6.出会い・前編
lea, Whyur ee tu si?(出会い・前編)
ほしかげさやかな夜のうみ
ゆらゆらただよう月のふね
――なんていう歌があったのをふと思い出した。あれは確か、小学校に入学したばかりの頃だ。
毎週火曜日だけは友達の誘いも断って、全速力で家へ帰った。夕方の教育番組。五分間だけ流れる歌の数々が、まだ小さかった私をたまらなく夢中にさせた。クラシックの有名曲や外国の民謡、日本に昔から伝わるどこか懐かしい子守唄。生まれて初めて触れるそれらを教えてくれたのはあの番組だった。
あの子をさがして とおくの空へ
さかなの尾ひれは ほうきぼし
居間に差し込む夕陽とどこか物悲しい映像は、今でもはっきり憶えている。
私はまるであの歌をそのまま体験しているかのような、うっとりした夢心地だった。フカフカのシーツ、フカフカの布団。それでいて肌触り抜群の寝間着に素肌が気持ちいい。横向きから更にギュッと体を縮めると、羽枕からはラベンダーみたいな香草の匂いがする。寝入っているとも、覚醒しているともつかないこのまどろんだ状態が幸せなのだ。
けれどもう時間だろう。今日が平日か休日だったかはちょっと思い出せないけれど、とにかく起床に合わせてセットしていた携帯がそろそろ鳴る頃だ。起きようか、ううんでもまだ本当は眠っていたい。何度か寝返りを繰り返してはうんうんと無意味に唸ってみる。
……いくら待っても携帯のアラームは鳴らなかった。おかしいな、昨夜忘れていたのかもしれない。それとも、今日は学校も部活も休みなんだろうか。
…………あれ? ちょっと待て。確かうちの布団は、お母さんが「そのうち干すからね」とごまかし続けてきたせんべい布団のはずだ。こんなにフカフカなわけがない。それに寝間着だって上下のパジャマを愛用していたし、何よりノーブラってどういうことだ。私は寝るとき着ける派だ。
ここは、どこだ!
勢いに任せて両目をカッと見開いた。
まず視界に大きく飛び込んできたのが自分の手だったことに内心がっかりした。気を取り直し、手をどけて辺りを見回すと、派手な柄の絨毯にすみれ色のベッドが置かれていて、私はそこに寝転がっていた。
今私は知らない部屋にいる。ここまでは分かった。次はどうして私が知らない部屋にいるのかだ。ごそごそと掛け布団から這い出ると、不意にドアが開く音と同時に誰かが息を呑む気配を感じた。
見ると、日本人のハーフかクオーターっぽい顔立ちの女の子が、水差しを乗せたお盆を持って扉口に突っ立っている。どうして私を見てそんなに驚いているのかよく分からないし、ドラマに出てくるような家政婦さんの格好をしているのも不思議だったけど、同じ日本人がいてくれて良かった。この子に訊いてみよう。
「ねえ――」
「Mea!」
は? めあ?
『めあ』って何だろうと考える暇もなく、女の子は熱っぽい瞳を輝かせて、明らかに英語ではない言葉を放ちながら近づいてくる。
怖い。わけが分からないのがすごく怖い。私は上半身だけ起こしていた状態から素早く足を引き抜いて、ベッドの上に正座したままその子へ向かって両手を突っ張った。
「ちょ、ちょっと待って! あっ、ホントに待って。痛い!」
腕に力を込めた途端痛みが走る。着せられていたワンピースの袖から白い包帯が覗いていた。そうだ、はっきり思い出した。私は生徒玄関から真っ逆さまに海へ落ちたんだった。
「とりあえず、待ってください。あなたは、どこの国の人ですか? ここはどこなんですか?」
ってこれ現地語で言えなきゃ全然意味ないじゃん。にしても何語なんだそれは。
「どうしよう。英語でも何とか通じないかなぁ。あのう、私は、日本人です。あなたは? アイムジャパニーズ。マンガ、サムライ、分かる? スーシー、テンプラ、テッカドン!」
女の子はお盆を持ったままポカンと佇んでいた。やっぱり英語も通じないらしい。途方に暮れる私をよそに、彼女はブツブツ呟いて慌ただしく部屋を出て行ってしまった。
取り残された部屋に沈黙が漂う。疑問は深まる一方だった。
一体私の身に何が起きたんだろう。ここはどこで、そして私の制服と鞄はどこに。
……考えていても仕方ない。私はベッドを降りて再び部屋の観察を始めた。
ベッドの他にあるのは何か豪華そうな鏡台、何か上品そうなクローゼット、何か値打ちがありそうな書見机に何か華やかそうなテーブルセット。天井にはどう見ても高そうなシャンデリアが赤々と光っている。一言で表せばホテルのロイヤルスイートみたいな感じだ。
