(上)
上下巻からなる短編小説です。
これと併せて「中立国家の私」もお願いいたします。
今日の仕事も終わり、一杯引っ掛けて帰りたい気分だった。
しかし、会社に残っていたのは数名だけでその中でも仲の良い同僚は一人しかいなかったので、迷わずにその仲の良い同僚の北野に声をかけた。
「どうだ? 仕事も終わったし、居酒屋にでもいかないか」
「おー、いいな。でも、悪いけど今日は結婚記念日なんだよ」と言って身支度を手早くしている。
「おお、そうか。三周年目だったか?」
「四年目だよ。たのむよ、それくらいは憶えといてくれよ結婚式にも招待したんだから。じゃ、お先お疲れ」そういってにこやかにそそくさと帰ってしまった。
北野の嫁さんはポッチャリとしていて中々愛嬌のある人だ。結婚式の時を除くと、ニ三回しか顔を合わせた事が無いので記憶はあやふやだがそんな印象だ。最近はもっぱら子供が欲しい、欲しいと言っている。
癖で顎に蓄えた無精ひげを触る。今年で二十代後半に差し掛かる。最近では体に締りがなくなってきて困っている。数年前まではこんなことでは疲れなかったことでも疲れてしまったりすると、時の流れを感じずにはいられない。
今日は居酒屋を諦めて帰ろうと思い、自分のデスクに行き身支度をしていると河本部長が俺のデスクに来た。
「どうだい吉田君。私と一緒に居酒屋にでも行かないかい?」
「え? 僕とですか」
「どうやら北野君に振られてしまった様だしね」と人懐っこく笑った。
「あれ? お話し聞かれてましたか? 部長さえ良かったら一緒に行きましょう」
「よし、じゃあ決まりだな。行こうか」
河本部長はすごく感じの良い部長で、平社員からもめっぽう評判の良い部長だ。年齢はなかなか良い年で、四十そこいらだった筈だ。指に指輪がはまっていないところを見ると独身なのだろう。
会社の前でタクシーを拾い、駅前の繁華街まで行く。
駅のそばの四階建てのビルの二階にある居酒屋に入る。ライトで照らされた薄暗い店内には、スーツを着たサラリーマンが多かった。
「とりあえず、生中二丁ね」席に着くなり真っ先に頼む。大学生時代に居酒屋でバイトしていた頃には、こんなことを言うサラリーマンを「おやじくさい」と思っていたが、こんなにも早くそれに届くとは思いもしなかった。
「部長なに食べますか?」
二つのメニューの内の一つを渡すが「いや、私は良いよ。吉田君が適当に頼んでくれ」と、つっかえされてしまった。
「あれ? あんまりお腹お空きじゃないですか?」
差し出したメニューを引っ込めて自分の目の前に広げる。
「うん。今日はちょっとね」
生中を定員が持って来た時に適当に料理を注文して、とりあえず生中で乾杯する。バイトの先輩に誘われて飲んでいた高校時代は、ビールのなにが旨いのか理解ができず、カクテルばかり飲んでいた。しかし、今では逆にカクテルなんて甘過ぎて飲めたものではない。
「今日は、北野君はなにかあったのかい」グイと一気に半分まで減らしたジョッキを机に置いて言った。
「なんか、結婚記念日とかで。あれ? そういえば、部長は出席なさらなかったんですよね」
「ちょっと用事があってね」ジョッキを持ち上げ、ビールを一口煽る。
「へー。部長は結婚してないんですか?」
「ああ、この通りね」と言って机に着いていた手をあげてひらひらと振った。「この先にする予定もない」と付け加えた
そして、またビールを一口煽る。なにか忌まわしいものを打ち消すように。
「ちょっとかっこよく言うと独身貴族ってやつですか」とちょっとふざけた感じで言うと「そんな大層なもんじゃないよ」と鼻で笑い「君は彼女とか居ないのかい?」と言葉を繋いだ。
「全くですね」と皮肉んで笑った。
そこから少しの空白が訪れ、部長が一口にジョッキの中身を空にして部長が口を開いた。
「ちょっと昔話をしてもいいかな?」
「え? なんですか急に」
「ちょいと苦々しい若い頃の恋の話だよ」唇の端をクイとあげて微笑んだ。
その時、二十代そこいらの定員がちょうど料理を運んで来た。部長のジョッキは空で、俺のジョッキも空に近かったので生中を追加で二丁頼んだのだが、「私は赤ワインを頂くよ」と部長は言った。
「部長。なかなか渋いですね」
「渋い・・か」と言ってお通しの枝豆を一つ手に取る。「私が、丁度いま料理を運んできた定員さん位の年頃のころの話なんだがね」と、話し出した。
「ええ」
部長の若い頃と言うと、一九八〇年半ば位だろう。日本はバブルが訪れた時期で、日本は今とは違い、色めき立っていた。その頃大学生だった河本部長も、他の大学生も夢と希望み満ち溢れていた。
今でさえ耳に馴染んでいる言葉だが、その頃「合コン」と言う言葉の知名度は昇り調子にあったがまだまだ知名度は薄い時代であり、部長がその女性に出会ったのも「合コン」なんて物ではなくただの男女の集まりであった。
ある夜に高校時代の友人が「一緒に酒でも飲まないか?」と電話が入った。夜もなかなか良い時間で電車もいましがた終電が出発した時刻だった。なので、メンバーによっては断るつもりで「誰といるんだよ」と尋ねると、どうやら大学の女生徒達と一緒だったらしい。
その頃は「ホットドッグプレス」という雑誌に掲載されているデートマニュアルを読み、若い男女はシティーホテルで性行為に勤しんでいる時代であった。当然部長も男であるので、弱い強いは抜きに欲求はあった。なので、そんなおいしい話を盛りの付いた大学生が見逃す筈も無く、隣町までの片道ニ、三十分の道のりを自転車で大急ぎで友人宅に向かったらしい。
その友人の家は両親が離婚してしまっていて、父親にも母親にも愛人が居たのでどちらにも付く気はなかった。その旨を父親に話すと部屋を一つ借りてくれたらしい。そんなわけで高校時代は集まっては徹夜で麻雀を良くやったらしい。
そして、その友人の家に居た数人に女生徒の内の一人に一目惚れをしてしまったらしい。その頃には携帯電話はもちろんポケットベルさえも無かった。なので、今みたいに「出会い」から「交際」への発展は容易ではなかった。かなりの度胸と自信のある男はその場で家の電話番号を交換したりもするのだが、部長はそこまで肝の据わった人間ではなかった。しかし、さり気なくと言うか抜け目無くというか、しっかり隣の席は確保したらしい。
結局、その夜には何の発展もなく終わってしまったのだが、その数ヶ月後に再びチャンスが訪れた。いや、正確には作ったと言う表現が正しいだろう。
悩んだ末、その友人にあの時の子に惚れたことを告げると「そんじゃ、また誘って飲もうぜ」と言ってくれた。その友人は高校時代から決断から行動がすごく早く、電話をした週の土曜日には開いてくれた。
その友人の話しでは彼女も部長のことを気に入っていたらしい。そして、その夜の帰り道に勇気を振り絞って連絡先を教えてもらえた。




