七年越しの答え
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
新約聖書 ヨハネの福音書 三章十六節
その日、母の機嫌は最悪だった。
夜の接客仕事から帰ってきた母は、いつになくやつれた顔をしていて、赤い口紅はところどころはげかかり、手には缶ビールがたっぷり入った袋を持っていた。缶ビールを買って帰ってくるのは、母の機嫌が悪いサインだ。
だが機嫌が悪いのは母だけではなかった。奥野多蒔のほうでも、気分がふさいでいた。
多蒔は、小学校のクラスメイトに自分の名前が男の子みたいだとからかわれ、散々笑われたせいで、昨日は家に帰ってくるなり布団を被って泣き続け、そのまま寝入ってしまったのだ。だから、多蒔の仕事である家事は、まったくしていなかった。
運が悪かったのだ、と今では思うようにしている。たまたま家事ができなかった日に、たまたま母の機嫌が悪かったのだ、と。そうでなければ母もあんな言葉は言わなかった、と思いたい。
「ちょっと、多蒔、来な」
ドスのきいた母の声で、多蒔はたたき起こされた。眠い目をこすったところで、鏡を見なくともまぶたが大きく腫れ上がっているのがわかった。
外は明るく、いつのまに寝ていたのだろうと多蒔がぼんやりした頭で考えていると、母親に首根っこをつかまれ、台所に行かされた。母の香水の匂いがする。
「これ、どういうこと」
母のマニュキアが塗られた爪が指したのは、洗い場にたまった食器だった。多蒔が事情を説明する前に、また首根っこをつかまれ、洗濯機の前に行かされた。そこにはまだ洗っていない洋服が散らばったままだ。
「洗濯もしてないじゃない。あんた、私が忙しく働いている間に、家でぐうたら寝て過ごしてたってわけ。いいご身分だこと」
「違うの、お母さん、あのね」
突然、多蒔の顔に痛みが走り、目の前に星がチカチカと見えた。ぶたれたのだとわかったのは、しばらくしてからだった。
「言い訳は聞きたくないよ。何か他に言うことがあるんじゃないの」
「ごめんなさい」
視界がようやく見えてきたものの、今度はぼやけてきた。涙が出てきたのだ。
「そうやって、すぐに泣く女は嫌い。泣けば何でも許されると思ってるの」
多蒔は涙を堪えようとした。母の呆れた溜息が家中に響く。
「あーあ、だから私、生むの嫌だったんだよね。父親が誰かわかんない子なんて生むなって周りから言われたし。私もおろそうとしたんだから」
多蒔は雷に打たれたようなショックを受けて、その場に固まった。母は容赦なく続ける。
「でも、あんたが大きくなりすぎてたから中絶は無理だって言われたんだよ。あんた頭はとろいくせに、体だけは育つんだから」
まるで多蒔のせいだと言わんばかりの口調だ。多蒔は心は悲しみでいっぱいになった。
「ごめんなさい」
震える声で謝ると、涙が床に落ちたままの洋服にぽたぽたと落ちた。母の仕事用の服だとわかる前に、母がさっとそれを取り上げた。
「私の大事な服を汚さないでよ。そこに突っ立ってないで、早くやることやんなさい」
本当はもう学校へ行かなくてはいけない時間だったが、母はさっさと風呂場へ行ってしまった。
シャワーの音を聞きながら、多蒔は嗚咽をこらえ、散らばった洋服を集めて洗濯機に入れて回し、食器を割らないように気をつけながら洗った。
ふと鏡を見た多蒔は、自分の顔のひどさにしばらく声を失った。まぶたはいつもの二倍に腫れ上がり、母に叩かれた頬は真っ赤な跡がついている。この顔で学校へ行ったら、昨日よりもさらに大笑いされるのは目に見えている。
そして何よりも、先ほどの母の言葉が、多蒔をひどく打ちのめした。
自分は要らない子だと言われたように感じた。生みたくなかったけれど、生まれてきてしまったのだと。
じゃあ、なぜ私は生まれてきたの?
多蒔の心の中で叫んだ。
どうして私は生まれたの? 誰からも必要とされてないとわかっていたのに、なぜ? どうして?
あれから七年経ってしまった。
多蒔は春から高校二年生になったが、いまだにあの答えは見つからない。そして、あの時感じた深い悲しみは、大きな傷となって多蒔の心に刻まれたままだ。
高校ではクラス替えが行なわれ、新しいクラスメイトたちの自己紹介が一通りあったが、多蒔はチャイムが鳴ると同時に一人で帰り支度をし始めた。
高校二年生になったからといって別段何かが変わるわけでもない。いつもと同じように、多蒔はこれからアルバイトがある。
ここのところお酒を飲む量が増えていく母の代わりに、生活費とお酒代を稼がなくてはいけないからだ。
他のクラスメイトたちは、新しい友人を作ろうと話しかけたり、遊びに誘ったりしていて、教室は騒がしい。
その中で、多蒔はまるで空気のように静かに存在を消していた。もともと目立つタイプではなかったが、小学生の時に受けたショックから、多蒔はますます目立たなくなっていった。母でさえ、時折、多蒔がそばにいることを忘れるくらいだ。
多蒔は早々に教室を出ると、清掃のアルバイトへ向かった。ここからバスに乗って一時間ほどかかるが、交通費は支給してくれるし、清掃のアルバイトの平均時給に比べると二十円高いのがいい。
何よりも、多蒔の高校はアルバイト禁止のため、バイト先が遠いほど、先生に見つかる心配も少なくなる。
そのおかげで今のところ、アルバイトのことは誰にもバレていない。
アルバイトが終わった夜の十時、多蒔はまだやることがあった。
疲れた足を引きずり、店で母のために缶ビールをいくつか買う。これがないと、多蒔が帰っても母は機嫌が良くならない。
昔は缶ビールを買う母は機嫌が悪いと決まっていたが、最近では缶ビールがないと逆に機嫌が悪くなるようになった。
「ただいま」
狭い家に入ると、アルコールの匂いがぷんと鼻についた。家は電気がついていなかったが、散らばった空き缶の中に、母が机につっぷしていびきをかいているのがわかった。
多蒔は母を起こさないように、薄暗い家の中をそっと歩き、布団を持ってきて母の肩にかけた。母の安らかな顔を見れるのは、母が寝ているときだけだ。起きているときは、いつも眉をひそめていて、多蒔に笑いかけたことなど、ここ何年も見たことがない。
盛大な母のいびきを聞きながら、多蒔は母が今日一日仕事を休み、家事もしていないことを確認して落胆した。洗濯や掃除は明日の朝しよう。
母は起こされるのを何よりも嫌う。多蒔が家事をする音がうるさいと怒鳴られたことがあってから、多蒔は母が寝ているときは家事をしないことに決めていた。
私が起きる頃には、お母さんも起きてるかな……。
ぼんやりと思ったのを最後に、多蒔はあっという間に眠りに落ちていった。
「多蒔っ!」
耳元で盛大な声を出され、多蒔は飛び上がった。見ると、寝ていたはずの母が多蒔のすぐ横に座っていた。母の息からはアルコールの匂いがぷんぷんした。
「お酒なくなっちゃったから、買ってきて」
母は多蒔の目の前に、空き缶をぶらぶらと振ってみせる。多蒔はあくびをかみ殺して答えた。
「昨日買ってきたよ」
「もう飲んじゃった」
え? もう? 多蒔が慌てて昨日買ってきたビールを置いた場所を確認したが、母の言ったとおり、空になった袋だけが残っていた。
「早く買ってきて」
まだ疲れが残る体を起こし、母に言われるままに外に出ようとした多蒔は、時計を見て目を疑った。まだ午前三時ではないか。どおりで眠いはずだ。
「お母さん、この時間じゃ、お店はやってないよ」
だからもう少し眠らせてよ、と言いたくなるのを堪えた。母の機嫌がどんどん悪くなっていくのがわかったからだ。
「あっそ、あんたはお母さんの言うことが聞けないんだ」
突然すねた口調になる。
「そうじゃないよ。買いに行きたいけど、お店がまだ開いてないの」
「嘘つき女は大っ嫌い。あんたの言うことなんか聞かない」
母は吐き捨てるように言うと、まるで子どもが駄々をこねるように両手で両耳をふさいで、絶対に聞かないという態度をとった。
多蒔は泣きたくなった。へとへとになって帰ってきたのに、早朝に叩き起こされて嘘つき呼ばわりされる、こっちの身にもなってほしい……。これから学校があるし、バイトだってあるのだ。
多蒔は母がこちらを見ていないすきに、涙をそっと拭った。
多蒔はこれ以上母に何を言っても無駄だとわかっていた。かといってお酒が用意できるわけでもないし、眠る気も失せてしまった。
「私、洗い物と洗濯をするね……」
返事はない。
外はまだ太陽も昇っておらず、暗い。多蒔は黙々と散らばった空き缶を拾い、食器を洗い、洗濯機を回し始めた。
学校では席替えが行なわれたが、多蒔はあくびをかみ殺してばかりいて、ろくに自分の席がどこへ移動したのか覚えていなかった。
黒板に貼られた座席表をもう一度確認しようと、ふらふらと歩いていると、突然、腕をとんとんと叩かれた。振り返ると、席に座った男の子が自分の後ろの席を指差している。
「奥野さんの席はここ。俺の後ろだよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
端整な顔立ちをした男の子だ。
多蒔は眠気と戦いながら、この男の子の名前を必死に思い出そうとした。えっと、名前は……。
「俺は日向和真」
多蒔の眠気が吹っ飛んだ。心で考えていたことを声に出してしまったのかと焦ったが、そうではないらしい。
「俺の名前、思い出そうとしているように見えたから」
日向はじっと多蒔を見ながら、何でもなさそうに言ったが、多蒔はまだ驚きを隠せなかった。
この人、超能力でも持っているのだろうか。その間も、日向の視線はぴたりと多蒔についたままだ。人に注視されているのに慣れていない多蒔は戸惑った。
「奥野さんは、もしかしてクリスチャン?」
え? クリスチャン? 思いもよらない質問に多蒔は面食らった。
クリスチャンは、キリスト教を信じる人たちのことだったっけ。多蒔は小さく首を振った。
「私は違うよ」
「何だ、そうか」
日向は残念そうだった。私のどこを見て、クリスチャンだと思ったのだろう? 多蒔は不思議に思い、尋ねてみた。
「どうして私をクリスチャンだと思ったの?」
「名前を見てさ。奥野さんって、多蒔っていう名前でしょ」
多蒔の肩がこわばる。この名前について、今まで嫌な思いばかりしてきた。彼も今までの人たちと同じような反応をするのだろうか。
しかし日向は全く違うことを口にした。
「多蒔って、聖書からとった名前だから、そうじゃないかと思ったんだ」
思いもよらない言葉だった。私の名前が、キリスト教徒が読む聖書からとられている?
