第四話 ボルティゲルンとロウィーナ
バンカスター城が完成に近づいたころ、十八隻の船があらわれた。ヘンギストの家族が、騎士や従者をともなって、彼が獲得した領地へとやってきたのだ。
その中にひとり、驚くほど美しい娘がいた。ヘンギストの娘、ロウィーナである。
未婚である彼女が到着したことで、ヘンギストは計画していたすべての準備が整ったことを悟った。
彼は、ボルティゲルン王に伝令を送った。建造した城を見てもらい、自分の家族を紹介するためである。
豪華な祝宴でもてなしたいので、是非とも逗留していって欲しい。そんなメッセージを受け取ったボルティゲルンは喜んだ。
しかしその一方で、この噂が流れたら、ますますブリテンの貴族は自分を憎むだろう。ボルティゲルンは貴族たちの目を気にしつつ、噂が行き渡る前に、こそこそとバンカスターへと向かうのだった。
完成した城は、ボルティゲルンが見たこともないほど堅牢で、美しいものだった。
「なんと、素晴らしい」
賞賛の言葉を贈るボルティゲルン。ヘンギストはやんわりと微笑んで、城門を開けた。すると中から何人かの騎士たちがあらわれ、王の足元にかしこまった。この騎士たちもまた、ヘンギストたちと同じく美しい顔立ちで、ボルティゲルンを驚かせた。
そして、美しいサクソンの騎士たちによって、ボルティゲルンは宴会の席へといざなわれていく。
これほどの美しい城で、それ以上に美しい騎士たちに囲まれ、目の前には次々に贅沢な料理が運び込まれる。これだけでもボルティゲルンはほとんど夢心地だったが、しかし、祝杯の準備に及んで、彼の天国にいるような心持ちは頂点に達することになった。
奥の扉が開き、何人かの娘が酒杯を手にあらわれたのだ。
青年の騎士ですらも、これほど美しいのだ。彼らの若き女性がそうでないという道理があるはずもない。
その中でも、とびきり目を引く少女が、しなやかな腰つきでボルティゲルンのもとに歩いてきた。手に持った酒杯には、溢れそうなほどにワインがなみなみと注がれているが、彼女の優雅な足取りは、その一滴すらも零しはしない。
横にいたヘンギストが、王に微笑みかけた。
「偉大なる王よ。我が娘、ロウィーナを紹介しよう」
ボルティゲルンはぽかんと口を開けたまま、少女の立ちふるまいに見入っていた。
ヘンギストの娘ロウィーナは、無駄のない鮮やかな動きで王の目の前に跪く。しかし、酒杯を差し出すのかと思いきや、
「ワズハイル。我らが君主にして、偉大なる王よ」
言ったまま、酒杯を差し出すでもなく、ボルティゲルンの瞳をまっすぐに見つめてきた。
「…………」
ボルティゲルンの心は彼女の瞳に吸い込まれ、身動きが取れない。
どれくらいそうしていたのか、ふと目の前の少女が同じ姿勢で酒杯を手にしたまま微動だにせず、王になにかしらの所作を求めていることに気づいた。
我に返り、横に控えていたブリテン人の脇腹を肘で小突く。
レディックという名の、このブリテン人は――実はこれは嘘で、実際には送り込まれたサクソン人だったのだが――サクソン語の学者で、彼らの作法や風習について王に助言するために、彼らを相手にするときには必ず横に控えていたのだ。
レディックは、すかさず王に耳打ちした。
「閣下、これはサクソン人の習慣で、親愛の酒杯なのです。友と友が飲み交わすとき、酒杯を差し出すものは『ワズハイル』と言い、相手の返事を待つのです」
「それで、どう応えればよいのだ?」
「受けたものは『ドリンクハイル』と応えるのです。そうすれば、彼女は酒杯の半分を飲み、喜びと友情のために差し出してくるでしょう。それを受け取る際に、貴方は親愛を込めてキスをするのです」
ボルティゲルンはレディックの教えに従い「ドリンクハイル」と言って、少女に笑いかけた。ロウィーナは微笑み返し、手に持っていた酒杯を自らあおった。そして、半分に減ったワインを差し出してくる。酒杯を受け取る際に、王は彼女にキスをして、そして彼女にじっと見つめられながら、親愛の酒杯を飲み干した。
――これが、サクソン人によって伝えられた最初の挨拶である。
