第二十三話 戦いの始まり/モルドレッド
国王の言葉が終わった今、円卓の騎士たちの心は完全にアーサーとともにあった。
もはや、ローマ帝国と戦うことに臆するものはおろか、引け目を感じるものすらただの一人もおらず、新たな戦いに高揚しつつある。
そんな中、彼らを代表するかのように一人の騎士が立ち上がった。
「閣下。感服いたしました」言ったのは、アーサー王の最も忠実な臣下の一人、甥でもあるブルターニュ伯ホーエルである。
「王よ、貴方は数多くの知識と慎重な言葉をもって、我らの道を示されました。今更、貴方の言葉に何かを付け加えることが出来るものなど、一人もおりますまい。ローマ帝国との戦いが決定された今、一刻も早く貴方の家臣や親族を招集して頂きたく存じます。もちろん、貴方の身内であるこの私も、一族ともども馳せ参じたく思いますゆえ。……私は、出来るだけ速く海を越えて再びフランスへと赴くことを提案いたします。そして、彼の地の権利を確固たるものにするのです。そうすれば、我々は聖バーナード山を超える道を確保することができ、ロンバーディーへと抜けることも容易になりましょう。そうして、素早く移動することができれば、我らは我らの土地ではなく皇帝の土地に戦争を持ち込むことが出来るのです。ルシウスめがブリテンを悩ませるよりも先に攻撃を仕掛ければ、ローマ人どもは大いに震え上がることでしょう。彼らは貴方のそうした行動を予測していません。彼らは驚き、大混乱に陥ることは間違いありませぬ。……閣下。これは、貴方を地球上のすべての国に君臨する王者へと昇格させようとする、主の御心なのです。これを疑うことは、神の意志に反すると言えましょう。主の御心に従うことで、神はローマの権利さえも貴方のものとして授けてくれるのです。……もしも疑うものがいるというのであれば……」
ホーエルは再び会議場に向き直り、騎士たちを見渡す。
「シビュラ[1]の手記と、そこに書かれていた予言を思い出すのです。彼女たちはこのように記しております。『……三人の王が、ブリテンよりやってくるであろう。そして、彼らはその力にてローマを征服するであろう……』と。そして、この三人の王のうち二人は既にこの世にはおりませぬ。ベリヌス王は死に、そしてコンスタンティン王も天に召されました。しかし、彼らは確かに預言を成就させ、ローマの主人となったのです。……我らがアーサー王よ。貴方こそが、かの巨大な帝国を打ち破るべく運命づけられた、三人目の王に間違いありませぬ。貴方によってシビュラの言葉は現実のものとなり、そして予言は成就するのです。神が与えてくださったお恵みを受け取るのに、どうしてためらう必要があるでしょうか? 今こそ立ち上がり、世界の王者へと昇りつめてください。そして、我々もまた神の使徒たるアーサー王の従者として、高みへ昇りましょう。……私は告げます! 打撃を受けることも痛みを感じることもないでしょう。疲れることも、ましてやローマに投獄されることもありません。そんな心配がいかに瑣末なことであるかを見極め、それらと国王の受けるべき名誉とを比べてみようではありませんか!」
もちろん、ホーエルは口ばかりが達者な絨毯騎士ではない。それを証明せんとばかりに、彼はこの戦いにあたり、アーサー王にどんな手助けをするかを確約した。
「私としましては、我が領土に控えている一万人の武装した騎手とともに、この仕事が続く限り、いつまでも貴方の仲間として戦いましょう。……もしも軍資金が必要だと仰せならば、私は私の持つ王国を担保にして金を作ろうではありませんか。それらはすべて貴方の手に届け、貴方がそれを必要とする限り、私は自身の金のうち一ペニーにすら手を付けないことを、ここにお約束いたします」
ホーエルが口上を述べ、騎士たちが我も我もと湧き上がる中、更に一人の騎士が立ち上がった。
スコットランド王アギゼルである。彼はリヨン王ロットやマーレー伯ウリアンと並び、最も忠実なアーサー王の騎士の一人として数えられていた。
「閣下」アギゼルは騎士たちの中から一歩進み出る。