「私の名前が聖書にあるの?」
「多蒔っていう名前はないけれど、その由来になっている聖句があるんだよ」
日向はじっと多蒔を見つめた。
「聞く?」
多蒔はこくりとうなずいた。何だか、これから日向が魔法をかけてくるような、そんな気分だ。じっと耳を澄ます。
「『少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。』」
多蒔は困惑した。これが、私の名前の由来……?
日向はさらに詳しく説明してくれた。
「神様からもらった才能や財産を、神様に喜んで捧げている人は、神様もその人を喜んで、さらに豊かに与えてくれる。だから、多く蒔く者には、多くの恵みがあるっていう教えだよ」
そんな大層な思いが、私の名前には込められているの? 多蒔は戸惑うばかりだった。
母は本当に聖書の言葉から私の名前をつけたのだろうか? 母は聖書を読んでいたのだろうか? 思い出そうとしても、母が聖書を読む姿は全く記憶にない。
多蒔が記憶を辿っている間も、日向の端整な顔は、真っ直ぐにこちらを向いていたようだった。
「奥野さんの両親はクリスチャンなの?」
「母親は違うよ」
母はクリスチャンではない。むしろ彼女が唯一信仰しているとしたら、それはアルコールではないかと思ってしまう。
「父親は顔も知らないから、どんな人かわからないけど」
でも、多分、クリスチャンではないだろうな、と思う。
言ってしまってから、多蒔ははっと我に返った。こんなこと、会って間もない人に喋るべきではなかった。
多蒔の顔がさっと強張る。以前、父が誰かわからないと知って多蒔を罵倒した人がいた。直接ではなくとも、陰口を叩かれたこともあった。売女の娘、その意味を知って、一人こっそり泣いたこともある。
しかし日向はそんな多蒔の様子をじっと観察しているかのようだ。
「そうか」
日向の呟きは、多蒔の耳にも聞き取れた。多蒔は身構えた。次は何を言ってくるんだろう、それとも、もう話しかけてこない?
「ノンクリスチャンでも、その名前をつけたりするんだな」
多蒔は呆気にとられた。彼は多蒔の出生のことではなく、まだ名前のことを言っている。
もしかして、聞いていなかったのだろうか? でも、視線はずっとこちらを向いていたから、多蒔の言葉も聞いていたはず、なのだが……。
「いい名前をもらったな」
日向はそう言って笑いかけてきた。明るい笑顔だ。多蒔の後ろの席に座っていた女の子たちが、彼の笑顔に色めきたっているのがわかった。人気があるんだ、と多蒔は思った。
そして、初めて、名前を褒めてもらった。正直、こんなに嬉しいものだとは思ってもみなかった。
多蒔は、日向の名前のことも気になった。
「日向くんの和真っていう名前も、聖書からとってるの?」
「そう。俺の聖句は、『わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。』。これが由来」
「わたしって誰?」
「イエス・キリストのこと。神様が与える真の平和、という意味で和真なんだ」
「かっこいい名前だね」
日向は明るい笑顔を見せ、多蒔の後ろでは、また女子たちが彼の笑顔に反応していた。
その後、日向と話す機会はなかったが、多蒔の頭には何度も聖書の言葉が流れていた。
『少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。』
母はこの言葉を知っていたのだろうか? そして私にこの名前をつけたのだろうか?
知りたい。
多蒔ははやる気持ちを抑え、学校が終わるとアルバイトへ行き、帰りには忘れずにビールを買って家へと急いだ。
家に着くなり、母が多蒔に向かって手のひらを出した。
「ん」
母は多蒔に向かってあごをしゃくり、早くビールをくれと催促してくる。多蒔は指図されるままに、母の手に缶ビールをのっけた。
母はそれを一気に飲み干す。口の端からビールが流れて、床に落ちてもおかまいなしだ。
「あー、生き返った」
母は盛大なげっぷをすると、テレビをつけた。そのままテレビの前に座り、バラエティー番組を見てげらげらと笑い出す。
今日は機嫌がいいみたい。多蒔はほっとした。これで母に質問ができる。
「お母さん、私の名前の由来はどこから来てるの?」
母の背中が一瞬固まったように見えた。もしかして気に障る質問だったのだろうか?
しんと静まり返った部屋に、テレビの明るい声が不自然に響いた。
「……何よ、急に?」
母は振り向かないが、声は固い。多蒔は恐る恐る答えた。
「クラスメイトがね、私の名前は聖書からとってるって言ってたの。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります、って言葉が由来だって」
「そうらしいわね」
否定でも肯定でもない、曖昧な返事だった。らしい、というのは、知っていたということなのだろうか?
けれど、家に聖書はないし、今まで聖書の話さえ母から聞いたことはない。
「お母さん、聖書のこと知ってるの?」
「高校生の時、少しだけ読んだ。本当に少しだけ。だって、読んでたって、あの人に近づけるわけじゃなかったし……」
最後の言葉は、注意深く聞いていないとテレビの音にかき消されそうなほどの小さな声だった。
それから急に打って変わって、母ははっきりとした声で告げた。
「あんたの名前はね、私の初恋の人の名前からとったの」
初耳だった。
「初恋の人……?」
どおりで私の名前は女の子らしくないわけだ。母は相変わらずテレビの前から動かず、こちらに背を向けたまま喋った。
「高校二年のときに同じクラスになって……。素敵な人だった。かっこよくて、勉強もスポーツもできて、皆の憧れの的だった」
そんな人、本当に世の中にいるんだ……。ふと、多蒔の脳裏に日向の顔が浮かび、慌てて振り払った。
「その人はクリスチャンだった。名前は聖書の言葉が由来だって言って、小さな聖書をいつも持ってた」
母の声はまるで遠い輝く星を見ているかのようだ。
「優しい人だった……」
「告白したの?」
「できるわけないじゃん」
母が乾いた笑い声をあげた。それが、多蒔にとっては、まるで後悔しているように聞こえた。
「だって、もう彼女がいたんだもの。私よりも可愛くて優しい彼女で……私が勝てるわけないじゃない」
母の声は震えている。もしかして、泣いているの? 多蒔は母の肩をじっと見たが、震えているのは声だけのようだ。
「彼女もクリスチャンだった。同じ教会に通っていて幼馴染みだって」
母の声はどんどん沈んでいく。小さな棘のようなものすら感じられた。
「キリスト教なんかなければ、彼だって彼女と出会わなかった……」
母の願ってももう届かない、悔しさと怒りがにじんだ声だった。
静まり返った部屋に、テレビのアナウンサーの明るい声は非常に場違いに聞こえる。
多蒔はキリスト教の話題をそらした方がいいと考えた。
「お母さん、初恋の人の写真は持ってるの?」
「……高校のアルバムに載ってる。そこの棚の下」
母は相変わらずテレビから視線をはずさないまま、指だけ棚の下を指した。
多蒔は母が缶ビールをぐいぐいあおっているのを横目に、棚に向かい、母の高校のアルバムをとりだした。心臓がどきどきする。
積もっていた埃をそっとはらい、重い背表紙を開くと、三年一組の集合写真が見えた。最初に目に飛び込んできたのは――高校生の母の姿だった。
母は真っ黒な黒髪を両脇にたらし、まるでカメラが襲い掛かってくるライオンであるかのように怯えた目をしている。今の母からは想像がつかない、そして、どこか今の多蒔に似ている……。
何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、多蒔は視線をそらした。
「彼は三年五組」
多蒔は慌ててページをめくり、五組の集合写真を開いた。男子生徒と女子生徒が、講壇の前に並んで写っている。
母の初恋の人は、すぐにわかった。
背が高く、アイドルかと思うほど端整な顔立ちをしていて、四十人近いクラスメイトたちに囲まれていても、ひときわ目を引く。
多蒔は衝撃を受けた。その人は、あまりにも日向に似ていたからだ。
まさかと思いながら、その人の名前を確認し、絶句した。――日向多蒔――。苗字が全く一緒だ。
「お母さん、この人は今何をしてるの?」
母の返事は遅かった。多蒔が、もう会話を打ち切られたのだと思ったほどだ。
「……清明市の教会で牧師をしてる」
清明市といえば、多蒔のアルバイト先がある街だ。
「会いに行ったの?」
「昔、一度だけ。あんたがまだ小さいときに、教会の近くまで行った。けど、入れなかった。夜の商売をしながら父親のわかんない子を抱えて、彼に会う勇気なんて、私にはなかった」
母の声は暗く、沈んでいた。多蒔は寂しそうな母の背中を見つめた。
母の叶わぬ恋。けれども、娘に彼の名をつけるほど、母はその人を好きなのだ。
突然、母はテレビのボリュームを不自然なほどに上げた。うるさいだろうに、テレビの前に座ったまま、母は動かない。この話はおしまいということなのだろう。
多蒔はもう一度、写真を見た。背が高く、整った顔立ちをしている彼は、ますます日向和真に見えてくる。彼の親戚だったりするのだろうか。多蒔は明日、日向に確認しようと決めた。
ところが、多蒔が日向に話しかけようとするたびに、彼は他の誰かにつかまってしまった。他のクラスから遊びに来たクラスメイトだったり、日向に気がありそうな女の子たちだったり、ひっぱりだこなのだ。
