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5.古代人・後編


dos, Sscanta solarr kulr Scar.(古代人・後編)



 人払いに出ていたマラノが扉のノックとともに入室するなり、沈黙の執務室にまずデイビスの第一声が発せられた。


「初めてにしてはよく出来ている。それに売り値と買い値の均衡もなかなか良い」

「ありがとうございます」

「しかしこの石炭の売値だが、言い値がちと高くはないか? よく相手方が付け値を下げずに応じたな」

「それは――」


 言われてふと思い出した。帰途の船上で、自称世話役が冗談のように笑っていた言葉。


「頭領。それは坊ちゃんの交渉の賜物ですぜ」


 野太い声が後ろから掛かった。先程までとはいかないがやや芝居がかった説明を受けたデイビスは、肩を揺らして笑う。


「フッフッ。そうかそうか。親子とはよく言ったものよ。わしの若い頃を思い出すわ」

「自分もです。頭領も相当無茶をなさいましたからな」

「お互いにな。……ところでロイスよ」


 取引先の地方で変わったことはあったかと問われ、青年は迷わずこう答えた。


「塩の値が高騰しておりました」

「塩とな」

「はい」


 その一帯では主に北部山岳同盟で採れる岩塩を輸入している。しかし先年、件の地で落盤事故が起こったため入手が難しくなっているという。


「経路の復旧期間を調べさせましたが、あと数年ほどかかるとのことです。塩は生活に欠かせません。このまま高騰が続けば深刻な塩不足となり、いずれは暴動に発展するでしょう。我々海洋同盟が使う天日塩や海水塩を持ち込んで、交易の拡大を図る良い機会だと私は思います」

「ふむ……。それも一理ある。分かった、次の商長会議にかけられるよう、わしの方でも調べてみよう」


 不意にデイビスが椅子から立ち上がり、執務机の脇を抜けてロイスの方へと歩み寄った。父の影を感じた息子は一歩後ずさって会釈をする。


「遠行日誌も見せてもらった。お前は商長の職務を立派に務めていたようだな。私的な金策をせず節制に努め、運び手や護衛からの評判も良い。最大限の利益を求めるという商人の心も持ち合わせている。親心でなく純粋に、このまま正式に商長へ任命しても十分なほどだ。だが――」


 冷ややかな空気が流れた。畏まっていた青年がサッと顔を上げると、険しいような悲しいような顔をした父親が立っていた。


「お前はまだ目先の利益しか見えていないようだ。真の商人とは、ただ利益を求めて動くだけではいけないのだよ」


 船長の声を無視して靄の中を突っ切らせたそうじゃないか。

 怒るでもなく叱るでもない、ただ平坦とした咎めが若者の耳にわんわんと響いた。


「理由を訊こう」


 どう答えよう。何と答えれば納得してくれるのか。今の彼に、再び父の瞳を覗く気力はない。


「…………靄が深くなってきたときには、船は大海のただ中におりました。数日かけて引き返し、積荷の鮮度を落とすよりも効率的だと判断したからです。それに予定通りの航路を進んでいれば、近くに灯台が見えるはずでした。ニンナヴェル灯台とマレ・ポルトガは目と鼻の先、そこに船がいたのです。ゆえに進むべきだと」

「なるほどな。だが、わしにはどうも頂けん」


 ハッとして視線を持ち上げた息子を待っていたかのようにデイビスは続ける。


「まず、そもそもの間違いを正そう。船上においては船長の意見を覆してはならん。今回はたまたま無事に済んだが、いくら何度となく海を渡ろうとも、商人は船の専門家ではない。天候、風向き、海流、それらを誰よりもよく知るのは船乗りだ。一介の商人風情が出しゃばってはならんということを終生肝に銘じておけ」


