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3.古代人・前編


sai, Sscanta solarr kulr Scar.(古代人・前編)


 大小無数の島々から成る海洋同盟の本拠、デルバルゾ・マレーアは背後に小高い山を持つ斜面状の街である。海洋神を奉る神宮を頂上に戴き、各地区を束ねる君長の別邸や議場に市政所、裁判所などの官庁街があり、市民たちの生活の場があり、そして入り江から伸びた街道を辿ると小島全体が港と化したマレ・ポルトガ港に行き着く。

 ここにはおびただしい物資と人とが集まり、散っていく。他の都市から入ってくるもの、逆に輸出されていくもの、単なる中継地点として立ち寄っただけのもの。双方の商人が落ち合ってそのまま取引を始める場面も少なくない。最大の交易拠点と呼ばれる所以である。


「坊ちゃーん、ロイ坊ちゃーん」


 商船がそのマレ・ポルトガ港に帰着してすぐ、積荷の運び降ろしを指示していたロイスは、街道から聞き慣れた声が走り寄ってきたことに気づき斜め後ろを振り向いた。


「坊ちゃあーん」

「パコットおじさん」


 小柄で恰幅の良い中年男は、桟橋で待つロイスの下までその名のとおり転がるように駆けてくるや否や、がっくり膝を崩して荒い呼吸を繰り返す。心配した青年が分厚い肩に手をやって覗き込むと、男は心配の色を映す茶色い瞳へ息も切れ切れのまま笑いかけた。


「ぼ、坊ちゃん。よくぞご無事で」

「ありがとう、私は大丈夫だ。それよりもおじさんの方こそ一体どうしたんだ? 屋敷へはこれから報せを入れるつもりだったのに」

「昨日、ロイ坊ちゃんからの手紙が、届きましてね。『早ければ明日辺りに着く』って、屋敷の皆はそれはもう大喜びで。いやあ、あたしも待ち遠しくて眠れませんでしたよ。しかし頭領は『迎えをやるのは実際に着いてからでも遅くない』と仰ってたんですけども、待つのが辛くて居ても立ってもいられず今日は朝から屋敷と港を百回も往復してしまいまして。ほら、お陰で腰回りが幾分引き締まったと思いません? まあ空戻りする度に頭領から睨まれてたんですけどね。頭領だって待ち切れないクセに、いい八つ当たりですよ全く」


 自らが仕事中だろうと食事中だろうと、たとえ疲労困憊の最中であっても質問には必ず瑣末事をくっつけて返すという、彼の話好き程度では済まない性癖を前にして、ロイスは数ヶ月ぶりに故郷へ帰ったのだという実感が湧いた。もっとも彼が商会入りした十数年前から何かと世話になっていたとはいえ、実感を湧かせてくれたのがよもやパコットだったことに力の抜けた笑みを隠せなかったのだが。


「今夜は本当に幸運な日だ。坊ちゃんたちがお帰りになるのと『3's』(サイエス)がいっぺんに来るなんて。船の上からはそれはもう神々しく見えたでしょう。当代神官のハンナ様に続いて二人目までもがこの街においでくださったのは、きっとウルディノ神の祝福が頭領や坊ちゃんに届いたからですよ、ええきっと」

「……そうかもしれないな。とにかく、おじさんが痩せ細る前に会えて良かった。積荷を運びたいんだが、馬車の用意は整っているか」

「ええ、ええ。もちろんです。いつ船が現れても良いように――おいお前ら、何をのんびりしてるんだ。早く来い!」


 青年が何事かと背筋を伸ばすと、乱暴に手招きする頭巾の向こうに数頭の荷馬を見つけた。そのあとに続いて引き車を押す担ぎ手たちが外灯下に見て取れたが、何となく足取りがフラフラとおぼつかないでいる。……どうやら今し方パコットが言いかけた台詞を借りると、彼らもまた『いつ船が現れても良いように百往復させられた』のだろう。百一回目の徒労を防ぐことができたと安堵したものの、ロイスには父が手ぶらで戻る部下を睨む理由がよく分かった。


