魔術師とトマトのスープ
「マリアは今、しあわせ?」
王城からやや離れた城下町。
商店街で買い物を済ませた帰り道で、隣に歩く旦那さまが尋ねた。私はちょっと驚いて足を止めかけ、道の敷石につまづいた。ハンドバッグは落とすものの、危ういところで旦那さまに支えられ転ぶのを免れる。
謝辞を述べながらも彼の腕にぶら下がる買い物袋に目がいった。中のトマトを心配する私に、旦那さまは多少潰れててもスープにするから大丈夫だよと苦笑し、それから、体の方が大事でしょ、とちょっと顔を顰めてみせる。はずみで大分後方に投げてしまった鞄に目を彷徨わせつつ、私は話を逸らした。
「それでどうしたんですか、突然」
彼は鞄に向けて指をクルリと回し、手元に引き寄せたそれを私に渡す。旦那さまは魔術師なのである。ありがとうございます、とお礼を述べてから私は歩き出した。
「なんとなく…マリアの顔を見てたら、ふと思った」
私に合わせてゆっくりと歩む旦那さまが照れたように頬を搔く。街の空気まで色づかせる夕暮れに、彼の横顔も赤く染まってみえた。普段ないことに私が胸を高鳴らせていると、旦那さまが続けて言った。
「ついでにいうと、さっき肉屋のエミールに会ったから」
「感動が薄れました…」
私はがっくり肩を落とした。肉屋の息子がジョンでエミールはピエールさんのお屋敷のフットマンだと訂正すると、旦那さまはそうだったっけと首を傾げた。どちらも旦那さまと結婚する前、私にお付き合いを申し込んだ人の名前である。
誰かとの結婚を考えているという私に、きみにしあわせになってほしくないと言って旦那さまがプロポーズしたときのことを、なんとなしに思い出す。
するりとお腹をなでながら私は口をひらいた。
「それなら今聞くのはずるいですよ」
「どうして?」
「旦那さんと歩いていてお腹に子も入った妊婦さんが、しあわせではないことの方が少ないじゃないですか」
授かってからそろそろ半年が経つお腹をさすると、ぼんやりとした幸福感が広がる。妊婦に聞くのはやはりずるい。
「それは、確かに」
私の丸くふくれたお腹を見ながら旦那さまは頷いて、ではいつ聞くのがいいのかと尋ねた。私はそうですね、と少し考える。
「今から2,3年して奥さんは育児疲れしつつも旦那さんが相手してくれない妻に飽きて中々家に帰ってこなくなる頃、とか」
それはひどくないか、という旦那さまに、意外にそういう話聞きますよと言うと、参考にすると神妙に頷かれた。言ってはみたもののしかし、目の前の彼とはあまり結びつかない。
なにか他にと頭を巡らして、一年以上前に旦那さまの職場である王城に二人で訪問したときの記憶を思いおこす。
「王女さまにお会いして、『身分違いでしたから申しませんでしたが、今まであなたのことがすきでした』って目の前で言われた時は、流石に妬きました」
その彼女も一月前に隣国の貴族と婚約し、次の春には式を挙げるのだという。
城勤めの魔術師は王に直属という形がとられている。その旦那さまが結婚するとなった折、仕事上関係のある王様が言祝ぎと共に結婚相手である私にも是非会いたいと仰られたらしい。そうして王様とこれまた旦那さまとお知り合いらしい第三王女様に夫婦で謁見することになったのだ。
旦那さまが勤め先で確かな信頼を得ているのは嬉しい限りだが、私にとってはお城も王様も雲の上の建造物だった。戦々恐々と訪れて、ひたすら恐縮しながらお話しし、王様が執務で退室されたと思ったら、王女さまから旦那さまにまさかの爆弾発言である。妻の私は中々の衝撃を受けたが、仰った王女さま自身は至ってにこにこしているものだから憎めない。
「あれが王女様なりの誠意だったんだよ。結婚前に言えば、下手すると命令になりかねなかったし。もしそういう噂が流れても構わないでほしい、というのも含まれてる」
旦那さまが事実をなぞるように言葉を紡ぐ。僅かに落とされた視線の先の、そこに王女さまはいない気がした。
「それに、もう会わない人だ」
付け足すように言われた言葉に私は突然、恐ろしいほどさみしくなる。私自身を否定されたような、きゅうぅ‥と冷えていく心の内に、もしも、と前置きして知らず私は喋りだしていた。
「もしも、私が、王女さまの身分だったら。旦那さまは私と、結婚しませんでしたか?」
言いながら、城の誰かがこれを聞いていたとしたら、きっと不敬にあたるのだろうと頭のどこかで考えた。王女さまとは、そういう立場なのだ。旦那さまの伴侶が決まってからでしか、彼女が思いを告げられなかったように。
さぁ、と一息置いて、旦那さまは答えた。
「分からない。多分、結婚まで話が行かなかったと思う」
旦那さまは斜め上を見ながら言う。恐らくそれが、事実に一番近い答えだ。
誠実な人だ、と改めて私は思う。そういう彼が好きだとも。私が寂しいのは、彼の言いようにではないことを悟る。
それでも切ないくらいに物哀しいのは、何に対してなのだろうか。王女さまと自分を重ねているのかとも思ったけれど、違う気がした。
理由の分からないさみしさが胸の洞をつついた。
冷えた空気がこだまして、覚えず私は泣き出したくなる。
「マリア」
不意に名前を呼ばれる。顔をあげるとじっと私を見る旦那さまと目が合った。思いに沈みいつの間にか俯いていたらしい私に、マリア、と語気を強めて繰り返す。空に視線を彷徨わせてから、旦那さまは思い定めたように私を見た。
「それでも僕はいま、きみのことが好きだよ」
静かな、けれど真剣な眼差しに、私は息を呑む。正直君が何に悩んでいるのかとか僕には分からないけど、と述べてから旦那さまは続けた。
「隣でお腹をさすっているマリアとさ、家に帰って、夕食つくって、僕のつくったトマトのスープを、君が食べて。」
彼はそこで一息ついて、もどかしそうに言葉を探してから、再び口火を切る。
「君と、過ごしていくんだなぁって……なんでもない日々を。考えるとさ、うまく言えないけど、よかったなぁ、って、僕は思う」
途切れ途切れに紡がれる一言一言に、私は冷えた心がほろほろと解けていくのを感じた。
彼の隣に、私がいる。
淡々とした日常は、けれど平坦ではなく鮮やかなのだと、言われた気がした。それはあまりにもあたたかくて、眩しかった。途方のない歓喜が胸の内から湧き上がる。
旦那さま、と呼びかけると、首を傾げるように私を見る。ずっと沈黙していた私を少し不思議そうに見る彼に、喜びにむせび泣きそうになった。どうしようもないほど嬉しくて、顔が熱を帯びながらほころんでいくのを止めることができない。
「わたしは今、しあわせですよ」
きっといまの私の顔は相当に酷いのだろう。泣き崩れるように笑んだ私に、彼は目を瞠って首から上が音を立てるように真っ赤になる。
なにも言えずに固まる彼が、ただただ愛おしかった。




