9.祝いの夜・中編
van, jyaasolar.(祝いの夜・中編)
祝宴といえば、ある程度の資産を持つ商人ならばたいていは邸宅のほぼ中央に設えられた中庭で行うのが世間の通例であった。
もちろんベッケンナー邸にも例外なく広い中庭がある。そこは象牙色の柱廊と色彩豊かな花々に囲まれた大変優美な空間で、頭領の趣味が起因してか思索に耽るには少々派手すぎるが、気分転換がてら散策するにはうってつけの場所だ。
しかしながらこの時期は風が冷たい。
招待客を長い間外気に晒してはならないという何とも明快な理由で、会場は急きょ広間となった。奥に舞台を備えた、普段は音楽会や演劇を楽しむためのものである。親友を二階へ案内しながら、ロイスは近づくにつれて確実にざわめきを増す話し声に頬を引きつらせた。そして何となく予想していたとおり、ざっと五十人はいるであろう場内を見回すや、「変更して良かった」と力強く思った。
――これのどこが『僅かな規模』だ、と。
「さすが、同盟指折りの商会は土地も広けりゃ部屋もでかいな。おまけに天井も高い。うちの応接間が縦に収まるぜ」
「世辞はいいから、早くその口元を締めろ。緩みきってるぞ」
今すぐ父を問い詰めたい気分だったが、冷静になってみれば納得できる部分の方が多かった。そもそもが派手物好きの父である。自分とは美的感覚が異なるのだ、『僅か』の基準が違っていても不思議ではない。
本部及び近隣の支部に身を置く商長、旅商に同行した団員と船乗り、得意先の代表とその同伴者たち。めいめい鮮やかに着飾って談笑するさまは、なるほど広間のきらびやかさとよく合っていた。半年前、同じ場所で催された流行の芝居を観たときには、舞台のすぐ上でぎらつく水晶のシャンデリアが嫌に目障りだったのに。
「じゃあな、オレは隅の方で大人しくしてるよ」
シルヴァノは一歩退き、招待客が主催の下へ集まり出す前にと手短な挨拶を済ませた。
「いいかロイ。主役だからって変に肩肘張る必要なんてないんだからな。適当に流してりゃ自然と時間が過ぎるもんさ」
「ああ、分かってる。そう言うお前こそ、遊ぶつもりなら程々にしておけよ」
「うん? 何のことだ?」
ロイスが皮肉混じりの笑みを投げると、それに応えるように相手もニヤリと笑う。そして広間をうろついていた給仕の手から葡萄酒を受け取るなり、壁際に所在なさげに佇んでいる麗人の方へ歩いて行ってしまった。
確かに、大っぴらに事をしでかす気はないらしい。しかし『街いちばんの色男』に関わる浮名を自ら流すことには、むしろわざとなのか、全く問題ないようだ。
(……やっぱり相変わらずだ)
本日二度目の、ため息に似た小声をそっと漏らしたときだった。
「坊ちゃん」
次から次へと労いの言葉を掛ける先輩商長たちや、慶事への感謝を述べる得意先らの後ろから、堂々とした存在感とともにマラノが現れる。周囲よりも頭が一つ分飛び出ている背丈もさながら、鍛え上げられた浅黒い体躯には華やかな盛装が恐ろしいほど似合っていなかった。
「お待ちしておりやした。そんじゃ、おれは頭領をお呼びして参りやす」
「あ、ああ。頼んだ」
袖にあしらったフリルは言わずもがな、首元のクラヴァットなどまるで野獣に被せた猿ぐつわだ。目にした皆が引きつった表情を貼りつける中、親しい間柄にある商長らは笑いを堪えてか急に口を閉ざし、ロイスもまた動揺を隠し切れないまま応えるのが精一杯だった。当の本人は気にも留めていない。
何を隠そう、彼の衣装はお針子女中の責任者を務める愛娘が丹精込めて拵えた、数年前の贈り物なのだ。サイズが合わずボタンがはち切れそうになっても着続ける父親の姿を、滑稽には思いこそすれ誰が後ろ指を差すであろうか。