 決して広くはない執務室に一人の男の声だけが響いている。


「良いかロイス。常に大局を見て物事を考えなさい」


 確かに積荷は大事だ。だが決断を下したとき、取引で得た利益を上回る損失が出る可能性を考えたか、と問いかけた。問われた若者は答えなかった。

 損失とはすなわち強行中の船に危機が訪れる可能性。座礁し、転覆し、積荷を失う。それどころか人命までも泡に消えかねない。そうなったときの、いやそうなる可能性が大きかったのだということを。そして商会全体が被るかもしれぬ大打撃を考えたのか、と頭領はにじり問うた。

 やはり答えはない。

 デイビスは一度視線を宙へやって長いため息を吐くと、静かに、諭すように言った。


「もしわしがそこに居たなら、船長に同意した上で、どこか近くの集落を見つけ次第そこで靄が晴れるのを待ってはどうかと伺いを立てただろう。しかし、こんなこと今となってはどうでも良い。ロイス、わしが言いたいのはな。商長として、商人として、人間として相手と付き合っていくのに一番ものを言うのは、『信頼』なのだよ。どんなに儲けようが、どんなに落ちぶれようが、真に培ってきた信頼だけは決して裏切らない。だがそれを勝ち得るには途方もない時間と労力が必要だ。分かるか。絶え間なく対話を重ね、礼を尽くして、少しずつお互いの利害を探っていくのだよ。お前は自らの考え一つで、相手と信頼関係を築ける絶好の機会を逃したのだと思わねばならん」


 物心ついたときから商会が当たり前のように側にあったロイスは、特に意識して行動を起こさずとも彼らとの間に信頼関係ができあがっていた。

 一方船乗りたちはどうだろう。皆、普段は航行組合に属し、今回たまたまベッケンナー商会が声を掛けて雇われた者ばかりだ。ロイスには彼らとの絆はないに等しい。ゆえに互いの一挙手一投足が先入観なく評価され、結果的に商会の評判にも影響しかねない。組織で成り立つ以上、一人が起こした行動すら軽視できないのだ。


 ロイスは長い苦心の末に出した答えを否定されたことにショックを隠し切れなかった。同時に、打算で動くべきだと信じていた商人が、確率論やそれ以前に人の感情の機微にさえ聡くなければならないとする父の言葉に納得がいかなかった。

 腹心を使ってまで自分を監視していた父。商売とは何ぞや、という大前提の考え方が真っ向から対立しているように思え、激情に任せて反発したい気持ちも確かにあった。しかし、何故か彼の言葉が自分にとってひどく重大な指摘となっているような気がして、腹の底とは裏腹に頭は冴え冴えとしていた。


「……ふう。すまんすまん、つい説教臭くなってしまった。やはり寄る年波には勝てんな」


 ゆっくり肩を回し、デイビスは疲れた笑みを見せると再び執務机に着いた。


「ロイスや。お前にはこれからも酷な思いをさせてしまうだろう。だがお前は商会を継ぐ人間だ。それゆえ他の者よりもしつこく言わせてもらった。無論、わしの評価も厳しい」


 商長の任をいったん降ろそう――頭領の口元がそう告げ終わる前に、押し被せるようにして「お待ちくだせぇ」と声が掛かった。扉の前に立ち、今までずっと空気のように気配を押し殺していたマラノだった。

