、巨大な墓を作るのだ。……海を航海するすべてのものが、どんなに遠くからでも目にすることが出来るような、大きな墓を作るのだ。私は、生きていようが、死んでいようが、永遠に奴らを見張っていよう。そうすれば、彼らは二度とブリテンに近づこうとはしないだろう」

 これだけを伝え、ボルティマーは彼の旅路を終えた。短い時間ではあったが、彼は聡明な王だった。それに相応しく、彼は穏やかに死んでいった。

 しかし、貴族たちは、彼が遺言で言っていたようには、海岸に墓を作らなかった。

 なぜかは分からない。あるいは貴族たちは、ボルティマーが死しても安らぐことなく、その魂が永遠に戦い続けることを哀れんだのかも知れない。

 ともあれ、彼の屍はロンドンに運ばれ、そこで横たわり、永遠の眠りについたのである。


 ボルティマーの死後、ブリテンは混迷をきわめた。

 なにしろ、人々が望んだ聡明な王がようやくあらわれたと思ったら、あっという間にこの世を去ってしまったのだ。

 しかも、あまりにも優秀だったために、どの貴族も領主も、彼に比べるとくすんでしまう。いったい誰を王にすれば良いのかわからぬまま、混乱状態が続いた。

 そして、気づいたときには、かのボルティゲルンが、のうのうと王座に座っている有様だった。この暴君を再び追い落とそうにも、今のブリテン人には、彼らを強力に率いてまとめる君主がいなかったのだ。

 しかし、ボルティゲルンは以前のように圧制を敷いて人々を虐げることをしなかった。ブリテンの貴族や領主たちを怒らせるとどうなるのか、身をもって知ったからだ。

 だが、ボルティゲルンがおとなしくしていたからといって、彼の身内までがそうするとは限らない。義理の息子を殺した邪悪な継母は、再び王座に着いたボルティゲルンに、父親にもう一度会いたいと懇願したのだ。

 かくして愚かな王は、再び過ちを犯した。

 ヘンギストに使者を送り、ロウィーナとともにブリテンで暮らすようにと伝えたのだ。

 もちろん、以前のような大艦隊で来られては困る。彼には、ほとんど軍隊がなかったからだ。ボルティマーが死に、戦う相手がいなかったために、彼はもはや軍隊を必要としていなかった。仮に必要としても、いまやこの愚か者のために戦う貴族など、数えるくらいしかいないだろう。

 そのため、ヘンギストに送ったメッセージには、厳しく条件を付け加えてあった。ブリテン人を刺激せぬよう、連れてくるのは家族など、ほんのわずかな数だけに留めるようにと。

 もちろん、ヘンギストがこの機会を逃すはずがなかった。

 彼は、ボルティゲルンの伝言から、ブリテンの状況を察したのだ。自分たちサクソン人を追い返したボルティマーはロウィーナによって殺され、王はほとんど軍隊を持っていないというではないか。