「貴方がたった今、私達に聞かせてくださった話は、ここにいる誰にとっても尊いものです。なぜなら我ら全員、ローマからの傲岸不遜な命令に怒りを抑えきれないのですから。今や、貴方の臣下の貴族たちは一人残らず、その最大限の力を持って貴方を援助しようとしていることは疑いありませぬ。貴方の王国の重石になろうなどと思うものは、この場に誰一人としていないでしょう。彼らはすべて領地を抱えていて、そこに自らの王座を持っています。しかし、彼は国王に対する義務を果たすことでしょう。まさに今、ここに集まっていることで、それは示されているのです。これまで長い間、私はありとあらゆる伝聞を耳にしてきました。しかし、我々がローマ帝国と戦うであろうこと……これほど喜ばしく素晴らしい報せは、未だかつて聞いたことがありませぬ。ローマ人は我らを下僕のように思っていますが、私はそういったローマ人を、我が心にて敬愛することも尊敬の念を抱くこともなく、むしろ軽蔑し、憎んでおります。なぜなら、彼らはとても傲慢で、思いあがりも甚だしいからです。高潔な人であれば、誰もローマ人の仲間になったりはしないでしょう。なぜなら、彼らは宝物を独り占めにして私腹を肥やすことしか考えない、邪悪で貪欲な人種だからです。この欺瞞と偽りに満ちた人々を束ねる皇帝は、大使に持たせた手紙によって、我らの上に争いごとを投げかけてきました。皇帝ルシウスは、我らブリテンをいとも簡単に服従させ、一方的に決めた貢物に抗議の声すら上げさせることなく、ほしいままに奪っていけると考えているのでしょう。今や、ローマ人は戦いの狼煙をあげました。その炎の中で自分の指が燃えていることにも気付かずに。……それだけではありません。ローマ人は何を口走りましたか? 彼らの言葉は、脅迫そのものではありませんでしたか? 彼らの理屈は、我らから貢物を奪う権利を持っているというものです。しかしその根拠は、かつて我らの先祖から貢物を奪ったことがあるという一点のみではありませんか。……であるのならばそれは、かつて奪われた貢物もまた、我らの先祖の自由意志によるものではなく、ローマ人が力尽くで法を捻じ曲げたということの証左に他なりませぬ。……ならば良いでしょう! かつて我々の祖先が奪い取られた財宝を、力尽くによって奪い返すまでです。そして、先祖が受けたすべての屈辱を、今こそ我ら自身の手で晴らそうではありませんか。戦争に突入し、我らが先祖の貶められた誇りと過ちに対して復讐を果たすというアーサー王の選択。これは、間違いなく我らの名誉となることでしょう! ……確かにブリテン人は、これまで数多くの戦いにおいて勝者であることを証明し、そしてどれほど苦しい戦いであっても最良の結末を見出してきた、この世で最も危険な人種です。……しかし、そんなことにいったい如何なる価値がありましょうか? ローマに対して『チェック!』と叫んで見せないかぎり、これらの勝利には価値などないのです!」[2]
そしてアギゼルは、聞き入っている騎士たちの方を向き直り、戦いに向けた自身の意気込みを告げた。
「騎士たちよ! 私は渇いた時に飲み物を望みません。飢えた時にも食べ物を望みません。そんなものよりも、私はアーサー王とともに戦場で戦う時間を熱望します。そして……そう、しっかりと顎紐を引き締めた兜を。掲げられた盾を、閃く剣を、そして力強い馬を望みます! 神よ! 来るべき日、神の姿を丸盾に抱いたアーサー王が、いったいどれほどの損害をローマ帝国に与えるでしょうか? どれほど高価な身代金をブリテン王国にもたらすでしょうか? 彼は、終生貧しくなることはないでしょう。ローマの街も城も、ラバも家畜も、そして国王の目に適う軍馬も、すべて彼のものとなるでしょう。そして、我が盟友たちよ。今こそローマ帝国を征服して、彼らの土地を我らで分け合おうではありませんか! それだけではありません。かの傲慢なローマの都市が破壊され、すべての尖兵たちを駆逐したのち、我々にはまだすべきことが残っているのです。……我々は、ロレーヌ地方を通りぬけ、そしてその向こうの王国を支配するのです。……そう! 我らはゲルマンの地に攻め込み、すべての砦を我が物として、かの地に楽園を築くのです! ……そして、海の果てのすべての土地がアーサー王のものとなるまで、我々は戦い続けるのです。そうなれば、もはや国王から土地を奪い取ろうなどと考えるものは一人も残りますまい! 我らの目的が正義であるのか、それとも邪悪であるのか。それは、神の審判に委ねる以外にありませぬ。……ただ、我らは戦い続けるのみです。私の言葉は打撃のごとく激しいものですが、しかし私はこの言葉と行為を必ず一致させましょう。一万人の騎士と、その他にも数えきれないほどの闘士を率いて、アーサー王とともに戦う準備をしようではありませんか!」