「はて、ところで坊ちゃん。副頭領の姿が見えないようですが」


 あの者らに酒代でも振る舞ってやろうかと思案していると、辺りを眺めていた中年男がちょび髭に手を当てつつ呼び掛ける。


「ああ。マラノには別の仕事をやってもらっている。心配はいらない、直に戻るだろう」


 そうですか、と特に訝る様子もなく応えるパコットの目元を青年は静かに見つめた。


 ――うまくやってくれただろうか。いや、うまくやらねば意味がない。信じていないわけではないが、自分の目で確かめたい。どうしても。

 ロイスは一度逡巡し、踏み出しかけた足を戻したが桟橋の前に整列していく馬車を見届けるなり、小さく頷いて対峙する男の脇へ素早く躍り出た。数歩分の浮板が軋んだ水音を放つ。


「おじさん、すまないが私はマラノを連れて先に戻っている。あとのことはおじさんに任せてもいいだろうか」

「へっ? そりゃまあ、あたしゃ一向に構いませんけども、どうしてまた」

「理由は屋敷に着いてから話すよ。あと、船の連中への給金は後日商会がまとめて支払うことになっているから、もし訊かれたらそう答えておいてくれ。すまない、それじゃあ頼んだ」

「は、はい。何が何やら、よく分かりませんがとにかく頼まれました」


 目配せを交わした後に再び歩みを進めるロイスは、パコットの「おーい、お前たち!」という甲高い大声を背にしても待機中の担ぎ手たちのように驚いて凝視することはしなかった。


「よく聴け、ここから先はこのパコット・ダミエがお前らの商長だ。桟橋を渡るときはどんなことがあろうと積荷を手放すなよ。だがお前らが海に落ちたら何よりも先に積荷を守れ。商品に傷ひとつつけちゃいかん。ロイス様の代理を務める、このパコット商長の指示をよく聴けよ」


 まるで歌っているかのような調子の良い弁舌。さすがは担ぎ手時代からずっと商団の指示係を務めてきたベテランである。ここ数か月周りの者が『坊ちゃん』と呼ぶのを制してきたロイスだったが、彼の声でそう呼ばれると何故か邪険にはできず、自分に対して使うときのみという条件付きで渋々許していたのだった。

 マラノが父親代わりならばパコットは気の好い親戚のおじさんというところだろうか。

 青年は桟橋の袂で深々と礼をする担ぎ手たちへ右腕を軽く上げて挨拶を返し、「放すな放すなエンヤコラ」と今度こそ歌い始めたベテラン商長に口元を緩ませながら遠ざかった。


   *


 港を出るとすぐ、砂州に沿って作られた長い石街道が目の前に広がる。砂地へ打ち寄せる白波を右手に、足元を点々と照らす明かりの傍らを歩いていた青年は、ふと六つ分離れた灯火の先に人の気配を感じるとともにかまびすしい話声を聞きつけた。


「まさかデルバルゾ・マレーアに二度目の『3's』(サイエス)が来るなんて……」

「いきなり神宮の御神鐘が鳴るからどうしたことかと思ったが、飛び起きて正解だったな」

「わたし初めて彗星を見たわ。本当に綺麗だった! きっと今年の冬は大漁に恵まれるわね。そうに違いないわ」


 もう真夜中を過ぎているというのに両脇の歩道には多くの人々が集まっていた。老若男女、ある者は寝間着姿のまま嬉々として囁き合う。その言葉を拾ってみれば、話題の中心は言うまでもなかった。ロイスは彼らへ一瞥を投げると少しだけ顎を引き、散歩にしてはやや早い歩調で集団の横を通り過ぎて行った。声を掛けられたなら平然たる様子で応える用意は出来ていたがそれもなかった。界隈では誰もが知るベッケンナー商会の団服を身に纏い、供も連れずに街へ向かう背中は明らかに不自然だったにも関わらず、幸いなことにそれと気づいた者は一人もいなかったのだ。