出入り口へ向かうマラノが、ロイスのすぐ脇を通り過ぎたと同時に「準備は整っておりますんで」といつもの調子で言い放つ。表向きは宴の用意ができたと報告したに過ぎない。周りの人間たちにもそう聞こえただろう。しかし青年には、彼の真意がしっかり伝わっていた。
手筈は整った。広間にいる大多数の者がマラノによって、パコットによって、あるいは又聞きによって『それ』を耳にしている。
「ありがとう。マラノ」
大男の長靴が床を踏みしめる音を背に、ロイスは些か挑むような心持ちで再び周囲を見回した。彼らは皆、礼式の挨拶と世辞を並べる裏で自分の語る話を心底聞きたがっているように思える。期待に満ちた瞳は爛々と輝き、『それ』を目にした団員ですら半信半疑といった表情でこちらを伺っている。まるでこの空間すべてを掌握したかのような優越感を味わいながらも、主催者たる若者はおくびにも出さず至極平静を装った。
「さあ皆さん。頭領がお着きになるまで、今しばらくの歓談といたしましょう」
給仕を呼びつけ葡萄酒を手に取る。右手でつまんだそれを目の高さまで持ち上げると、シャンデリアの明かりがグラスに反射し、若者の褐色の瞳が冷たく光った。
*
午後七時半。闇が弓弦の月を引き連れて重いとばりを下ろした頃、レシタ区大通りに面したある食堂は一時の賑わいを見せる。
途絶えることのない金属音、漁夫たちの歌声、打ち鳴らされる手拍子。夜空に浮かぶ星々は、響く船歌に身を乗り出すようにしてきらきらと瞬いている。
デルバルゾ・マレーアの夜がこうして更けていく中、大通りを一本逸れた先のレンガ塀に囲まれた屋敷では、小さな祝いの儀が粛々と行われようとしていた。
「――今日も我々は大いに働いた。海洋神の加護の下、伝統ある同盟の『自由と責任』の教えを胸に、我々は納得ゆくまで働き、一日を終えた。わたしは自分の成し遂げた仕事に一つの後悔も持ってはいない。皆もそうであることを祈ろう。そして、今わたしの横におる若者もまた、一つの大きな仕事を終えて帰ってきた」
閉め切られた広間。そこへ一堂に会した五十余人の招待客は、舞台下に立つ二人の男を見据えている。
「ロイス。乾杯の挨拶を」
藍色の布地に金糸を縫い込んだ豪奢な装いを揺らしながら、デイビス・ベッケンナーが傍らの息子へ一瞥を投げて後ろに退いた。ロイスは軽く頷き、譲られた位置へと進み出る。
シャンデリアの降ろす光がやけに眩しい。細かい事象がいちいち気になるのは、自分が緊張しているからだろうか。グラスの首を持つ指先に力を込めながら、微かに目を細めて前方を捉えた。
「皆さん。今宵は急なお知らせにも関わらず、不肖、私のためにご出席くださり本当にありがとうございました」
当たり障りのない、脚本どおりの言葉をよどみなくなぞっていく。今回の宴を開いた経緯と、出立に際し賃金などを出資した先輩商長、得意先らの顔を立てた改めての感謝の意。道中起こった面白おかしい出来事で場を沸かせることも忘れない。そして帰途の船上にて自らが主張した無理難題を簡潔に述べ、過ちとして恥じ、船長を始めとする船乗りたちへ頭を下げる。最後に旅商をともにした仲間へ、心からの労いを示して挨拶はいったん区切りを迎えた。
「さて……もうご承知のことと思いますが、昨夜私どもが帰着しました折、街はさながら祭りの夜のように活気づいておりました。皆さんもご覧になったのではないでしょうか。『3's』を」
待ちかねたような雰囲気が漂う。