ブルターニュ伯ホーエルとスコットランド王アギゼル。この二人がすべての兵士をアーサー王の戦いを助けるために投じることを表明したとき、会議の場は熱気に包まれていた。
ありとあらゆる騎士が、我も我もと戦いへの参加を表明し、アーサー王に対して助力を約束していく。
もしも、この争いにおいて戦力を出し惜しみしたり、可能な限りの行動を取らなかったりしたら、それは歴史において永遠に残る恥晒しとなるであろう。
熱気に満ちた騎士たちは、口々にそう叫んでいた。
こうしてアーサー王は騎士たちと心を一つにし、その決断をローマへの返答として手紙にしたため、蝋で封印し、シグネットで紋章を押した。
そして、その手紙はアーサー王の宮廷で国王の客人として丁寧に扱われていた十二人のローマの大使に、実に敬虔な態度で、しかし名誉を持って委ねられた。
「そなたの国の君主に伝えるのだ」アーサー王は十二人の大使に向かって、穏やかに告げた。
「私はブリテン王国の王である。そしてフランスの所有者でもあり、これからもそうあり続ける。そのために、フランスをローマ帝国から守り抜くであろう。私はローマ議会が求めた通り、かの国に向かおう。そのことをそなた達の議会に報せるのだ。しかし、間違えてはならぬぞ。私がローマへと赴くのは、ブリテン王国からの貢物を届けるためではない。ローマ帝国からの貢物を受け取るためだ」
この言葉とともに手紙を受け取り、十二人の老人たちは来たときと同じような厳かさで宮廷を辞去し、ローマへと帰っていった。
さて、ローマへ戻った十二人の大使たちは、議会へ手紙を渡したのち、議会で尋ねられるのに応え、ブリテン王国の様子について語っていた。
ローマ人は、ブリテン王国やアーサー王については風の噂で聞き及んでいる程度で、実際に見聞きしたものはほとんどいなかったのだ。
老人たちは聞かれるままに、いったいブリテンがどのような場所で、自分たちがどれほど礼節ある作法でアーサー王の歓待を受けたのか、そしてアーサー王がいかなる人物なのかをとくとくと語った。
これは、老人たちが議会で語った言葉である。
――アーサー王はまさしく王の中の王であり、寛大さと勇敢さを兼ね備え、更には学識もあり、そして聡明である。
たとえ何人の従者をはべらせようとも、そしてどんなに美しい衣服で着飾っても、アーサー王の宮廷の前には比べ物にならない。かの宮廷を今以上に飾り立てることが出来るような君主は、世界のどこにもいないであろう。
アーサー王に貢物を要求するなどは、まったくの愚の骨頂である。なぜならば、アーサー王の言うとおり、いにしえの時代、ブリテン王国こそがローマ帝国から貢物を受け取っていたからである――
議会は紛糾した。
大使たちの報告と、彼らの運んできたアーサー王からの返事。これらによれば、アーサー王はローマ帝国を恐れるどころか、むしろ向こうから戦いを仕掛けてくるというではないか。
戦いで打ち負かすことなくアーサー王に敬意を払わせたり、あるいは要求した通りの貢物を支払わせるうことは、不可能と見て取れた。
そしてローマ議会は、長い会議の末に結論を出し、それをローマ皇帝ルシウスに進言した。
すなわち、今すぐにローマ帝国のすべての軍事力を結集すべしという決議である。
彼らはアーサー王が攻めてくる前に出来るだけ早く進軍して、ブルゴーニュの山を超えてフランスの地で戦いを仕掛け、そこでアーサー王から王国や王冠を奪う取るべきだと考えていた。
ローマ皇帝ルシウス・ティベリウスはローマ議会の決定を受け、すみやかに行動を開始した。配下の国王や伯爵、公爵たちに伝令ったのである。
いわく、もしも名誉を愛するのであれば、ブリテン王国と戦うために出来るだけ早く武装して、ローマのルシウスのもとへと馳せ参じるようにと。
皇帝ルシウスの命令を受け、すぐさま力強い君主たちが続々と集まってきた。