カーテンが引かれた窓辺はあるのに、天井の光と壁隅のランプがなければ、部屋はたちまち真っ暗になってしまう。もしかして今は夜中なんじゃないだろうか。そういえばどこかの岸に打ち上げられていたときも空が暗かったから、時間はそんなに経っていないのかもしれない。
絨毯の短い毛並みを裸足で踏み歩き、カーテンをそっと開けてみる。すると案の定、窓の外に広がる闇に溶けて、眉間にしわを寄せる不機嫌そうな私がぼんやり映っていた。
現実。この二文字が胸に重く圧し掛かった。
そう、新学期を迎えていつも通りの部活をこなしたのも、いきなり落っこちたのも。落ちたついでに変な映像を見せられたのも、怪我したけど運良く助かってここにいるのも、間違いなく現実なのだ。しつこいけれどこれが事実なんだし、いくら納得できなくてもそう思い込むしかない。アニメや漫画なんかでよくあるシーンが頭に浮かんだ。何て言ったらいいのかよく分からないけど、私はいわゆる――
そのとき壁の向こうから何人かの靴音が聴こえた。だんだん部屋に近づいていることを悟った私は、慌ててベッドによじ登る。体勢をくるりと変えてシーツを引き寄せ、枕を背もたれに落ち着いた頃、扉のノックとともに彼らは入室してきた。
最初に現れたのは若い男の人。私よりも少し年上に見える。まるでテレビの世界を飛び出したような、とびきり格好いい外国人俳優以上の顔立ちなのに、残念なことにキツネみたいなつり目と絶対零度の無表情が好感度をマイナス百ポイントくらい押し下げていた。
そのキツネ目に入りしなから思いきり睨まれた私は、背筋を凍らせて視線を横へ逸らす。けれど逸らした先にいた黒い大きな人影と目が合った途端ワッと叫んでしまった。
「海坊主のおじさん!」
忘れたくても忘れられないその佇まい。浅黒い肌と筋肉とスキンヘッドが見るからに恐ろしい、全長二メートル級の格闘家が立っていたのだ。
私の恐怖の叫びと表情を目の当たりにした二人は、最後に扉を閉めたアジア系の女の子と何やら会話を始めた。やっぱり、何を喋っているのかまったく分からない。分からないのが余計不気味だった。
やがて女の子は退室し、二人と私が気まずい空気の中残される。私にとって彼らの第一印象は最悪だ。その上格闘家さんは、海辺で伸びていた私をここへ連れてきた張本人だと思うし、雰囲気からしてそれを指示したのはキツネ目くんなんだろう。大の男が寄ってたかって、いたいけな女子高生をどうしようってんだ。
太腿に置いた両手を強く握りしめ、ベッドの上で縮こまる。極力二人を見ないように顔を強張らせていると、おもむろにキツネ目くんがこちらへ歩み寄ってきてベッドサイドにどっかり腰を下ろした。うわあ、偉そうな態度。
「Mea. Whay nanas tu si?」
「え?」
はい、また『めあ』来ました。だから『めあ』って何なんだってば。しかも言葉尻から察するに、この人は今私に何かを訊ねているような気がする。
どんなにものを訊かれようと、言葉が通じないのだから答えることはできない。戸惑う私にキツネ目くんは眉をひそめて小さく息を吐いた。彼も困っているらしい。床を見つめたまま顎に手をやって考える姿は、すごく様になっているのに。もったいないなぁなどとぼんやり盗み見ていると再びつり目を向けてきたので肩をビクつかせた。
「Ma nanas ee Lois.」
「……」
「Lois. Lois Veckennar.」
ひどく真剣な口調で、自分の胸元を指差しながら同じ単語を繰り返している。そうか。『ろいす』は人の名前だ。『ななす』とは名前のことで、彼は自分をロイスだと名乗っているんだ。
次にロイスは部屋の隅にいる格闘家さんを示して、「Marano」と私に言い聞かせた。名指しされた格闘家さんはニイッと白い歯全開でくしゃくしゃに微笑んでみせる。うんうん、あの人は『まらーの』さんね。意外とノリの良い人なのかもしれないな。
「Tu si?」
右手の指が私へ戻ってくる。今度は大丈夫、言葉は通じなくても言いたいことはきちんと伝わった。
「私は、ミツルです。ミツル・イマイ」
「Mitturr」
「はい。そうです」
深く頷いたら体中に妙な安心感が湧いた。くすぐったさを覚えてはにかむと、それを見たロイスの表情も少しだけ柔らかくなったような気がした。何だ、ちゃんと人間らしい顔もできるんじゃないか。ますます格好良くなったことで急に照れ臭くなった私は、身じろいでそっぽを向いた。
その瞬間、辺りに豪快なお腹の鳴る音が響く。今度こそ恥ずかしさに打ち震えた。安心するとお腹が減るというのは本当らしい。