結局、多蒔は放課後になっても会話ができず、仕方なく校舎を出てアルバイト先へ向かうことにした。
バスの窓際の席に座り、これからバスが発車しようとする時だった。
「隣、座ってもいい?」
二人席の空いたところを指しているのは、なんと日向だった。多蒔は驚いて、すぐには声が出てこなかった。
「――ど、どうぞ」
日向は隣の席に座ると、すぐに尋ねてきた。
「何か俺に話しがあった?」
多蒔はビックリした。多蒔の考えは日向には何でもお見通しなのだろうか。
教室にいる時よりも、ずっと近い距離にいる日向にどぎまぎしながら、多蒔は昨日から聞きたかったことをようやく口にできた。
「日向くんの親戚に、私と同じ名前の人はいる?」
「いるよ、俺の父親。だから奥野さんの名前を知って、驚いたんだよ」
日向のお父さん! 親戚よりも、ずっと日向に近い人だった。まさかと思いながら、多蒔は尋ねた。
「もしかして、日向くんのお父さんは清明市の教会で牧師をしてる?」
「そうだよ、よく知ってるね」
あっさりと答えが返ってきた。なんと、日向の父親が、母の初恋の人だったのだ。そして、多蒔という名前は日向の父親から取ったのだ。
多蒔はむしょうにその人に会ってみたくなった。
「日向くんのお父さんに、会えない?」
「俺の父親に?」
日向が一瞬目を見張って驚いたのを見て、多蒔は馬鹿なことを言ってしまったと思った。たいして話したことのないクラスメイトなのに、それも父親に会いたいなんて、普通に考えたら警戒したり怪しむに決まっている。
多蒔は急いで打ち消した。
「あの、ごめん。やっぱり何でもないの。このことは忘れて」
「なんで? 父親に会いたいんなら、連れてくよ」
今度は多蒔が驚いた。
「いいの?」
「もちろん。父親だって、奥野さんに会うの歓迎する」
それが嘘ではないというように、日向はさらに言った。
「今から会う?」
今から! こんなに急進展するとは思ってもみなかった。残念なことに、これから夜十時までアルバイトが入っている。
「今日は用事が入っているからダメなの」
正直にアルバイトがあるとは言えない。多蒔の学校はアルバイト禁止となっている。
口をつぐんだ多蒔に、日向はまた尋ねた。
「それじゃ、いつがいい? 日曜日はずっと教会にいるよ」
日曜日……確か、来週の日曜日は夕方まで別のアルバイトが入っているが、それからは時間が空いている。
「来週の日曜日の夕方はどうかな?」
「わかった。父親に連絡しておく」
日向は快諾してくれた。
多蒔はそれでも実感が湧いてこなかった。あまりにもとんとん拍子に話しが進みすぎてしまった。
このことを母に話した方がいいのかどうか、多蒔は悩んだ。母は初恋の人に会いたくても、会いにいけなかった。それなのに、娘の方が会おうとしている。
母は反対するだろうか? 多蒔の脳裏に浮かんだのは、母が猛烈に怒る姿だった。たぶん、母は反対してくる気がする。
……このことは内緒にしておこう。
「俺、次のバス停で降りるけど、奥野さんはどこまで行くの?」
考えから引き戻された多蒔は、次のバス停で自分も降りなくてはいけないことに気づいた。
「私も次で降りるよ」
「奥野さんの家は、この辺りなの?」
多蒔は首を横に振ってから、しまったと気づいた。日向に不審に思われなかっただろうか。
ちらっと日向をうかがうと、彼は道路に視線を向けていた。
「降りよう」
そこで多蒔はバスが止まっていたことに気づき、慌てて一緒に降りた。
「奥野さんはどっち方向に行く?」
「ここの通りを真っ直ぐに行くよ」
広いバス通りで、大手会社などが並ぶ通りを指差すと、日向が笑顔を浮かべた。
「俺もちょうど同じ道だ」
多蒔は焦った。アルバイト先の会社までは、あと数メートルしかない。
「日向くんの家はこっちにあるの?」
「そう。教会と同じ敷地にあってさ、ここの通りを真っ直ぐ行って、郵便局がある角を曲がるとすぐそこ」
確実に、アルバイト先の会社の前を通るルートだ。どうしようと焦りだけがつのっていき、あっという間に会社の前まで来てしまった。
「あ、あの……」
足を止めた多蒔を、日向がどうしたのかと振り返ってきた。
「えっと、私はここで……、その、用事があるから……」
多蒔はそこで思わず、会社をちらっと見てしまった。慌てて視線を戻したものの、遅かった。
日向は多蒔が視線を向けた会社を見ていた。どう見ても、高校生の多蒔が用事があるとは思えない会社だ。バレたかもしれない。
ところが日向は視線を多蒔に戻し、じっと多蒔を見ただけで、何も言わなかった。
そういえば、前にもこういうことがあった。多蒔がうっかり父親が誰かわからないと言ってしまった時だ。その時も、日向は何も言わなかった。
「じゃあ、また明日」
多蒔は面食らった。
「あ、えっと、うん」
しどろもどろになって返事を返す。
もしかして、バレていない?
そんな多蒔の予想を裏切るように、日向は一言、笑顔で付け加えた。
「頑張れ」
……もしかして、バレてる?
多蒔は混乱しながら、日向が歩き去っていくのを見送った。
ビールを買って帰った多蒔は、てっきり母が眉間に皺をよせて、ビールを待っているのだろうと思った。
「ただいま」
家の中は真っ暗だ。母の靴がない。もしかして、今日は仕事に出たのだろうか。
相変わらずちらかしっぱなしの部屋の中を片付け、洗濯と洗物をし、宿題をやり始めたところで、多蒔の携帯が鳴った。見ると、母からだ。
「もしもし、お母さん?」
電話口から、明らかに酔っている母の声が聞こえてきた。
「多蒔ぃ、迎えに来てよお」
時計を見ると、夜中の十二時を指している。
「お母さん今どこにいるの?」
「外ぉ」
「外のどこにいるの?」
「だから外だってばぁ」
駄目だ、酔っていて会話になっていない。
多蒔は携帯から聞こえてくる他の音を頼りに場所を突き止めようと、耳をすました。しかし、何も聞こえない。とりあえず繁華街ではないのは確かだ。しばらくすると、車が通り過ぎる音が聞こえた。それも小さい音だ。
母はどこか静かな場所にいるに違いない。
あれこれ推測しているうちに、携帯から母のいびきが聞こえてきた。
嘘でしょ……。春とはいえ、夜中になると外はまだコートを着て出るくらい寒い。母がどんな格好でいるかはわからないが、このまま外で寝れば風邪を引いてしまう。
「お母さん! お母さん、起きて!」
大声を出したが、母は起きる気配がなく、やがて、ぷつっと通話が切れた。おそらく、母の携帯の電源が切れたに違いない。
多蒔は外へ出る仕度をした。宿題はまだ残っているし、夜中の十二時を過ぎているが、母を放っておくことはできない。
真っ暗な街に出ると、多蒔は母を捜して歩き回った。母がよく飲みに行く居酒屋から家までの道をたどってみたが、いない。
静かな場所――、時折車の音が聞こえるということは、道路が近くにあるということだ。けれども静かで、酔った母が寝てしまうような場所。多蒔は気づいた。公園かもしれない。
多蒔は家の周辺にある公園を一つ一つ丁寧に確かめていった。もしかしたら木の影に隠れているかもしれないと、藪の中を覗いたりしてみた。
ようやく、公園の芝生で寝ている母を見つけたのは、深夜の二時だった。
母はコートを着ていたが、手で触ると、ひんやりと冷えていた。やはりこのままだと風邪を引いてしまう。
「お母さん、起きて」
母の体をゆすると、母はまぶたを少しだけ開けた。それからごにょごにょと口が動いたが、上手く聞き取れない。母の息は酒臭い。
少し離れたところに、電源の切れた母の携帯があった。多蒔はそれをポケットにしまうと、もう一度、今度は大きく母の体をゆすった。
「お母さん、いい加減に起きて。風邪引いちゃうよ」
母は眉をおもいっきりしかめたあと、ようやくゆっくりと目を開けた。
「ほら、行こう。家に帰ろう」
寝転がった母を起こそうとした多蒔の手を、突然、母が激しく叩いてきた。痛みに、思わず多蒔の手が離れる。
「放っておいて! あんたなんか、いらない」
酔っているとはわかっていても、多蒔は愕然とした。
「お母さんが迎えに来てって言ったんだよ」
「知らない。知らないっ!」
母はぶんぶんと手を振り回して、多蒔が近づけないようにしている。
「あんた、私のこと嫌いでしょ! 嫌いな奴は近づくな」
「お母さん、何言ってるの……」
多蒔は泣きそうになるのを堪えた。落ち着け、と心に言い聞かせる。母は酔っているだけなのだから。そう、ただ酔って、自分が何を言っているのか、わからないだけ……。
「あんたがお腹にいるってわかったとき、一緒に死ねばよかったんだ。心中すればよかったんだ!」
多蒔の心の傷が、さらに深くえぐられたような感覚がした。
「どうして、そんなこと言うの……」
多蒔の鼻の奥がつんとしたのと同時に、涙が溢れてきた。
母は多蒔の涙に気づくと、顔をしかめた。
「すぐ泣く女は嫌い。あっち行け」
母はしっしと手を振り、追い払う仕草をした。
「お母さん……」
「さっさと行けっ!」
母の怒鳴り声に、多蒔は肩がすくんだ。真っ赤に充血した目で睨まれ、多蒔はのろのろとその場を離れた。その間も涙は止まらなかった。
私はいったい何のために生まれ、生きているのだろう。
七年前に浮かんだ疑問に、答えは出てこない。
公園の出口まで来たとき、多蒔は母のいる方を振り返って、目を疑った。なんと、母はまた寝ている。母のいびきが、かすかにこっちまで聞こえてきた。
嫌いだ、近づくな、と言われたけれども、多蒔にとって母だけが唯一の家族なのだ。見捨てるわけにはいかない。
多蒔は涙をぬぐうと、意を決して母のところへ向かった。