 ヘンギストは素早く動き、ガレー船に乗り込んだ。もちろん、ひとりではない。

 鎧に身を包んで完全武装した精鋭、その数三〇万人。

 以前にブリテン人を甘く見て、痛い目にあったのだ。おなじ失敗を繰り返すことのなきよう、彼は周到に準備をして、その上でブリテンを目指した。


 サクソン人の大艦隊が海の向こうにあらわれた。

 その知らせを聞いたとき、ボルティゲルンは今度こそ心の奥底から震え上がった。あまりの恐怖に歯の根も合わず、言葉ひとつ発することができなくなるほどだった。

 一方、ブリテンの貴族や領主は怒り狂った。もはやボルティゲルンなど捨て置いて次々に集結し、再び挑んできた邪悪な異教徒を追い出すことを誓って、気勢をあげていた。

 だが、本気でブリテンを攻略しにきたヘンギストは、きわめてずる賢く、そしてその心根は邪悪そのものだったのだ。

 彼は、いきなりブリテンに上陸して戦争をはじめることをせず、ボルティゲルンに伝令を送った。

 いわく、ブリテン人とことを構えるつもりはない、彼らと友人として語り合いたい、と。

 そして、彼らと打ち解けて、愛情をもって互いを信頼できるように、親睦のための会合を開きたいと申し出てきた。

 この伝言に、ボルティゲルンは涙ながらにすがりついた。いまや、平和だけが彼の望むすべてとなり、平和を求めることが、なによりも優先されるものだったのだ。

 踏みとどまり戦う意思を持ち、あくまでもサクソン人を追い出すことを考えていたのは、ブリテンの貴族や領主たちだけだった。王国を守るべき王は、とっくに戦う意志を放り出していた。

 ボルティゲルンは、戦争など、もはや考えるのも嫌だった。もしも戦争になるくらいならば、いっそのこと王座など放り出して、ブリテンの外に追放されたほうがましだと思えるほどに怯えていた。

 こうして、会合の日が定められた。

 会合にあたって、ボルティゲルンはサクソン人にわずかな仲間しか連れてこないことを約束させた。さらに、会合の中で言葉の応酬が暴力の応酬へと変わってしまうことを恐れ、参加するすべてのものに、武器を持ち込むことを硬く禁じた。

 ヘンギストは、快くその条件を受け入れた。だが、これまで彼が画策してきたことを考えれば、彼の約束など、いったいどれほどの意味があろうか。

 かくして、その日は訪れ、ブリテン貴族とサクソン人、二つの集団はソールズベリー大平原の北のはずれ、アンブレスベリー修道院[2]の近くで相対した。


 五月一日の出来事である。

 ヘンギストはあらかじめ、彼の仲間たちと策略を練っていた。彼には、ブリテン人と友好を結ぶつもりなど、これっぽっちもなかったのだ。

 武器の持ち込みは禁止されているが、まさか会合の場に集まった男たちを丸裸にするわけにもいくまい。会合に赴く正装のように見せかけて、厚手の服を着こみ、それぞれが服のなかに鋭い両刃のナイフを忍ばせておくことにした。

 計画はこうだ。

 まず、会合がはじまったら、サクソン人はそれぞれがブリテン人の間に座り、とりあえずはにこやかに談笑をする。しかし、その間ずっと、ヘンギストの言葉を聞き逃さぬよう、耳を澄ませておかねばならない。

 ヘンギストがサクソン人にしか分からない言葉で合図をしたら、それをきっかけに、サクソン人は各自の隣にいるブリテン人を突き刺し、殺してしまうのだ。

 会合ははじまった。

 王の命令を忠実に守り、まったくの無防備となっているブリテン人と、邪悪な異教徒たちは、談笑をはじめた。

 サクソン人はブリテン人の騎士たちの武勇を褒め称え、ブリテン人もまたサクソン人の勇敢さを褒めることで応じた。

 こうして、一見和やかな時間が過ぎていったように見えたが、酒も回り、ほのかに心地よい気分が行き渡ったころ、おもむろにヘンギストは立ち上がった。そして、

「Nimad covre seax!」広い会場のすべてに響くような大声で叫んだ。

 もしも、ブリテン人たちの中にサクソン語に詳しいものがいて、この言葉が「ナイフを抜け!」という意味だと分かったのであれば、あるいは、多少は違う結果になっていたかも知れない。

 しかし、サクソン人たちが分厚い衣服の中からギラリと輝く鋭いものを見せるまで、ブリテン人たちは気づくことはなかった。

 互いの武勇を褒め称えあい、談笑していたその穏やかなざわめきは、耳をつんざく断末魔に引き裂かれた。


 グロスターの伯爵エルドフは、はっとして悲鳴の聞こえたほうを見た。そこには、血の滴り落ちるナイフを持ったサクソン人と、倒れたブリテン人がいた。サクソン人はなおもナイフを振りかざし、すでに動かなくなったブリテン人を滅多刺しにしている。