――私にはそのすべての名前を上げることは到底出来ないが、しかし、年代記を紐解くことにより、主だったるものたちの名前を上げることが出来よう――
まずは、屈強で危険な騎士と知られるギリシャ王ギリシャ王エピストロフィウスがやってきた。
次にボイオティア王エシオン、トルコ王イタークが続き、彼らとともにエジプト王パンドラスおよびクレタ王ヒポリタスの姿が見られた。
これらの騎士たちはどれも、百を超える都市をその圧政にて支配しており、非情に強大で畏怖されている君主だった。
シリアからはイベンダー王が、フリギアからはテウセル王、そしてバビロン王ミキプサ、スペイン王アリファトマがローマに向かって集まってくる。
更に、メディア王ボークス、リビア王セルトリウス、ビテュニア王ポリデテス、エドム王クセルクセス、アフリカ王ムスタンサー。すべてローマからはるか遠くの国々の君主たちだったが、長い旅を経てはるばるローマに加勢するためにやってきたのだ。
また、彼らの物資や財宝を運ぶために、黒人やムーア人が連れてこられていた。
ローマ議会は彼らを率いるものとして、ローマの中でも特に位の高い貴族階級である男たちを集めた。
その名を、マルセルス、ルシウス・カテルス、コクタ、キャムズ、そしてメテルスという。
議会はこれらの男たちに番号を与え、軍隊を組織したのである。
この他にも、数えきれないほどの君主たちが集まり、ローマの軍勢に加わっていった。
そして、おおよその軍勢が一箇所に集まり、ローマの道という道、広場という広場にひしめいた。
従僕たちが彼らの数を数えたところ、馬に乗ったものが十八万人、徒歩のものは四十万人いたとのことである。
こうして、この強大な軍隊はその身分や地位に従って序列を与えられ、手に手に武器を掲げ、そしてアーサー王と戦うためにローマを出発したのである。[3]
一方のアーサー王も戦いの準備を急いでいた。
アーサー王の所有している土地の隅々まで伝令を送り、国王の名において招集に応じるよう呼びかけた。アーサー王を愛しているのであれば、その心に相応しく、急いで彼の力になるために駆けつけるようにと。
だが、実際のところ、騎士の誰ひとりとして命令などを受けるまでもなく、自らの忠誠心に従って駆けつけていたのだ。もちろん、彼らの保有するすべての部下と馬をともなっていた。
アイルランド、イェータランド、アイスランド、デンマーク、ノルウェー、そしてオークニー諸島、これらの北の国々は、十四万人の男たちを武装させてアーサー王の助力に向かうことを約束した。
北の国々には騎馬の文化が行き渡っていなかったのか、馬も、それを乗りこなせる乗り手も、随行する兵士もほとんどいなかった。しかし、その代わり彼らは自分たちの手によく馴染んだ武器を携えてやってきた。すなわち戦斧に投槍、そして手槍などである。
ノルマンディーとアンジュー、オーベルニュとポワトゥー、フランドルにブルゴーニュ。これらの君主たちは、命ぜられるまでもなく八万人の隊長を鎧で武装させ、アーサー王に味方すると約束した。数多くの騎士たちが、アーサー王の戦いに味方するのは正義であり、名誉なことであると宣言していた。
シャルトル伯グエンおよびその盟友である十二人の貴族たちは、アーサー王が必要とした時、全員が百人の槍兵を率いて駆けつけることを約束した。貴族たちは、これはアーサー王の臣下としては当然の義務であると語っていた。
アーサー王の演説に真っ先に応じたブルターニュ伯ホーエルは宣言通り一万人の兵士を、そしてスコットランド王アギゼルは、約束していた一万人に加えて、更に二千人を連れて行くと宣言した。
現在、我らがイングランドと呼ぶ土地、すなわちアーサーの本来の王国であるブリテン島からは、アーサー王は鋼鉄製の鎖帷子に身を包んだ四万人の騎手を揃えていた。
ブリテン島の戦士たちが総勢で――弩兵に弓兵、そして槍兵も加えて――何人ほどになるのかを従僕が数えようとしたが、これは不可能に終わった。なぜなら、その数は砂粒のようで、とてもその一人一人を見極めることなど出来ようはずもなかったからだ。
偉大な力を持つ男たちに、武具に身を包んだその部下たち。これらの兵士たちが充分に集まったのを見たアーサー王は、フランスで待機している隊長たちに、手紙を送った。