今度は声をかけず、黙って母の肩に手をかけ、上半身を起こした。母はまったく起きる気配を見せず、ぐうぐう寝ている。
時間がかかったものの、多蒔はようやく母を背中におんぶすることができた。母の酒の匂いに包まれながら、多蒔は寝静まった街の中を、重い足取りで家に向かった。
結局、多蒔はほとんど寝れないまま、学校へ向かった。
昨夜の母の言葉が、多蒔の心をじくじくと刺してくるので、授業はほとんど上の空だった。お腹もすかないので、お昼になっても、多蒔は何も食べれなかった。そういえば、飲み物も朝から口にしていない。
とりあえず、お腹は空かなくても、何か飲んだ方がいいと思い、多蒔は自動販売機へ向かった。何だか、意識がはっきりしないし、足は雲の上を歩いているみたいにふわふわしている。
「奥野さん」
多蒔はぼうっとしたまま、振り返った。日向がいるとわかるのに少し時間がかかった。日向は多蒔の表情をじっと観察している。
「具合悪い?」
多蒔は首を振って「大丈夫」と言おうとしたが、声にならなかった。景色がぐらりと揺れる。
「奥野さんっ!」
日向がぎょっとして駆け寄ってくる。しっかりと腕に抱きとめられた感覚がしたが、確かめることはできず、多蒔は真っ暗闇に吸い込まれていった。
目を覚ましたとき、多蒔は自分がどこにいるのか、しばらくわからなかった。
白い天井に、白いカーテン、そして自分が寝かされている、真っ白なふかふかの布団。ここは……学校の保健室だ。
もぞもぞと布団から出てカーテンを開くと、保健室の女の先生と目が合った。
「おはよう。昨日は寝ていなかったの?」
「はい……、遅くまで起きてて……」
多蒔はまた昨夜のことを思い出してしまい、ぎゅっと心が掴まれた感覚がした。先生の視線を避けるように、スカートのしわを伸ばす。
「お昼食べていなかったみたいだけど、朝も食べなかったの?」
「はい……」
「ダイエットしてる?」
「いいえ、今日はその、たまたま食欲がなくて……」
保健室の先生が、どうしてお昼のことを知っているのだろうと不思議に思ったが、すぐに日向が話したのだろうと思い至った。そういえば、保健室に日向の姿がない。
授業に出ているのだろうか、と時計を見た多蒔は凍りついた。見間違いでなければ、時計は午後の五時を指している。アルバイトが始まる時間だ!
「あの、長々とベッドをお借りして、すみませんでした」
頭を下げて礼をすると、多蒔は先生の返事を聞かずに保健室を飛び出した。校舎は薄暗く、生徒はほとんどいない。
どうしよう。今まで、どんなに疲れていても、アルバイトだけは遅刻も無断欠勤もしてこなかったのに。まさか、これでクビになったりしないだろうか。貴重な収入源が失ったら、私も、そして母だって困ることになる。
多蒔が向かっている教室から、男子生徒が出てくるのが見えた。日向だ。手に持っているのは、多蒔の鞄だった。
「奥野さん、平気なの? まだ疲れているんじゃ」
正直、疲れはまだ残っている。けれども、この状況ではそんなこと言ってられない。
「大丈夫、助けてくれて、ありがとう」
焦っていたせいで、一本調子の早口になってしまった。これじゃあ、本当に礼を言っているのかわからない。
日向は多蒔が鞄に視線を向けているのに気づいた。
「これから届けようと思ってたんだ」
「あ、ありがとう」
多蒔は日向から鞄を受け取ると、携帯を探した。一刻も早くアルバイト先に連絡しなくては。
「もしかして、バイト先に連絡しようとしてる?」
多蒔は慌てていたせいで、自分が「そう」と頷いて、アルバイトをしていることをばらしたのに気づくのが遅れた。
「さっき、今日は休むって俺から連絡しておいた」
「え?」
多蒔はようやく見つけた携帯を、危うく落っことしそうになった。まさか、私の携帯を見たのだろうか?
「奥野さんの携帯は見てない」
多蒔の心の疑問に、日向はきっぱりと否定した。
「奥野さんのバイト先の会社は知っていたから、俺の携帯から連絡した。――事情を話したら、こちらのことは気にせず、ゆっくり休んでください、だってさ。いいバイト先だな」
明るい日向の笑顔に、多蒔は呆然となって見つめ返した。日向は気づいていたのだ、多蒔がアルバイトをしていることに。
「あの、先生には……、その」
内緒にしておいてほしいと言おうとしたが、もしかしたら日向はすでに先生に話してしまっているかもしれない、と思った。ひんやりとした汗が、背中をつたう。
「誰にも話していないし、今のところ俺しか気づいていない」
ほっとした多蒔を、日向がじっと見ている。
それまで、日向が何も言わないのは気づいていないからではないかと思っていたが、そうではなかったのだ。それどころか、日向はよく見ているし、気づいている。
思い返せば、多蒔の考えを読んだような返事をされたことが、何度かあったではないか……。
多蒔は日向の視線が、急に気になりだした。今度は何に気づいたのだろう。何を考えているのだろう。
「奥野さんのアルバイトのことは、誰にも言わないよ。小遣い稼ぎでバイトしてるって感じではなさそうだし、何かよっぽどの事情があるんだろ」
多蒔は日向の洞察力を改めて思い知らされた。そして、優しい人だと思った。こうやって比べては悪いとは思うが、母親ですら、これほど多蒔に優しくしてくれない。
「本当に、ありがとう。色々と助けてくれて」
多蒔は今度はちゃんと心を込めて、お礼を言った。
日向は明るい笑顔を見せてくれた。彼の笑顔に一体何人の女の子が惹かれていったのだろう、と多蒔は思った。
「今度の日曜日だけど、待ち合わせ場所は、清明市のこの間一緒に降りたバス停でいい?」
そうだった。とうとう、あさってが日曜日だ。多蒔の名前のモデルになった、日向の父親に会う日だ。
「うん」と多蒔はうなずいた。
日向の父親の高校時代は、今の日向にとてもよく似ていたが、性格も似ていたりするのだろうか。
「日向くんのお父さんってどんな人なの?」
「話し好きだし、人に会うのも好き。奥野さんのことを話したら、すごい喜んでさ。会うのを楽しみにしてる」
日向の父親に対して、特にイメージはしていなかったものの、これほど多蒔に会うのを楽しみにしてくれるとは思ってもみなかった。
嬉しいけれども、意外だった。日向は寡黙ではないけれども、別段お喋りが好きというわけでもない感じがするからだ。
日向はまたしても、多蒔の心を読んだような返事を返してきた。
「俺の性格は父親と母親の性格を足して二で割ったようなものだって言われたことがあるよ。逆に一番上の兄は父親の性格を受け継いで、二番目の兄は母親の性格を受け継いでる」
「お兄さんがいるの?」
「そう。三人兄弟で、俺は末っ子。上の二人は成人してとっくに家を出て行ってるよ」
そういえば、日向の家族構成は聞いたことがなかった。日向の兄たちも、日向に似て美男子なのだろうなと多蒔は思った。
「奥野さんは、兄弟はいるの?」
「ううん。私は一人っ子だよ」
でも、兄弟がいたら……。
今まで考えたことはなかったけれど、お互い助けて励ましあって、人には言えない母への不安や悩みを分かち合えたのかもしれない。いまさら、そんなことを考えても、あり得ないことだけれど……。
日向と目が合うと、多蒔は今心の中で思ったことも日向に見透かされてないだろうかとひやひやした。
けれども日向は自分の携帯を取り出した。
「待ち合わせ当日に何かあった時とか、連絡先知っておいたほうがいいと思うから、携帯番号教えてくれない?」
多蒔は同意して、自分の携帯番号を教え、日向の携帯番号も教えてもらった。ただでさえ少ないアドレス帳に、日向の名前が登録されているのは不思議な気分だった。
ふと顔をあげると、日向の視線とぶつかった。今度は何を考えているのだろう。それとも私の考えを読んでいたりするのだろうか。
ところが、彼はこう言っただけだった。
「帰ろうか」
多蒔はうなずいた。やっぱり日向の気持ちはさっぱり読めない。けれども、日向には自分の気持ちをずいぶんと読まれている気がする……。
日向の番号が入った携帯を鞄にしまい、日向と一緒に校舎を出た。外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。
家に帰ったとき、多蒔は缶ビールを買ってくるのに忘れたことに気づいた。
また外に出て買いに行こうかと思った時、母がすっと顔を出した。多蒔はビールを催促されるのだと思い、急いで説明した。
「お母さん、ごめん、ビール買ってくるの忘れちゃって――今買ってくるから」
「別に、いらない」
多蒔は耳を疑った。
「それより、どっか食べに行こ。お金は私が出すから」
つっけんどんな言い方だが、多蒔の耳が確かなら、間違いなく、母は食事に誘ってくれている。
呆気にとられて立ち尽くしている多蒔を、母はじろりと睨んだ。
「何なの? 行かないってわけ?」
「い、行く。今着替えてくるね」
母の気が変わらないうちにと、多蒔は猛スピードで制服から私服へ着替えた。
母と外食なんて何年ぶりだろう。あまりにも久しぶりすぎて、最後に外食したのがいつだったか覚えていないほどだ。
玄関では母がイライラした様子で多蒔を待っていた。
「遅い」
「ごめんなさい」
母は多蒔がついていくるか確認することもなく、どんどんと歩いていく。一体どこへ行くのだろう? けれども母に尋ねるのはためらった。これ以上母の機嫌を損ねたくない。
黙って母についてからしばらくすると、母は寿司屋に入っていった。この寿司屋は美味しいと評判で多蒔も知っていたが、値段が高いので、今まで入ったことがない。
本当に母はここで食べるつもりなのだろうか?