 理由は言うまでもない。



「坊ちゃん」


 地区の中でも下町と称される一帯。未だ見物人で溢れているだろう大通りを避けて垂直に走る路地を選び歩いていると、野太い声とともに民家の陰から坊主頭の男が堂々たる体躯を覗かせた。自らの団員服を被せて隠してはいるが、青年には彼が何を背負っているかすぐに感づいた。


「マラノ。うまくやったか」


 ロイスは些か興奮したような目つきで尋ねる。ふたりは互いに待ち合わせ場所へと向かう途中であったため、ここで鉢合わせしたのはまさに偶然の産物だった。


「へぇ、何とか。ウルド湾の岸壁に打ち上がっていやした。他にも興味本位の連中がいてヒヤヒヤもんだったんですが、『3's』(サイエス)のお陰で海の近くまで見に行ったとでも思ったんでしょうな。おれが戻った頃にはすっかり引き揚げちまってて、このとおりうまいこと掻っ攫って来れました」

「そうか……」


 サイエス、と呟いた青年の瞳はマラノの肩から垣間見える膨らみを捉える。


 いつから始まったのかは定かではない。だが古代の人々は『Sscanta solarr kulr Scar.』(鐘の音が空に響く)ことを頭文字のエスを取って『3's』(サイエス)と呼んできた。そして天空に御神鐘が鳴り響くとき、現れたる虹の羽衣とともに決まって地上のどこかに古代人ソーラーが落ちる。すると数年のうちに、奇妙にも各地で豊作に恵まれることもあるらしい。故に現在では『3's』(サイエス)は神々による吉兆の報せとして広く知られていたのだった。


「坊ちゃんの方はいかがですかい」

「だからその呼び方は……まあいい。今頃パコットおじさんが運び手の先導をしているだろうさ。私たちも急ごう。人目につけば何かとまずい」

「へぇ」


 その後ふたりは無言のまま歩き続けた。この辺りには細い抜け道が多い。潮の香りが薄らぐにつれて小さな民家が軒を連ねるようになり、ロイスは器用にその間を通って石畳の坂を登っていく。夜目に慣れた今では月の明かりだけで十分だった。

 しばらくして道が緩やかな坂の途中にある娼婦街へと差し掛かったとき、賑やかで甲高い声を聞きつけたマラノが背中の人間を大事そうに背負い直した。それを横目に感じ取ったロイスは脇道へ曲がろうとした足を止める。


「どうした」

「いや……。ふと、このお嬢ちゃんが花街の人買いに見つからなくて良かったなと思いまして」

「人買い? 女なのか」


 今度の古代人ソーラーも。

 意外そうに呟いた青年に対し、マラノは腰を屈めて団員服の中を覗き込ませた。どうやら眠っているようだ。襟元から見えるのは柔らかそうな黒髪と僅かな肌しかなかったが、全体的な線の細さから見て、男ではないのは確かだった。

 確認後、すぐさま相手に今一度の移動を促す。遠くの喧騒を無視して大男は話を続けた。


「年の頃はうちの娘と二つ三つ違い……や、それより下かも知れねえ。とにかく見た目は東の大草原同盟に多いのっぺりした顔立ちでした。もしかしたら『古代ヤーハン人ヤーハナー』か『古代シャンヒー人シャンハイア』なんですかね、嬢ちゃんは」

「さあな。気になるならあとで本人に訊けばいい」


 それにしても、彼女が打ち上げられていたというウルド湾は出船前の漁師や、それこそ人買いがこっそり商売するために夜中でもたむろしている場所だ。マラノほどの大男が、よく誰にも見つからず連れて来られたものだ。