とある決められた日に、ノルマンディー半島のバルフルール市に集まるようにと。
アーサー王の祝宴から一転、宮廷を辞してそれぞれの封土に帰って戦いの準備をしていた貴族や君主たちは、アーサー王の軍隊が海を渡ってやってくるのを出迎えるために、急ぎ支度をした。
このような次第で、アーサー王は戦いの準備を整えていったのである。
もはや、彼を邪魔しようとしたり、行軍を遅らせようとするような輩は、誰ひとりとして存在しなかった。
だが、たったひとつだけ――あやまちが起きてしまった。
アーサー王は自らローマ帝国へ向けて出発するに辺り、彼の妻であるグウェネヴァーとブリテン王国を守るようにと、一人の騎士に国王代理を任命していたのだ。
その人物こそ、アーサー王の甥にして屈強な騎士、モルドレッドである。高貴な生まれで、高い美徳をもつこの騎士をアーサー王は深く信頼し、愛情を注いでいたのだ。
しかし、彼の美徳は真実のものではなかった。
モルドレッドは、その心をグウェネヴァーに囚われてしまっていたのだ。もちろん、このような愛はあってはならぬものであり、王妃の名誉を汚すものにほかならない。
彼はアーサー王のいる間、その心を深く隠し通していた。そして、誰ひとりとして彼の心の奥に宿っている情念に気がついたものはいなかった。
それも当然である。この誇り高きアーサー王の宮廷にて、モルドレッドともあろう騎士が、彼の伯父であるアーサー王の妻に恋慕しているなど、いったい誰に想像できようか。
そして、アーサー王がモルドレッドに王国と妻を委ねて戦いに赴いてしまった今、彼を止められるものは誰一人としていなかった。アーサー王の前で抑えていた情念がその箍を失い、吹き上がってしまったのだ。
一方の王妃グウェネヴァーだが……。なんということか、彼女もまた、その耳に心地よい愛の言葉を囁き続けるモルドレッドに対し、愛をもって応えてしまったのだ! 夫のある身だというのに。モルドレッドは夫の甥であるというのに!
これは、ブリテンの歴史における大いなる恥となった。いや、恥などという言葉ではとても言い表せぬほどの、重大な恥辱となったのだ。
――ああ、神よ。憐れみ給え。まさしくこの時期、モルドレッドとグウェネヴァー王妃の間に、深いあやまちが起きてしまったのです――
[1]シビュラ(Sibyl)……ギリシャ・ローマにおける女の予言者だそうです。日本で言うところの巫女のようなものですね。
[2]チェック(check)……文脈から察するに、恐らくチェスのチェックメイトのことと思われます。
正確には、チェス用語の「チェック」は「次の一手で相手のキングを取れる状態」を意味し(この時点では相手にはまだ行動の余地があります)、更に相手が手詰まり状態になることで「チェックメイト」が成立します。
[3]ここで語られる国々や国王の名前ですが、ボイオティアやバビロンなど、アーサー王の時代よりも何世紀も前に滅んだ国の名前まで登場しており、さすがにモデルを追うのは無理でした(笑)
[4]モルドレッド(Mordred)……かの有名なアーサー王の逆臣です。
サー・トマス・マロリーの「アーサー王の死」以降は、「アーサー王がそうとは知らずに実姉モルゴースと通じ、身篭らせてしまった子供」と語られていますが、ブリュ物語の時点では単に「甥」として登場しています。
また、「アーサー王の死」におけるモルドレッドは、湖の騎士ランスロットと王妃グウィネヴィアの不倫関係を糾弾し、結果として円卓の騎士を崩壊させ、更にアーサー王の留守を狙って王妃を拉致します。
しかし、ランスロットの登場しないブリュ物語においては、モルドレッド本人が王妃グウェネヴァーと不倫関係に陥るなど、立ち位置が微妙に似通っているようで、かつ相違しています。
時代が進むに連れて物語が変化していく様子が見て取れて、とても面白いですね。
それにしても、王妃グウェネヴァー(グウィネヴィア)はどの時代においても「不倫をする王妃」という役回りで描かれています。
この辺りにも、密かに「かつてブリテン島で起きた王妃の不倫事件」などが隠れていそうで、興味深いところです。