 大きな一歩を踏んだ途端、風を切り裂くほど豪快に腰を曲げ、深く頭を下げる大男の姿に父子は釘づけとなる。


「場をわきまえず進言しましたことを、まずお詫びいたしやす。頭領、このマラノたっての願いです。どうか坊ちゃんに、今一度の機会をお与えくだせぇ。坊ちゃんは……申し訳ねえ坊ちゃん、喋っちまいます。坊ちゃんは決断を下したあともずっと悩んでおりやした。理由は他でもねぇ、自分てめえが無理言って決めた以上は全部の不安も責任も自分てめえで落とし前をつけにゃならんってことを、ちゃあんと分かっているからです。頭領、こうは思えませんかね。坊ちゃんは商団の連中のみならず、船乗りの安全を考えていたからこそ答えを急いじまったって。いくら頭領のご長子とはいえ、生まれて初めて商長を任させたモンがいきなり窮地に遭ったとき、そうと教わったわけでもなしに『全部の責任を負う』なんて覚悟を決めるのは並大抵のことじゃありやせん。あのときおれはいらぬ口返答を叩いちまいましたが、はっきり思いやした。坊ちゃんは……いや、そこにいらっしゃるロイス様は、商長となるべき資格をお持ちでらっしゃいます。頭領、ここは一つ、坊ちゃんを商長に据えてもう一度旅に赴いてもらってはどうでしょう。正式な商長として任命なさるかどうかは、そのときの坊ちゃんを見てからでも遅くはないでしょう」


 すさまじい熱のこもった長口上であった。

 本棚を背に佇んでいた青年はそっぽを向いたまま居心地悪そうに咳払いをし、机上にて腕組みをしていた髭面の男は、にやにやと笑みを湛えている。そうして無言の笑みがいよいよ愉快そうに体を弾ませた頃になって、ひとしきり笑い終えた男が掠れた声を放った。


「ああ、意外や意外。お前がそこまで言うとは思わなかった。そうだな、ちょうどよく今宵は十八年振りの『3's』サイエスがあった。ロイス、こうしてお前たちが無事帰って来れたのは、偉大なる神々がもたらした奇跡の賜物かもしれんな。いいだろう。今回のことは神の奇跡とマラノの熱意に免じよう」


 後日また、お前を商長として送り出すとしようか。


   *


 穏やかにそう言った父の顔が脳裏に焼きついている。後ろ手に扉を閉めたロイスは長いため息を吐くと、室内灯に照らされた坊主頭を睨みつけた。


「――どういうことだ、マラノ」


 問われた男は強面にしてはつぶらな瞳をきょとんと丸くさせる。


「はて。何のことですかい」


 あくまでとぼける気らしい。だが今更真実がどうであったかなどと問い詰めたところで、この調子者は決して白状しないだろう。それよりもこれからだ。胸に渦巻いていた疑念を無理やり脇へ追いやって、若者は生き生きとした茶色の瞳を相手へ向けた。


「いや、何でもない。それにしても助かった。お前があそこに居てくれなければ、私は今以上の好機を掴めなかったに違いない」

「やめてくだせぇ。おれは坊ちゃんの世話役として当然のことをしたまでですよ。それに、頭領はああ言ってますが、本当は坊ちゃんがお戻りになったことを心から喜んでらっしゃるんですぜ。これだけはお忘れにならねえでくだせぇ」

「…………ああ。そうだな」


 確かにそうかもしれない、とロイスは思った。時折何を考えているのかさっぱり分からない父だが、自分をきちんと考えてくれていることだけは分かる。

 やむを得ない空気だったとは言え、そんな父に一つ隠し事をしてしまったことをふと思い返した。


「結局言えずじまいだったな」


 廊下をゆっくり歩きながら無意識のうちに漏らす。何を言えないでいたのかすぐに感づいたマラノは、大きな図体を丸めてぼそぼそと呟いた。


「これから一体、どうするおつもりで?」

「うん……」


 本当ならば『最大限の利益を求めて』動くつもりだったものが、出鼻を挫かれてしまった。だがロイスの落胆は比較的軽いものだった。むしろ、先ほど頭領から受けた数々の教えをもとに、自分が次に何をすべきかを考えてみると、漠然とながら輪郭のようなものが浮かんできたような気がしたのだ。


 信じてみるか。神々の奇跡とやらを。


「なあマラノ。実は――」


 意を決して口を開いたそのとき、廊下の向こうから慌ただしい靴音が響いた。

 一心不乱に駆けてくる東方系の娘は、今にも叫びだしそうな悲痛の表情を貼りつけている。その形相を見た瞬間、青年の心にひやりとした緊張が走った。


「ロ、ロイス様。お目覚めになりました!」



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