「ワズハイル」という挨拶に「ドリンクハイル」と応え[1]、満たされた酒杯を相手と分け合い、そして酒杯を手渡された際に、相手にキスをする。
こうして伝わった一連の作法は、我々が宴会を開く際の慣習となり、今に至るのだ――
ワインが喉と胃の腑を熱く痺れさせ、今まさに、この美しい少女と愛情を分かち合ったのだという満足感が身体中を包んでいた。
ボルティゲルンは、目の前の少女をじっと見た。
美しい娘だった。
サクソン人は皆そうなのか、肌は透き通るほど白く、ワインでほんのりと赤く染まっているのが艶かしさを漂わせている。髪には多少クセがあるものの、柔らかで身体を動かすたびにふわふわと揺れている。
額は広く、鼻立ちはすらりと長く整っており、唇はブリテン女性よりも薄く控えめに見えた。
そのなかでも、ボルティゲルンの前に跪いているヘンギストの娘は、飛び抜けて美しい。
少女と呼べるほどの若さではあるが、すでに女性としての体つきを備えつつあり、その肉体は柔らかな曲線を描いている。
ワインのせいか、彼女の真っ白な首筋も、ほのかに火照りつつあった。
吐息に合わせて、一滴のワインのしずくが首筋を伝い落ちていく。しずくの伝う先、豪奢な衣服は透けそうなほど薄く、しかも網の目になっており、真っ白な肉体がちらちらと覗き見える。
ワインのひとしずくがロウィーナの肢体を滑り落ちていくさまが、ボルティゲルンの目を完全に捕らえて離さなかった。
跪いたままのロウィーナは、しなやかな手つきで、王の手から酒杯を取り上げた。
すかさず侍従がワインをなみなみと注ぐ。それを、そのまま自分でぐいとあおり、残った半分を王に差し出し、熱い視線でじっと見つめた。
まさしく、ボルティゲルンの望みそのものだった。酒杯を受け取りながら、再びキスをした。唇を柔肌に触れさせるたびに、ロウィーナの唇が触れた酒杯の縁に自分のそれを重ねるたびに、心の奥が痺れ上がるような至福を味わった。
何度も、何度でも、それを繰り返した。この夢心地のひとときが終わらぬよう、願いながら。
――悪魔は、多くの男に道を誤らせるものだ。
今、ボルティゲルンは魔法の罠にかかった。彼はヘンギストの娘への愛に取り憑かれ、正気を失ってしまったのだ。
この愚かな王は、やすやすと悪魔の網にかかり、もはや、己が望みを抑えることができなくなっていた。この異教の女への愛の前に、神に対する恥も罪も吹き飛んでしまったのだ――
かくして、ヘンギストの思惑通りにことは進んだ。
ヘンギストがなにを促すまでもなく、ロウィーナと結婚させてくれるようにと、ボルティゲルンのほうから頼み込んできたのだ。
もとより、断るつもりなどなかったが、しかしヘンギストはあえて渋い顔をしてみせた。
「さて……どうしたものか。我が娘に求婚している若者は、他にも大勢いるがゆえ。……少々、相談させていただきたい」
ヘンギストは計画が首尾よく進んでいることを親族に伝え、王から持参金としてなにを毟り取るべきか相談した。
そして、その結論を手に、再び王の前にあらわれた。
「王よ、異教との結婚に賛同しない親族が多いのだ。それに、他の求婚者も納得させねばならぬ」
「ヘンギストよ。そなたの娘を我が妻と出来るのなら、どんなものでも褒美に取らせようぞ」
「それでは、」ヘンギストはボルティゲルンの目を見ながら、強い口調で言った。
「――ケント地方、その一帯を持参金として頂きたい。さすれば、我が親族や求婚者たちも納得せざるを得まい」
ケント地方。つまりブリテン島のうち、ロンドンより南東をすべてということだ。
王族の婚姻における持参金としては、それほど法外な要求というわけではなかった。だが、その相手はブリテン人ではない。どころか、異教の神を崇める異邦人なのだ。
しかしボルティゲルンは、とても強くロウィーナを望んでいた。彼女を手に入れるためならば、どんな犠牲をもいとわないほどに。
そして、背徳の結婚式が執り行われた。
ヘンギストが取り仕切るサクソン様式の結婚式を経て、ボルティゲルンとロウィーナは夫婦となったのだ。