母について一緒に入るべきか迷っていると、母が店から出てきて、一喝した。
「何してるの。早く入んなさい」
慌てて寿司屋の入り口をくぐると、店の中は人で賑わっていた。多蒔は母と並んで、カウンター席に座った。目の前では、寿司職人が見事な手さばきで寿司を作っている。
「頼みな」
母に促され、多蒔はおそるおそるマグロを一貫頼んだ。隣で、母がそれだけ? と不満そうに片目を吊り上げたのが見えたが、多蒔は財布のことが気になって仕方がなかった。
母は多蒔の心配をよそに、どんどん寿司を頼んでいく。
「ほら、食べな」
あっという間に、多蒔の目の前には、海老や穴子煮、玉子や稲荷寿司が並んでいく。これらは全部、多蒔が好きなものだ。多蒔の胸がじんわりと温かくなり、母の横顔を見つめた。
お母さん、私の好物を覚えてくれていたんだ……。
「何してんの。早く食べなさい」
母は仏頂面をして言ったが、多蒔は嬉しくなって、一つ一つゆっくりと噛み締めながら食べた。
今日の母は、嘘のように優しい。もしかして、日向の方が優しいと思ったのが母にまで届いてしまったのだろうかと考えてしまうくらいだ。
会計も多蒔の杞憂に終わり、母はきっちり支払った。
家に帰り、布団に寝るころになって、多蒔はあることに気づいた。今日、母は一度も多蒔の前でビールを飲んでいない。
もしかして、お酒をやめることにしたのかな。けれども、過去にも母は何度かそうしようと決意したが、すぐにまたアルコール漬けの生活に戻ってしまったことを思い出した。
明日になれば、また元通りになってしまう……。
多蒔は布団の中で暗い溜め息をついた。
やはり、多蒔の予想通りだった。次の日、母は朝から缶ビールを飲み「足りないから買って来い」と多蒔を怒鳴った。昨日のことなど、まるでなかったかのようだ。
覚悟はしていたものの、多蒔はがっかりせずにはいられなかった。
日曜日の夕方、バイトを終えた多蒔は、洋菓子を買って待ち合わせ場所のバス停へ向かった。
バス停に行くと、日向が近寄ってきた。いつも制服姿しか見ていなかったため、私服姿の日向は新鮮だった。日向はジーンズにジャケットを羽織っていて、それがよく似合っている。
多蒔はというと、襟に花のアクセントがついたゆったりとしたサテンワンピースを着てみたが、正直、この服装で良かったか自信がない。
けれども、日向が多蒔を見て笑顔を向けてくれたので、とりあえず大丈夫だったのかなと思うことにした。
多蒔が洋菓子を渡すと、日向は「気を遣わなくていいのに」と言いながらも受け取ってくれた。
以前にも一緒に歩いた通りを、日向と並んで歩く。多蒔のアルバイト先の会社に近づくと、日向が尋ねてきた。
「あれから体調はどう?」
「ちゃんと寝たし、もう大丈夫。迷惑かけてごめんね」
「迷惑じゃないよ」
ずいぶんとはっきり言ってくれるので、多蒔ははにかんで小さく笑みをこぼしてしまった。それに気づかないでほしいと思ったが、日向に対しては無理な願いかもしれない。
通りを曲がると、すぐに教会の屋根の上に光る金色の十字架が見えた。壁にはめ込まれた青いガラスが夕日を浴びて、キラキラと輝いている。目の前まで来ると、茶色の大きな扉が待ち構えていた。
とうとうここまで来てしまった。
母のことが頭をよぎる。母は昔、小さな多蒔を連れて、ここまで来たのだ。けれども母は入れなかった。十数年の時を経て、娘が入ろうとしている。そして母が会えなかった初恋の人に、今から会おうとしている。
お母さん、ごめんね。
日向に扉を開けてもらい、多蒔は教会の中に入った。礼拝堂は広かった。高い天井には天使の絵が描かれ、前方には大理石の講壇がある。その講壇の前に、一人の男性がひざまずいて祈っていた。
「あの人が俺の父親」
そっと日向が教えてくれた。
多蒔は一気に緊張してきた。手のひらが汗ばんでくる。多蒔はその講壇の前まで行く間、長い時間がかかったように思えた。その間も男性はぴくりとも動かず、ひざまずいて真剣に祈っている。
「父さん」
日向の声が、礼拝堂にやけに大きく響いた。
男性が顔を上げて日向を見上げる。
「奥野多蒔さんが来たよ」
男性がぱっとこちらを振り返った。写真で一度見たことがあるけれども、やはり日向に似ていて、とてもハンサムだ。日向の未来を見ているようだ。
「多蒔さん、よく来てくださいました」
日向の父親――日向多蒔牧師は立ち上がると、笑顔で多蒔の手を両手で握り締めた。温かい握手だ。
「お待ちしてました。日向多蒔です。あなたに会えるのをずっと楽しみにしていたんですよ。お忙しい中、よくいらしてくださいました」
日向牧師の声は、とても耳に心地良い。
「奥野さんも私と同じ名前で同じ漢字だと息子から聞いて、それはもう驚きましたよ。今までに一度も同じ名前にお会いしなかったものですから。嬉しいものですね、同じ名前の人に出会えるとは」
日向によく似た日向牧師の笑顔からも、そして伝わってくる手の温かさからも、本当に多蒔を歓迎してくれているのがわかる。
息子のクラスメイトでさえ、これほど会うのを喜んでくれるのなら、多蒔の母にだって喜んで会ってくれるのではないかと思えてきた。
「これは、母がつけてくれた名前なんです」
多蒔は思い切って打ち明けることにした。
「母が高校生の時、クラスメイトの中に素敵な名前の人がいたことを覚えていて、私につけました」
まさに今、その素敵な人が、目の前の日向牧師なのだ。多蒔は日向牧師の温かい眼差しを見つめ返した。
「そうですか」
日向牧師の表情は相変わらず包み込むような笑顔だったが、視界の隅で日向が動いたのがわかった。けれども口を挟むつもりはないようだ。
日向牧師――母の初恋の人……。どうして母が日向牧師を好きになったのか、わかる気がする。日向牧師が高校生の時、きっと日向みたいにクラスの人気者だっただろう。母は、かっこよくて、勉強もスポーツもできて、皆の憧れの的だったと言っていた。
母は今も日向牧師のことを忘れないでいるけれど、日向牧師は母のことを覚えているだろうか?
知りたい。
「母は、高校生のとき、牧師先生と同じクラスでした。母の名前は奥野凛子です。覚えていらっしゃいますか?」
日向牧師の目が少し驚いたように見開いたが、すぐに記憶を辿り始めたのがわかった。多蒔はそれをかたずを呑んで見守った。
「……ほんの少しですが、覚えていますよ。とても大人しい方だったと思いました」
日向牧師はちゃんと母のことを覚えていてくれたのだ。多蒔は自分のことのように嬉しくなった。
「今でもお元気ですか?」
多蒔はすぐに「はい、元気です」とは答えられなかった。なぜだか目頭が熱くなって泣きたくなったが、多蒔は堪えて震える声で答えた。
「母は元気ですが、お酒を飲むことが多くて、時々感情が抑えられないことがあります」
これ以上話せば、母が嫌がるだろうことは予想がつく。多蒔は震える唇を噛んで、うつむいた。
「多蒔さん、あなたの名前の由来は知っていますか?」
日向牧師の優しい声が降ってきた。
「はい、日向くんから教えてもらいました」
多蒔は顔を上げて、すっかり暗記した聖書の言葉を口にした。
「『少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。』」
日向はこのやりとりをどう思っているのかわからないが、じっとこちらを見ているのはわかった。
「その通りです。私たちの名前は、ここから取られたのですよ。神様によって造られた私たちは、創造主の神様のための働き人になって、与えられた祝福の種を神様のために蒔くのです。私はこの名前が好きですよ。そして神様は多蒔さんのことも、そして多蒔さんのお母さんのことも、とても愛してくださっていますよ」
日向牧師は優しく微笑んだ。けれども多蒔は、その言葉が実感となって湧いてこないし、頭で理解ができない。
神様が、私を……母を……愛しているの?