「私は甲板にて、その瞬間から最後までをずっと見ておりました。皆さんの中に、私と同じく初めてあれを目にした者はどれほどおりますでしょう。本や絵画を通して知ってはいたが、実物とは程遠い。まるで至高なる神々が直接私に語りかけているようだった。この上なく恐ろしく、だが研ぎ澄まされたように美しい。足がすくむというのはあの場面を表していると言っても過言ではないように思います。文字にも絵にも起こせない、見た者にした分からない感覚。私は生まれて初めて見たあの空を、今後何度目にすることがあろうとも一生涯忘れはしないでしょう。そして、図らずも『3's』の夜に戻り、同じ時間をともにした皆さんを前にご挨拶を賜った私にはどうしても、海洋神を祀る民の責務としてこれだけはお伝えしなければならないように思う」
やや演技めいた言い回しのあと、わざと一呼吸置いて周囲をぐるりと見回す。
「昨夜。私はデルバルゾ・マレーアにご降臨なさった古代人とお会いしました」
案の定、俄かに沸いた複数人のどよめきが瞬く間に広間全体へ広がった。
「やっぱり! ね、ね、そうでしょう皆さん。あたしがお教えしたとおりだったでしょう」
その複数人のうちの一人、パコットが誰よりも素早く大きく喉を震わせたのには(やりすぎだ……)と呆れはしたが、ロイスは期待どおりの手応えを受けて半ば勝ち誇ったように強く口唇を結ぶ。やはり、群衆を信じ込ませるには少し大げさ過ぎるくらいがちょうどいい。
「いや、お会いしたと言うには語弊が伴うかもしれない。乾杯の挨拶としては少々長くなりますが、どうかお聴きいただきたい」
再び静寂に包まれた広間にて、ロイスの演説だけが朗々と響いていた。この場の誰もが、彼の一挙手一投足を逃すまいと全身を耳にして聴き入っている。彼の後ろに佇む、一人を除いては。
あれはマレ・ポルトガに帰着後。屋敷への伝令をマラノに任せたところ彼の帰りが遅く、自らも街へ入ったときのことだ、とロイスは語り始める。マラノは娼婦街の入り口に立っていた。見れば人買いとおぼしき中年男と、これから売られるらしい、あどけない娘がぐったりした様子で男の足元に座り込んでいた。
よくある光景だ。だが話をよく聞くと娘は岸壁に打ち上げられ、記憶を失っているという。これでは自分から金のため身を売ったのか、それとも親が食い扶持を減らすために差し出したのか、そもそも身内がいるのかどうかさえ分からない。契約を交わした商人さえ分からぬ、そんな娘を拾って儲けを働く。ましてや神々が起こした奇跡の日に敢えて商売の掟に反する行為を起こすとはどういう了見か、とマラノは吼えた。
両者が引く気配はない。ロイスはこのままでは埒が明かないと考え、有無を言わせず人買いに言い値の半分を突き与えた。これで手を打て、代わりに娘を商会で働かせる、と双方を納得させ、ひとまず娘をマラノに任せて自分はマレ・ポルトガに戻ることにした。
その途中だった。
街の南東、ウルド湾にそばだつウルディアーナの塔。月光が照らす白亜色をした小さな要塞の頂上に、紛れもない人間が立っていた。
「あなたは古代人なのか」
人影を見つけた途端、背筋を走った寒さに打ち震える。ロイスは神がかり的な何かを感じ、気がつくと塔の袂まで走り出していた。辺りは不気味なほど静かだった。
そうして辿り着いた彼は思いついたそのままの言葉を叫んだ。呼びかけが届き、人影が彼を見下ろす。真夜中にも関わらず、その姿をはっきり捉えることができた。振り返った人間は女性だった。月の光が彼女の背に降り注いでいたのである。
長い黒髪が夜風に散らばり、死に装束にも似た黒衣の肩口を何度も撫でている。肌は絹を当てたような白、口唇は赤く艶やかで、強い意志を秘めた眼差しは見つめられただけで心の奥底まで見透かされそうだ。地上に存在する美は、きっと彼女の前に屈するに違いないと確信するほどであった。
彼女はすぐさまロイスに応えるわけでもなく、ただ超然と地上を俯瞰していた。どれくらいの時間が経っただろう。一瞬だったのかもしれないし、数十分と睨み合っていたのかもしれない。
そこから一歩も動けぬ男へ向けて、とうとう彼女が口を開きかけた。