もちろん、この結婚を祝福しに駆けつける僧侶など、誰ひとりとしていなかったし、そこにはキリストに捧げるミサも、祈りの言葉もなかった。
こうしてボルティゲルンは、たったひとりの娘と引き換えに、ケント地方をヘンギストに売り渡してしまったのだった。
ヘンギストは手中に収めたケントに赴き、すべての土地を見て回った。
ケント地方に住んでいたブリテン人たちは、突然、主人面をして乗り込んできたサクソン人に虐げられ、不平の声を上げた。
しかしヘンギストは、ガラゴンという男をこのケント地方の長官として任命したのだ。この男は、決して賄賂などの取り引きの言葉に耳を貸さない頑固者で、支配下においたケント地方のブリテン人を押さえつけるのにはうってつけだった。
こういった話は、もちろんボルティゲルンの耳にも入ってくる。しかし彼は、いまやキリスト教徒よりも深い信頼と愛情を異教徒に注ぐ有様で、虐げられるブリテン人など、一顧だにしなかった。あまりの所業に、貴族たちが抗議にやってきても、その声を聞くこともなく、打ち捨てた。
ボルティゲルンを憎むものは時間とともに増えていき、ついには、彼自身の息子が彼を憎むようになってしまった。
実のところ、ボルティゲルンはロウィーナの前に妻を持っていたのだ。
その女性はすでに死んで久しかったが、彼女との間には三人の息子を授かっていた。
長男のボルティマー、次男のパッセント、三男のボルティガー。神の許しもなく母親を忘れて異教の女と再婚した父親を、三人の息子たちは心から憎み、ついには絶縁してしまった。
こうして、女に目の眩んだ蒙昧な王は、サクソン人以外のすべてのものを敵に回し、貴族も、近隣の領主も、彼を憎まぬものはひとりとしていないほどだった。特に、息子など彼に近しかったものたちの憎悪は、計り知れなかった。
――しかし、サクソン人ですらも、実際には味方でもなんでもなかったのだ。
孤独な愚か者に残されている道は、悲惨な終焉のみである。
彼は自身の友人と思い込んでいる異教徒の中で、恥辱にまみれた死を迎えることになるのだ。
だが、今しばし、彼とサクソン人の行方を見守るとしよう――
「偉大なる王よ」あるとき、ヘンギストは話を持ちかけた。
「ブリテンの貴族、領主、すべての臣下がそなたを憎んでいる。そなたの愛情を注がれている我らもまた、彼らに憎まれている」
ボルティゲルンにとっても、それは頭の痛い問題だった。ヘンギストの娘を妻としたのは良いが、この蒙昧な王は、その後のことなどなにひとつ考えておらず、自分が憎まれるべくして憎まれるのを、指を咥えて見ていることしかできなかったのだ。
貴族という貴族は、次々に小ブリテン〔ブルターニュ〕にいる二人の王子のもとへと走り、もはや、いつ攻めこんできても不思議ではない。
そんなところへのヘンギストの持ちかけなのだ。他に味方のいない今、この状況を打開できるのなら、どんな助言にも飛びつきたい気持ちでいっぱいだった。
「今や、我はそなたの父であり、そなたは我が誇るべき息子である。そなたが喜びとともに我が娘を妻とした、そのときから。王への助言は我が特権であり、王は我が助言に耳を傾けねばならぬ」
「わかっておる。……それで、なにをすればよいのだ」
「そなたの権力をもって、我を支援するのだ。もしも、そなたが王座を確かなものにしたいと望んでいるのなら、そして、邪悪な貴族たちに心を痛めているのなら、今すぐ我が息子オクタと、その従兄弟エビッサのもとへ伝令を送るのだ」
「ふむ、新たな援軍というわけか」
ヘンギストは頷いた。
「この二人よりも狡猾な隊長はいない。戦いにおいても、この二人よりも優れた闘士はいない。スコットランドに面したそなたの土地を、彼らに任せるといい。我が思うに、すべての悪しきものはここからやってくるのだ。彼らがその働きを見せれば、そなたの敵が王国を入手することは、二度とあるまい。すべてが終わった暁には、我々はハンバー川の向こうで静かに暮らそうではないか」