「多蒔さんは十字架の意味を知っていますか?」
確か、中学の時に習った。多蒔は薄れかけている記憶を引っ張り出した。
「えっと、イエスという人がそこに張り付けられて、死刑になった……」
「その通りです。神様の子どもとして生まれたイエス様は、何の罪もなかったのに死にました。なぜそうしたのか、それは聖書にこう書いてあるからです」
日向牧師は一冊の小さな本を取り出すと、多蒔の目の前に開いて見せ、読んだ。
「『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』」
日向牧師はまた別の箇所を開いた。
「『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。』」
日向牧師は優しい目で多蒔を見つめた。
「神様はたった一人の子どもを十字架にかけて、すべての人間の罪の身代わりにするほど、私たちを愛してくださっているのです。その愛は、今も私たちに溢れるほど注いでくださっています」
多蒔にとっては、日向牧師の話す言葉は、すべて初めて聞くことばかりで戸惑うばかりだった。愛、という言葉を一日でこんなにたくさん聞いたのは初めてだ。
多蒔は、日向牧師の温かい笑顔と言葉に背中を押されるようにして、自分のことを話し出した。
「私は父親を知りません。私は誰の子か、わからないんです」
目の前にいる人は母の初恋の人で、母が自分の暗い部分を一番知られたくない相手だとわかっていても、多蒔は黙っていることができなくなっていた。
多蒔は打ち明けたかった。日向牧師に、そして近くで見守っている日向に、今までの苦しみをぶちまけてしまいたかった。
「母は私がお腹にいるとわかって、おろそうとしたそうです。けれども、私が成長しすぎて中絶するのは無理でした。この間は、私がいるとわかったとき、心中すればよかったと言われました」
私は必要ない子どもなんです、と最後まで言えなかった。涙がこみ上げてくる。
もし、日向牧師に、七年前に生まれた疑問を尋ねたら、どんな答えが返ってくるのだろう。多蒔は知りたくなった。そして、初めて、多蒔はその質問をぶつけてみた。
「なぜ、私は生まれてきたのですか?」
「神様が多蒔さんを愛するために、多蒔さんをこの世に誕生させたのですよ」
日向牧師は穏やかな表情を崩さないが、その目はとても真剣に訴えてくる。
「私たちの神様は一人一人、私たちを神様に似た者として造られました。どんな人もです。多蒔さんも多蒔さんのお母さんも神様が造りました。けれども、神様は造らない選択もとれたのです」
日向牧師は先ほど多蒔に開いて見せた小さな本に視線を向けたが、またすぐに多蒔に微笑んだ。
「聖書は神様は愛だと伝えています。愛するためには、その対象がなければいけません。神様は私たちへの愛を示す対象として、私たち一人一人をお造りになったのです。多蒔さんは神様に愛されるために生まれたのですよ」
それまで堪えていた涙が、ついに落ちた。
愛されるために生まれた。それは多蒔が心の底から欲しいと思っていた言葉だった。そして、自分は愛されたかったのだと、多蒔はその時気がついた。
そっと肩に手を置かれた。日向牧師の温かな手だ。
「多蒔さん、神様の愛を信じてみませんか? 神様はずっと、多蒔さんが生まれる前からをも、多蒔さんのことを愛し、そして造ったのです。神様は多蒔さんに愛を示すために、多蒔さんを育て、生かしていらっしゃるのです」
多蒔は答えが出てこなかった。その代わりに、次から次へと涙が出てくる。
日向牧師の手が離れたのがわかったが、すぐ目の前にハンカチと、そしてあの小さな本が差し出された。
「これを多蒔さんに差し上げましょう。聖書には、神様の愛がすべて伝えられているのです。ぜひ読んでください」
多蒔はハンカチと、そして聖書を受け取った。日向牧師が喜んでいるのがわかる。
「多蒔さんの心が落ち着いたらで構いませんから、私たちと夕飯をご一緒しませんか? 私の妻の料理は美味しいですよ。妻も多蒔さんにお会いしたがっています」
「……はい、お願いします」
まだ止まりそうにない涙を、ハンカチで押さえる。
「でしたら私は先に妻のところへ知らせに行きます。多蒔さんは、落ち着くまでここにいて構いません。ここには他に誰も入らないようにしますから。ゆっくり、気がすむまでいていいですからね」
日向牧師は優しい笑みを多蒔に向けたあと、その場を離れて行った。
「奥野さん」
それまで一言も喋らなかった日向が口を開いた。
「俺はここにいてもいい?」
多蒔はこくりとうなずいた。涙はまだ溢れてくる。
静かに泣き続ける多蒔を、日向はじっと見守っていた。
多蒔の涙が止まり、高ぶっていた気持ちが落ち着いてくるまで時間がかかってしまったが、その間、日向牧師が言ったとおり、誰一人礼拝堂に入ってこなかったし、日向は辛抱強く待ってくれていた。
「もう大丈夫。待たせてごめんね」
多蒔は申し訳なかったが、日向は微笑んだ。日向牧師の優しい笑みとよく似ている。
「ご飯、食べに行こうか」
多蒔は日向に案内され、礼拝堂を出て、芝生の庭を歩いた。その間、日向は先ほどのことは一切触れない。気を遣ってあえて話題にしないのだろうと、多蒔は思った。
「ここが俺の家」
日向の家は二階建てで、一階部分はまるで多目的ホールのようなガラス張りになっていた。
「時々、一階のリビングを使って教会の集会をしたりするんだ」
家はカーテンがひかれていて中は見えないが、電気がついている。
玄関に入ると、日向牧師が女性と一緒に迎えてくれた。とても可愛らしい女性だ。
「初めまして、日向なおみです。多蒔ちゃん、と呼んでいいかしら。どうぞ、あがって」
多蒔の顔は涙でぐしゃぐしゃだっただろうに、日向夫人は日向牧師と共に、温かく迎え入れてくれた。
集会で使うと言っていた一階のリビングは、必要以外の家具しかないせいか余計に広く感じた。リビングは温かく、静かな音楽が流れ、多蒔の心を落ち着かせるには十分だった。
テーブルにはたくさんの料理が並べられており、おいしそうな匂いがこちらまで届いてくる。
日向牧師と日向夫人が隣同士で座り、テーブルを挟んで、日向と多蒔が並んで座った。最初に口を開いたのは日向牧師だった。
「さあ、食べましょう。多蒔さん、食前のお祈りをしますから、手を組んでください」
多蒔は日向に祈りのときの手の組み方を教わった。
「目を閉じて、頭をさげて」
そう言って実際にしてみせた日向を真似し、多蒔も手を組んだまま目を閉じ、小さく頭をさげた。すると、すぐに日向牧師の祈りが始まった。
「恵み深い天のお父様、今日、この場に奥野多蒔さんをお迎えして食事をとることができることを感謝いたします」
日向牧師の心地よい声が多蒔の耳に流れてくる。
「どうか主よ、多蒔さんの心の中に入り、あなたの溢れるばかりの愛をお示しください。多蒔さんを守り、豊かな祝福をお与えください。この食事を感謝して、いただきます」
「アーメン」と、日向と日向夫人も一緒になって言った。
手を組んだ多蒔の手に、そっと誰かの手が置かれたのを感じた。
「奥野さん、目を開けていいよ」
言われたとおり、顔を上げて見ると、向かいに座っている日向牧師と日向夫人の温かい笑顔と目が合った。どうやら祈りは終わったらしい。
「ではいただきましょう」
日向牧師の言葉で、皆食事を取り始めた。それまで多蒔の手に触れていた手が離れた。それが日向の手だったとわかって、多蒔はいまさらながらどきりとしたが、彼は何事もなかったように夕飯を食べ始めている。
「多蒔ちゃん、どうぞ、食べて」
日向夫人に声をかけられ、多蒔も一歩遅れて食事に手を伸ばした。
多蒔にとって、それは久しぶりに食べる手料理だった。母は滅多に料理を作らないし、多蒔も忙しいときはインスタントで済ませてしまうことが多い。夕方からのアルバイトが入ると、夕飯はとらないなんてこともざらだ。
日向夫人は確かに料理上手だった。煮物はしっかり味がついて中まで火が通っており、きのこと山菜のご飯はスーパーの売り物以上に美味しい。日向夫人に勧められて、大根おろしとゆずをかけた焼き魚も、多蒔はぺろりと食べてしまった。
デザートには、多蒔が持ってきた洋菓子が並んだ。日向夫人はどうやら苺のババロアを作ってくれていたらしいが、それはお土産にと多蒔に手渡してくれた。
日向家の食事は、話しが尽きず、そして笑顔が絶えなかった。食事というものが、これほど楽しくて心が休まるひと時だったことを、多蒔はすっかり忘れていた。
そして何より多蒔の心を温かくしたのは、日向夫妻の仲の良さだった。お互いに向ける眼差しが愛情に満ちていて、お互いをとても大事にしているのがわかる。夫婦というのは素敵な関係なのだと、多蒔は初めて教わった。
あっという間に時間が過ぎてしまい、そろそろ出ないとバスの最終便に乗り遅れる時刻になってしまった。
「本当にありがとうございました」
たくさんのお土産を貰った多蒔は、日向夫妻に深くお礼をした。
「またいらっしゃい。いつでも歓迎しますよ。多蒔さんのお母さんにもどうぞよろしくお伝えください」
二人に見送られ、多蒔はバス停まで送ると言う日向と一緒に、外に出た。時刻も遅いせいか、通りはほとんど人がいない。
家を出たばかりなのに、多蒔は日向夫妻にまた会いたいなと思った。
日向牧師は温かくて話しが尽きないし、日向夫人は優しくて可愛らしい人だった。多蒔はふと、母の言っていた日向牧師の高校時代の恋人のことを思い出した。
「日向くんのお父さんとお母さんはいつから付き合ってたの?」
「高校入ってからすぐだって聞いたことがある。小学校と中学校も同じ学校だったんだって」
それじゃあ、母の言っていた優しくて可愛らしい日向の父親の彼女は、日向夫人のことだったのだ。母が告白できなかったと言っていたのも、今ならわかる。あれほどお似合いの夫婦は見たことがない。
バス停に近づくと、多蒔は日向にもお礼を言った。
「今日はありがとう。とても楽しかったよ」
「また来てよ」
その言葉に、多蒔は嬉しくなった。
日向牧師だけではなく、今日は日向にも、自分の抑えていた感情を吐き出し、隠していた過去を明かし、泣き続けた。愛想を尽かしてもいいのではないかと思うが、日向はいっさいそういった感情を見せない。
冷静になった多蒔は、礼拝堂でのことを思い出し、いまさらながら日向がいる前で吐露してしまったことが恥ずかしくなってきた。
「俺、正直安心した」
「え?」
「だって、奥野さんって何を聞いても大丈夫、平気だって答えるからさ」
そうだっただろうかと多蒔は首をかしげた。それを見て、日向は苦笑する。
「ほら、そうやって、奥野さんは頑張りすぎて無理をしてるのに、自覚してないだろ。このままいったら、いつか奥野さんが壊れてしまうんじゃないかと、心配してた」
多蒔は驚いた。日向がそんな風に心配してくれているなんて思ってもみなかった。
「だから、今日父親に会って、俺達に溜めてた思いや感情を吐き出してくれて、ほっとした」
日向の笑顔に、多蒔もつい笑みを返した。そういえば、何だか心が軽くなったような気がする。
最終バスが近づいてくるのを見ると、多蒔は名残惜しくなった。教会でのことや、日向の家で過ごした短い時間が、まるで夢のように思えてくる。
「また、行くね」
日向が返してくれた笑顔は、とても明るかった。
母の機嫌は相変わらず良くなることはなく、多蒔も母に日向牧師に会ったことは隠していた。
多蒔は母が寝入ったときだけ、日向牧師からもらった聖書を開いて読んだ。けれども、なかなか頭に入ってこない。日向牧師から色々聖書の言葉を聞いた時の、よく理解できなかった状況と全く同じ状態だった。
とりあえず、自分の名前の由来になった聖句を探そうとしたが、思った以上に量が多く、見つけることができなかった。
すっかりクラスで人気者となった日向とは、なかなか話すタイミングがつかめず、あれ以来、まともな会話ができていない。
内心溜息をつきながらも、アルバイト先へ向かうバスの中で、多蒔はつい、うたた寝してしまった。
「……奥野さん」
ぽんと軽く手を叩かれ、多蒔は眠りから引き戻された。頬に何か布の感触がする。これは、制服? 誰か隣にいる?