*
二人分の押し殺した笑い声が落ち着く頃合いを計ったように、ロイスは笑みを噛みしめたまま早口で私に何か言い、次にマラーノさんへ指示を出した。頷きを返して部屋を後にするマラーノさんを見送ると、うなじで束ねた長い金髪を揺らしてロイスが立ち上がる。別に出て行くわけでもなく、私と距離を取るかのようにテーブルへ着いたその意図が、いまいちよく理解できなかった。
十五分くらいだろうか。退屈していたところへマラーノさんが再びやってきた。続いてさっきの女の子が、おいしそうな匂いのするカートを引きずって中央のテーブルに歩いてくる。車を脇につけた彼女は、私に近寄りニコニコ笑いながら背中へ腕を回した。ベッドを降りろ、ということらしい。
みんなきちんとした服を着ているのに、私だけ寝間着姿なのがなぁ……とためらっていると、女の子はそれに気づいたのかクローゼットから大判ストールを出してくれた。これを肩に掛けて胸元へ垂らせばとりあえずは安心、かな。
彼女に連れられてようやく椅子に座る。そんな私の前に据えられたのはごはんだった。焼き目の香ばしそうな小さいパンが二切れと白身魚のソテー、それから湯気立つ黄金色のスープ。
――やばい。あまりに香りが良すぎてマジでやばい。そうだよ、私は部活が終わったばかりでクタクタのペコペコだったんだよ。この魚はバターソテーなのかな、なめらかに光る表面がものすごくおいしそう。こっちのスープはどんな味がするんだろう。ああ、食べたい。今すぐ食べたい。
「Ee zes mag A/ si?」
喉を鳴らすも、遠慮と気恥ずかしさで箸をつけない私に真正面のキツネ目くんが訝るように質問してきた。私と食事をちらちら見ているから、「食べないのか?」と言っているようだ。食べたいよ。食べたいけども。
「どうしよう……」
正直、こんなに良くしてもらっていいんだろうかと思う。グダグダの自己紹介でそれなりに打ち解けたのかもしれないけど、相手は見ず知らずに加えて言葉の壁も山の如しな人たちなのだ。怪我の治療もしてもらい、ホテルのスイート部屋で休ませてもらったことはありがたい。私は彼らに助けてもらったのかもしれない。でも、お腹が空いたからさあ食事をどうぞ、なんてどっかの絵本のお姫さまみたいな展開では、言葉が通じない分「どういう魂胆があるの」と身構えてしまうのはある意味仕方ないんじゃないだろうか。
そんな私を見かねたのか、ロイスは短いため息を吐いてマラーノさんと女の子へ交互に視線を送る。二人が彼の側へ集まり、口々にささやくのを黙って見ていると、ロイスはまたしても女の子へ何か命令していた。さっきの偉そうな態度といい、勝手知ったるこの部屋といい、実はどこぞのお坊ちゃんとか。
彼女は意外と早く戻ってきた。物音に気づいたマラーノさんが扉を開けると、四角いお盆を持った女の子がテーブルまでやってきて、無言のキツネ目くんへコトンと差し出す。パンと魚とスープ。私の前に置かれているものと全く同じだ。
どういうことだろう? 目を見開いて凝視する私をよそに、ロイス以外の二人が簡単な挨拶を彼に交わした(ように感じた)。一人は丁寧なお辞儀をして、もう一人は片手を上げて朗らかに。まるで「どうぞごゆっくり!」とでも言っているかのように、マラーノさんが彼の肩を軽く叩いた最後、彼らはあっさりと部屋を後にしてしまう。
ねえちょっと。
「置いてかないで」
咄嗟の嘆きにしろ、もちろん日本語なんか理解してもらえるわけがない。無情の音が湧き始めていた安心感を見事に砕いた。
寂しい。心細い。もう一度戻って来てはくれないだろうか。空きっ腹を押さえて扉を見つめ続ける私の側で、軽やかな金属音がすると思い顔を向ければ、キツネ目くんが何食わぬ様子でソテーを口に運ぶところと出くわした。
ちょっと……一人で先に食べちゃうなんてひどいんじゃないの。まさか私のために運ばせた料理が思いのほかおいしそうだったから、自分も食べたくなってとかそういうんじゃないでしょうね。しかしいいなぁ、おいしそうだなぁ。でもどんなタイミングで手をつけたらいいか分からなくなっちゃったんだよな。
悶々と考えながら目の前の食事を眺めていると、ふとフォークの動きが止まった。猫背になっていた姿勢を直し、頭を持ち上げる。静かな部屋に甲高いお腹の音が一つ。改めて向かい合った相手は念を押すように低く言った。
「Mag A/」
疑問形ですらない。
「……はい。いただきます」
あれこれ考えてないで早く食べろ。私にはそう聞こえた。