ボルティゲルンには、もはや冷静な判断はできなかった。二人の王子が落ち延びたのは小ブリテンだ。つまり、彼らは南から攻め上がってくるはずだ。ピクト人を殲滅した今、スコットランドなどなんの関係もない。
しかし、味方のいないボルティゲルンは、より多くの援軍が得られるという話に、一も二もなく飛びついた。
「そうするがよい。そなたの息子たちが私のために戦ってくれるよう、サクソンの地へと伝令を送るのだ」
実のところ、この命令こそが決定的だったといえよう。
ハンバー川の北といえば、ブリテン島を南北で二分したよりも更に広大な土地である。そこをサクソン人の領地として認めることがなにを意味するのか、当のボルティゲルンにも理解できなかった。
今や、バンカスターを含むブリテン島の北半分と、ロンドンより南東のすべてがサクソン人のものとなってしまった。
残っているのはウェールズとロンドン周辺、そしてブリテン島の南西の半島、コーンウォール程度である。
ヘンギストの送った伝令に対する動きは速かった。あるいは、彼らはこのために、ずっと準備をしていたのかも知れない。
それからと言うもの、ブリテン島にやってくるガレー船が、毎日のように目撃された。
最初に目撃された数は、四隻だった。
翌日は、五隻がやってきた。
その翌日は六隻が。そして七隻が、八、九、十隻が姿を見せて、気がついたときには、ブリテン島の港という港にサクソンのガレー船がひしめいていた。
それは、三〇〇隻にも及ぶ巨大な艦隊だった。
次々に上陸したサクソン人たちは、すみやかに次の行動に移った。彼らはブリテン人の衣服を着こみ、ブリテン人の都市や農村に住み着き、ブリテン人のなかに紛れ込んだのだ。
結果として、誰がキリストの洗礼を受けたもので、誰がその洗礼を受けていない異教徒なのか、誰にもわからなくなってしまった。
そうした上で、彼らは徒党を組んでブリテンの王国を荒らし回った。
ブリテン人は、この問題にとてつもなく悩まされた。なにしろ、略奪者たちは形勢が不利になると、あっという間に散ってしまう。彼らの本拠地を探そうにも、散り散りになった彼らは、なに食わぬ顔でブリテン人の間に潜り込んでしまうのだ。
あまりにも多くの異教徒が土地に入り込み、人々に恥辱と非道を働いていた。ブリテン人たちの我慢は、ついに限界に達した。
「今すぐ、彼らと決別してください!」彼らは、ボルティゲルンに直訴した。
「わからないのですか!? 彼らは信用ならぬ異教徒なのです! 王よ、どんな犠牲を払ってでも、すべてのサクソン人を王国から追い出すのです!」
だが、もはやボルティゲルンの耳に、その言葉が届くことはなかった。
「ああ、その事については……。そうだな、臣下のものと相談してみることにしよう」
臣下とは、ほかならぬサクソン人のヘンギストのことであろうが。明らかに、この愚かな国王は問題を解決する気がないのだ。
そればかりか、直訴した貴族たちは、帰る道すがら、驚くべきことを耳にした。
ボルティゲルンは、よからぬことを企むものたちから自分の身を守るようにと、当のサクソン人たちを身辺警護に付かせたというのだ。
貴族たちがそれを聞いたとき、王の目を覚ますことを、完全にあきらめた。
彼はもはや、ブリテンの王ではない。ブリテン人の土地と血肉をすべてサクソン人に捧げて、見返りとして腐った肉を貪るだけの、異教徒の手先に成り下がっている。
貴族たちは団結し、ボルティゲルンに対抗する勢力を作り上げつつあった。
彼らの中心にいるのは、ボルティゲルンの息子のひとり、ボルティマーだった。
[1]ワズハイル(Washael)、ドリンクハイル(Drinkhael)……「heal」ではなく「hael」です。
英国の古い乾杯の挨拶なのでしょうか? 正直なところ、発音はよくわかりません。ワジャイル、ドリンカイルなどと発音するのかも知れません。
推測になりますが、HaelはHeil、つまりザクセン語(ドイツ語)におけるHealのブリテン当て字で、「健康を!」「酒こそ健康なり!」みたいな意味のやり取りだったのではないかと想像しつつ翻訳してます。