多蒔ははっとして目を開けた。自分が誰かの肩に寄りかかって寝ていたことに気づき、慌てて体を起こした。
「次で降りるよ」
隣に座っていたのは日向だった。多蒔の顔がかあっと熱くなった。
「あの、ごめん、寄りかかって」
一体、いつからいたのだろう。私はいつから日向くんの肩に頭を預けていたのだろう……。
「起こすのは忍びなかったけれど、奥野さん、バイトに出たいだろうからさ」
その通りだ。日向に起こしてくれなければ、寝過ごしていた。
「起こしてくれて、ありがとう。あの、私いつから……」
「バスが学校の前を出発してすぐ、俺が隣に座ったときは寝てた。――降りよう」
教会に行ったのはまだ先週の出来事だが、日向とこうして歩くのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。ようやくできた日向と話せる機会を無駄にしたくないと、多蒔は聖句の箇所について尋ねた。
「日向くんが教えてくれた、私の名前の由来の聖句って、聖書のどこにあるの?」
「第二コリントの手紙の九章六節」
日向は即答した。多蒔は懸命に頭に叩き込んだ。家に帰ったら、早速調べてみよう。
「奥野さん、聖書を読んでるの?」
「うん、空いた時間に、少しずつ。でも、私こんなだから正直頭に入ってこなくて……」
呆れられるだろうかと多蒔は心配したが、日向はまったくそんな様子を見せず、それどころかアドバイスをくれた。
「ヨハネの福音書から読むといいって聞いたことがあるよ。それと、これは俺の方法だけど、神様にお祈りするといいよ。聖書の御言葉を悟らせてくださいって。俺もわからないときは、そうやってお祈りしてる」
「日向くんでも聖書の言葉がわからなかったりするの?」
何だか意外だ。父親が牧師で、教会のすぐ隣で生活している彼なら、聖書なんて読まなくても理解できるのだと思っていた。
日向はじっと多蒔の表情を読んでいる。
「毎日聖書を読んでいても、俺だってわからないことがあるし、日々新しい発見の連続だよ」
そうだったんだ……。クリスチャンでも、日々勉強するんだ……。
日向はそんな多蒔の思いも読んだように答えた。
「クリスチャンになったからといって、すべてが順風満帆には行かないんだ。聖書にもそう書いてある。けれども、神様を信じたクリスチャンには天国に入る約束が与えられる」
天国への約束。多蒔はそれが誰にでも与えられるわけではないということに戸惑った。
人は死んだら誰でも天国へ入れると思っていた。だって、亡くなった人を思い出した時、あの人は地獄へ行ってしまったなんて考えは不吉だし、亡くなった人に対して無礼だと思うから。
「日向くんは天国と、地獄もあるって信じてるの?」
「もちろん」
確信に満ちた答えが返ってきた。
日向とアルバイト先の前で別れても、多蒔は日向の言った言葉について考えていた。
日向は神様を信じた人は天国に入れると言った。では、神様を信じなかった人はどうなるのだろう。地獄が待っているということなのだろうか。
アルバイトが終わり、多蒔は缶ビールを買うのを忘れずに、それでも急いで家に帰った。早く聖書を開いて、日向が教えてくれた箇所を、この目で確かめたかった。
「ん」
仏頂面で突き出してきた母の手に、缶ビールを乗っけると、多蒔は母がテレビを観始めたのを確認し、聖書を開いた。
コリント、コリント……あった。あれ、ⅠとⅡがある。えっと、確か日向が言っていたのは、そうだ「第二」と言っていた。第二コリントの九章六節だ。
日向の言ったとおり、多蒔の名前の由来になった聖句があった。見なくても、もう覚えていたが、多蒔はもう一度、声に出さずに読んだ。
『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。』
聖書の言葉はまだ続いている。多蒔は先を読んでみることにした。
『ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。』
愛……日向牧師は何度もこの言葉を口にしていた。
『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。』
「多蒔、何読んでるの?」
多蒔は飛び上がった。いつの間にか母がテレビから離れ、多蒔を見下ろしている。ビールをぐいっと飲むと、多蒔がとっさに閉じて脇に置いた聖書を、うさんくさそうに見た。
「それ、何?」
多蒔が答えるのを待たず、母は聖書をさっと取り上げた。そして、表紙に書かれている「聖書」という文字を見て、母が固まった。
「……これ、なんで、持ってるの?」
日向牧師から貰ったなんて言ったら、黙って会って勝手な行動をしたと烈火のごとく叱られるような気がした。
「知り合いから、貰ったの」
多蒔は一瞬、母が破り捨てるのではないかと思った。
しかし、母は眉間に皺をよせて、乱雑に多蒔に聖書を放り投げた。
「私がいるところでは読まないで、いい? わかった?」
「はい」
多蒔は聖書が破られなかったことにほっとしながら、うなずいた。
母がお風呂に入ったのを見届けてから、多蒔は急いで聖書を広げた。母がお風呂から出たらタイムアウトだ。多蒔は、日向に勧められた箇所、ヨハネの福音書から読んでみることにした。
読んではみたものの、一番最初の『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』で、早くも混乱した。
そういえば、日向は聖書の言葉がわからないときは、神様にお祈りすると言っていた。多蒔は母が風呂からまだあがらなそうなのを確認し、日向家の食前の祈りの時を思い出しながら、手を組んだ。そして、目を閉じる。頭も垂れた。
「神様……」
自分の声がやけに響いて聞こえた。
「どうか、私に聖書の言葉の意味を教えてください」
しんとした部屋に、母のシャワーを浴びる音が聞こえた。
多蒔はゆっくりと目を開けた。何も変わっていない。聖書を開いてもう一度読んでみたものの、やっぱり混乱してしまい、理解力がついたとは思えなかった。
それでも多蒔は、母が風呂から出るギリギリまで、聖書を読み続けた。そして、母がいる時は、こっそりと聖書を自分の鞄にしまって隠した。
その日、それは突然やって来た。
多蒔が清掃のアルバイトをしていると、多蒔宛てに病院から電話が来ている、と呼ばれた。多蒔は母がまた何かしたのだろうかと思い、電話に出た。
それが多蒔の母へのお別れに近づく、第一歩だった。
アルバイトを早退し、母が入院している病院へ駆けつけると、医師からは母の余命はあと一週間だと告げられた。最初は信じられなかった。
けれども、母がくすんだ顔をして、チューブや機械に囲まれているのを見て、多蒔は足が震えた。母が死んでしまう。しかも、もう一週間後には、いないというのだ。
多蒔は医者に尋ねた。どうにか治してもらえないですか、と。母との思い出は、辛いものばかりだったが、それでも多蒔にとってはたった一人しかいない家族だ。母を亡くしたら、多蒔は本当に独りぼっちになってしまう。
けれども、医者の答えは同じだった。どうしようもない、手遅れだと。原因は母のアルコール漬けの生活だった。
母の病気のことを告げる前、医者は多蒔がたった一人なのに目を見張った。「他にご家族の方は?」そう尋ねられて「いません」と答えた時、不安と戸惑いに押しつぶされそうだった。そして、母の余命一週間の宣告は多蒔を打ちのめした。
こんな時、父親がそばにいてくれたら……。多蒔は初めてそう思った。悲しみと苦しみを分かってくれる父がいたら、どんなに心強かっただろう。
今の多蒔には、この状況をたった一人で乗り切れる気がしなかった。このままでは、一週間後には自分の身も危ういかもしれない。
多蒔の脳裏に、ふと日向牧師の顔が浮かんだ。彼は父親ではない。けれども、多蒔にとって父親のような温かくて優しい存在だ。
多蒔はすがりつくように携帯を取った。そして、初めて日向の番号を押した……。
「奥野さん」
日向はすぐに駆けつけてくれた。多蒔の泣きながらの電話越しの話は聞き取りづらかっただろうに、日向はちゃんと父親の日向牧師も連れてきてくれた。
「多蒔さん、よく頑張りましたね」
日向牧師の温かい手がそっと頭に置かれ、多蒔はのしかかっていた不安や悲しみが和らいだ。
「母に会ってあげてくれませんか」
日向牧師は多蒔に向かって安心させるように微笑んだ。
「もちろんですよ」
日向牧師は母のベッドのかたわらに立った。そして、穏やかな眼差しで、寝ている母を見た。