 疑問に思ったロイスが特に他意もなく尋ねると、見上げた先の坊主頭は返答に悩んだ様子で低く唸る。


「それが……」


 このお嬢ちゃん、ウルディアーナの塔の近くに居ましてね。


 思いもよらなかった言葉に青年は目を見開いた。


「おれは別段信心深いってわけでもねぇんですがね。ほら、あの塔の別名は『ウルド湾の貴婦人』てぇ言うじゃないですか。実は岸壁に降りてったとき、海面がキラキラ映る土台のすぐ傍に倒れてるのを見たんです。もしかして貴婦人が守っててくれたのかと思っちまって正直ションベンちびりそうでしたよ。海の男が情けねえ話ですけど」


 ロイスは柄にもなく弱気な余韻を残す男の言葉を半分程度しか聴いてはいなかった。聞く素振りを見せながら、彼は考えていたのだ。

 ――塔にまつわる別の謂れを、マラノは知らないのかもしれない。

 果たしてそれは事実だった。ロイスとてその謂れを知ったのは昔戯れに目を通してみた文献からだったのだから。


 ウルディアーナの塔は『ウルド湾に建てられた小さな灯台』という意味の他に、『海洋神ウルディノを奉る場所』という意味を持つらしい。ならば彼女がウルド湾に流されたことも、人買いの手に渡ることなくマラノによって助けられたのも納得がいく。彼女は海洋神によって守られていたのだ。

 その彼女を自分は今頭領に引き渡そうとしている。いずれは当代神官の跡を継ぐかもしれない人間なのだ、恩を売っておけば後々商会全体に大きな利益が舞い込んでくるだろう。だが畏れ多くも神が守護した者を、利己的な欲望によって奪い去っても許されるのか。

 すなわち神への冒涜となりはしないのだろうか。


(おれは別段信心深いってわけでもねぇんですがね)


 隣を往く男が漏らした一言を思い返す。ロイスもまた熱心に神宮へ通うほど信心深くはない。しかし自分たち商人や漁師、海を生活の中心とする同盟の者にとって、ウルディノ神は神々の中でも最も重要な存在だ。神を敬い神宮へ保護を求めるか、それとも身内の利益を優先し匿うか。一度決めたはずの青年の決意は掻き乱された。


(……どちらにしろもう後戻りは出来ない。やり方はいくらでもあるんだ、この際思うまま行こう)


 神への畏れは彼の内から湧き出る情熱によって押し流されていく。ロイスは冷ややかな表情を変えることなく唾を飲み込み、ちらりと隣の肩口を盗み見た。男の歩みに合わせて黒髪の束が揺れている。哀れには思ったが、彼女に対して謝罪の気持ちはこれっぽっちも起こらなかった。


 やがて地区の境を告げる大通りへと辿り着く。向こう側に渡れば彼らの領分、ベッケンナー商会本部があるレシタ区だ。月は無人の市場通りと脇に立ち並ぶオレンジ色の屋根を静かに照らしている。更に進んだ坂の中腹。広い土地を囲むレンガ塀の中に、目的の屋敷はあった。


 ロイスは微塵もためらわず足を踏み出した。






 長くなりそうだったのでふたつに分けました。固有名詞、それの説明、伏線。作品を土台から築くにあたってこれらを話のどこにちりばめたら分かりやすいのか、難しいです。一次創作って奥が深いなぁ。


【今回登場した単語】

・サカンタ ソラル クール スカー Sscanta solarr kulr Scar. : (直訳すると「鐘が空に響いている」の意)古代人が現れる前触れとして神宮の鐘が鳴ることから、古代人が来たことを意味する慣用句。略して3'sサイエス

・ウルディアーナの塔 Urdiaana Pharalos :昔デルバルゾ・マレーアの南東にあるウルド湾に建てられた要塞。目的は航海者の帰路の確認とウルド港の防衛。外観の優美さから『ウルド湾の貴婦人』Nez Urd'belf と呼ばれる。


 他の単語は今後の話の中に出てきたり要チェック単語だったりするので、今のところは割愛させていただきます。

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