 恐ろしい気配を感じて振り返ったとき、エルドフの隣にいたサクソン人もまた、邪悪な笑みを浮かべてナイフを振りかぶっていた。

 転げるように身を躱し、地面にどうと倒れる。身を守るものはないかと己が身体を探るが、王命により武器はすべて置いてきてしまったのだ。周囲にあるものは石ころくらいのものだ。

 しかし、突き出されるナイフから逃れて転げまわるうちに、手に触れるものがあった。それがなにかを考える余裕もなく無我夢中で振り回すと、まともに食らったサクソン人は小石のように吹っ飛んだ。

 いったい誰が持ち込んだのか、それとも神が与えたもうたのか。エルドフの手には巨大な棍棒が握られていたのだ。

 エルドフは、グロスター地方でもっとも裕福な伯爵だというだけではなかった。屈強な騎士としても知らぬもののいない豪傑だったのだ。その彼が大きな棍棒を手にしたとなれば、もはや止められるものはいない。

 気づいて次々に殺到してくるサクソン人を、片っ端から薙ぎ払った。

 ひと振りでふたりを、あるいは三人以上を薙ぎ倒し、倒したサクソン人の数が六〇を超えたあたりで数えるのをやめた。さらに一〇人ほどを打ちのめしたとき、エルドフ伯爵は荒い息の中で周囲の状況を見た。

 ブリテン貴族たちは四六〇人ほどが列席したと聞いていたが、そのほとんどは血溜まりの中に倒れている。

 王の席を見ると、この裏切り者たちを招き入れたボルティゲルンでさえも、何人かのサクソン人にまとわり付かれ、その腹にナイフを突き立てられていた。

 生きた獲物を求めるサクソン人が、エルドフのもとに殺到してくるのは時間の問題だった。

 しかし、彼はこそこそと身を隠すことなく、棍棒を振り回して立ち塞がる邪魔者を粉砕し、自らの勇気によって活路を切り開いた。堂々と修道院の厩舎へと向かい、相対したサクソン人から一度として逃げることなく、そのすべてを打ち倒して、馬のところまで押し通ったのだ。

 神の加護だろうか、彼の身には傷ひとつついていなかった。


 自らの治めるグロスターへと戻る道中、馬を駆りながらエルドフ伯爵は状況を理解しつつあった。

 かなりの数のブリテンの貴族が殺されてしまった。サクソン人はすぐさま次の行動へ移ることだろう。

 その前にグロスターまで戻り、戦争の準備をしなければならない。砦を整え、食料と武具を備蓄するのだ。

 再び、戦争がはじまったのだ。


 ――この卑劣な裏切りを忘れぬため、以来ブリテンではナイフのことをサクスと呼ぶようになった。

 しかし、世界が変動すると、それに合わせて物の名前も変化していくものだ。そして、人々は、かつての意味を思い出せなくなるのだ。

 当初、このサクスという単語はサクソン人たちの裏切りを非難し、受けた屈辱を忘れないためにこそ使われていた言葉だった。

 しかし、アンブレスベリーでの逸話が人々の記憶から流れ去るとともに、この言葉は単にナイフのことを示す単語へと変わっていったのだ――


[1]サネット島(Thanet)……現在では島ではなく、ケント地方の最東端にある岬の名前になっています。

 wikiによればローマ時代には海峡によって分断されていたそうですが、堆積物によってだんだん塞がって陸続きになってしまったようです。

 グーグルマップなどで見ると、周囲には「Isle Of Thanet」の名を持つ施設や道路などが多数見受けられ、かつてこの場所が島であったことを伝えています。


[2]アンブレスベリー(Ambresbury)……おそらく現在におけるエイムズベリー(Amesbury)のことでしょう。

 こういった言葉の変化は、ほとんどの場合あの手この手で辿れるものですが、どういうわけか、Ambres→Amesに変化した経緯はまったくわかりません。

 当然、同一の場所である確証も得られないのですが、この後の話で登場する文脈から察するに、恐らく間違いないものと思われます。


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