「二十年ぶりぐらいでしょうかね。お久しぶりです、日向多蒔です」
その時だった。それまでずっと眠り続けていた母のまぶたがぴくりと動いた。多蒔は息を呑んだ。多蒔のすぐ隣に立っている日向も、じっと黙ったまま見守っている。
母の目はくすんでいて、こちらのことが見えているのか最初わからなかったが、だんだんとその表情に驚きが浮かんできた。
「日向、多蒔くん……」
声はかすれて弱々しかったが、母は初恋の人の名前を呼んだ。日向牧師は笑顔で答えた。
「お久しぶりです、奥野さん」
「どう、して? ここに?」
母は夢でも見ていると思っているに違いない。ベッドから起き上がろうとしているのがわかったが、体が動かないのだろう、疲れたため息をもらした。その息すら小さくて、耳を済ませていないと聞こえないほどだ。
「あなたの娘の多蒔さんに呼ばれて来たのですよ」
「多……蒔」
ほとんど上の空のように呟いた。日向牧師は、母の耳元の近くまで椅子を持ってきてそこに座り、本を開いた。聖書に違いない。
「聖句を読みましょう。ヨハネの福音書、三章十六節。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』」
この聖句は覚えている。前に教会に行ったとき、多蒔に読んで聞かせてくれた聖句だ。「奥野さん、貴女は神様に愛されるために生まれてきたのですよ」
母はずっと驚いた様子で日向牧師を見つめ続けている。まだ夢なのだと思っているのだろう。
すると日向牧師は母の手を、しっかりと握った。母の表情には、さらなる驚きが浮かんでいる。
「この世界を造られた神様の一人子、イエス・キリストは奥野さんの罪のため、また私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日後に蘇りました。このことを信じますか?」
母は日向牧師を凝視し続けている。
もしかして、日向牧師の言ったことは聞こえなかったのだろうか、と多蒔が心配になり始めた時だった。
「信じ、ます……」
微かだが、確かに母はそう言った。
多蒔は衝撃を受けた。母が素直に聞き入れた。初恋の人の言ったことだったから信じたのだろうか。
けれども、母の顔色を見たとき、母が心からイエス・キリストを受け入れたのだと知った。母のくすんでいた顔は、まるで太陽を浴びたように明るい色を取り戻し、固かった表情には小さな微笑みが浮かんでいる。
一瞬にしてがらりと表情が変わった母に、多蒔は驚いた。
そして、その時、多蒔にも不思議なことが起こった。
まるで光り輝く空に来たかのように、辺りが明るい白で覆われた。病室も、母も日向牧師も日向の姿もなくなり、ただただ真っ白い世界に放り込まれていた。そして心に、今まで感じたことのない温かくて優しい感情が流れてくるのを感じた。
これが、神様の愛……。説明されなくとも、多蒔にはそうだとわかった。なんて美しいのだろう。なんて温かくて優しいのだろう。
その時、聖句の言葉が多蒔の耳にはっきりと聞こえてきた。まるで雷が近くで鳴っているような声だ。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
聖書を聞いてもわからなかった時の困惑や混乱が嘘のように消え、今はっきりとその意味がわかった。そしてそれと同時に、イエス・キリストの死と復活、そして神様の大きな愛を受け入れていた。
視界が戻り、静かな病室が見えたとき、日向の心配そうな視線とぶつかった。きっと自分の名前を呼んでいたのだろう。日向の端整な顔が間近にあり、日向の手が肩に置かれている。
「奥野さん?」
「日向くん」
名前を呟くと、日向はほっとした表情を見せた。
「お母さんが呼んでるよ」
慌ててベッドに近づくと、母のくすんだ目と視線がぶつかった。
「多蒔……」
母の目からは涙が流れていた。
「ごめん、なさい……」
かすれた声で謝る母に、多蒔は胸がつまった。母は必死に話をしようとしている。
「私が、子どもを、育てるのは、無理って……わかってた、でも……生まれてきた、あなたが、とても……可愛くて」
母は嗚咽をもらしながら泣いた。
「多蒔、ゆる、して……」
多蒔は母の涙をそっとぬぐった。赦すもなにも、多蒔にとって母はたった一人の母で、たった一人の大切な家族だ。
「お母さん、今まで育ててくれてありがとう」
母の表情がほうっと緩んだ。
一週間後、母は息を引きとった。そして母の葬式は、日向牧師の教会で行なわれた。
たくさんの花に囲まれ、美しい賛美歌に包まれ、母の天国への旅立ちをお祝いする、温かい雰囲気の葬式だった。天国の母もきっと喜んでくれているだろう。
母の遺骨を教会の納骨堂に収めた日、多蒔は一人、教会の庭の芝生を歩いていた。
父親がわからず、母の親戚とは絶縁状況にあるため、多蒔には頼れる身寄りがいない。これからはもう、一人で生きていかなければいけない。
そのために、高校を中退しなければいけないだろう。そして、職を探さなければいけない。けれども、多蒔に不安はなかった。
多蒔は教会の屋根の上に光る、金の十字架を見上げた。
私には神様がいる。私を愛してくれる創造主が、ずっとそばについていてくれる。
「何かあった?」
振り向くと、日向がそばにいた。多蒔はその時、自分が微笑んでいたことに気づいた。
「何でもない」
多蒔はそう答えてみたものの、日向にはお見通しなんだろうなと思った。
母の余命宣告を受けたあの日から母が亡くなるまで、日向は毎日病室にお見舞いに来てくれた。学校を休んでいる多蒔に代わって、授業内容を教えてくれたり、学校の出来事を伝えてくれたことを思い出す。
日向がいなければ、多蒔は母の死を乗り越えることはできなかったと思う。
けれどもこれからはもう日向に頼っていてはいけない。もしかしたら、今後はこんな風に会ったり、話したりすることもないかもしれないのだから。
「日向くん、今まで本当にどうもありがとう」
多蒔は日向も笑みを見せてくれるのだと思っていた。ところが、日向の端整な顔は張り詰めていた。
「まるで一生のお別れみたいに言うな」
多蒔はどきっとした。まるで多蒔の考えを知っているかのようだ。
「その様子じゃ、高校をやめて、仕事を探そう、そして俺とも、もう会わないかもしれない、って考えてただろ」
まったくその通りだった。そして、日向は、多蒔の勘違いでなければ、怒っていた。多蒔は彼が感情を抑えられないでいるのは初めて見た。
日向は気持ちを落ち着かせるかのように溜息をついたあと、じっと多蒔を見つめた。
「父親と母親が、奥野さんを養子にしようと考えてる」
多蒔は驚愕に目を見開いた。
「本当に?」
「ああ。奥野さんが良ければ、二人はすぐにでも手続きを取るよ」
多蒔は心から喜びが湧いてきた。日向牧師が父親に、そして日向夫人が母親になってくれるなんて――、これ以上ない、最高のプレゼントだ。多蒔は胸が熱くなった。
多蒔の表情をじっと観察していた日向は、ようやくほっとした表情を見せた。
そんな日向に、多蒔ははたと気がついた。
私が日向夫妻の養子になったら、日向とは兄弟になる……。まさか、クラスメイトの日向と兄弟になるなんて、考えたこともなかった。
「日向くんは、いいの?」
お荷物にならないだろうか? 嫌じゃないだろうか?
そんな多蒔の心配を吹き飛ばすように、日向は明るく笑った。
「まさか。奥野さんは本当に俺の気持ちに気づかないよな」
少しすねているように聞こえる。多蒔も真似して口を尖らせた。
「日向くんは私の気持ちをすぐ読んじゃうけど」
「読めないことだってあるよ。例えば、奥野さんは俺のことどう思っているんだろう、とか」
日向くんのことを? 私がどう思っているか? ――感謝しているし、尊敬の念すら抱いている。
多蒔が口に出して答える前に、日向がはっきりと告げた。
「俺は奥野さんと兄弟になるよりも、もっと近い関係になりたいってこと」
それって、まさか、告白……?
日向の真剣で熱い眼差しとぶつかり、多蒔の顔がみるみる赤くなっていく。
そんな多蒔の表情を、やはり日向はじっと見つめてくる。それから日向は、多蒔に優しい笑みを向けた。
「ゆっくりでいいから、考えてみてよ。俺は、待ってる」
多蒔は真っ赤になったままの顔で、こくりとうなずいた。
自分が生まれた意味を知るまで七年かかってしまった。けれども、このことは、きっと、そう遠くないうちに答えが出てくるだろう。
日向が明るい笑顔になってくれる答えが、きっと……。