2.もうひとつの始まり
noh, Silsono un deocc.(もうひとつの始まり)
春休みが明けて、今日から私は高校三年生になった。
巷じゃ『受験生』と呼ばれるようなったのかと思った矢先、早速先生がホームルームの最後に進路アンケートの用紙を配り始める。ざわつく教室の中、隣の男子が「いきなりかよ」と不満を漏らした。そうだそうだ、いきなりだぞ。私も口を尖らせてささやかな反抗を試みる。
「今年の放課後補修は進学組と就職組に分けるから、そのための進路確認だよ。今文句垂れてる奴も忘れずに提出するように。言っとくけどもう去年みたいな白紙は認めないからな」
認めない。先生の放った冷ややかなパンチが私の腹に決まる。
「それに最終学年になったんだから、いい加減進路を決めてない奴は最低でも進学か就職かくらい考えてこいよ」
最終学年。それなのに進路を決めてない。鮮やかで的確すぎるボディブローがみぞおちにヒットし、私は泣きそうな思いで前の席から用紙を受け取った。壁際の派手な声の女子が「センセー、ひどい!」と嘆いたのに対して「相談があるなら乗ってやる」と窓枠に寄り掛かって腕組みする先生。言い方が少しきついだけで、悪い人ではない。実際親身になって相談に乗ってくれるし。
でも。進路、進路かぁ……。名前欄とチェック表、その下の具体的な進路先を記入する欄を舐めるように見て、四つ折りにしたそれを鞄にしまう。チャイムと同時に日直が号令をかける。のんびり帰る準備をする生徒、部活へ急ぐ生徒、グループを組んでお喋りを始める生徒たちで騒がしくなった放課後の教室をあとにした私は、とりあえず友達を迎えに行くため二つ隣の教室へ向かった。
二年生だった私は進路を白紙のまま提出していた。親を交えた面談でも「まだ決めてない」と突っぱねた。そのときはあれで良かった。
でも、もう同じ手は通用しない。一年後の私がどこへ進むのか、漠然とでもいい、決めなくちゃならない。でも分からない。そんなこと考えてられなかった。何故なら、去年だって今だって……。
「サキ! 今日新入部員来ると思う?」
出入口に近い席で楽譜を揃えていた友人は、空元気にも程がある私の言葉に顔を上げるなり呆れたように低い返事をした。
「……ミツル、そっくりそのまま返す。入学式が終わってすぐの新入生が、見学もなしにウチに来ると思う?」
「ごめん。ちょっとした言い間違い。ねえサキ、今日、かわいい見学者たちが何人来てくれると思う?」
新部長の美咲は一瞬真顔になったあと楽譜をファイルに挟みながら、「五人くらい来たら良い方じゃないの」と冷静に応える。私たち合唱部は、吹奏楽部と並び文化部の二強として新入生の勧誘に力を入れている。そして何故か毎年、一方に集まればもう一方が部員不足に悩まされるという妙なジンクスがあった。去年うちが大豊作だった分、今年は吹奏楽にごっそり持っていかれるだろう。私は腰に手を当てて考え込むように言った。
「一応昨日のミーティング通り、中村ちゃんと小島ちゃんに行ってもらってるよ。どこまで引っ張って来れるか分かんないけど……。ほら、あんまりしつこいと逆効果じゃん? ブラバンの勧誘の様子も見て、そこは臨機応変でお願い、とは喋っといた」
「うん、毎年新入部員のほとんどは大人しめな子たちだから、変にうるさいとマイナスだしね。ありがと、ミツル。今年は仕方ないと思って、出来上がったメンバーで行くしかないよ」
「そうだね。どんなメンバーだろうと目指すは金賞!」
「ミツル、うるさい」
私たちはクスクス笑い合って教室を出る。そう、去年だって今だって、私は部活動にすべてを注いできたのだ。コンクールではずっと銀賞止まりで悔しい思いをしてきたけど、いつか必ず金賞を掴み取ってみせる。それこそ寝る間も惜しんで練習に励んできた。今更進路だなんて、そんなの考えてる余裕もなかった。私の頭は音楽のことで一杯だったんだから。
今が楽しい、それだけじゃいけないんだろうか。いやダメなのは分かってる。けど進学か就職かなんて、考えたこともなかったものをすぐには決められないよ。
合唱部が好き。音楽が好き。好きなものに皆で一所懸命取り組めるこの環境が何よりも大好き。……これしか答えられない私に、一体どうしろっていうんだろう。
「いっそのこと音楽学校、て書いちゃおうかなぁ」
「ん?」
「ううん、何でもない」
視聴覚棟の廊下では一足先に吹奏楽部のパート基礎練習が始まっていた。三階の音楽室へ向かう階段を並び歩く途中、ふと美咲側に持った鞄の中身を思い出す。――帰ったときにでも、サキにメールで訊いてみようか。学年トップの彼女はきっと迷わず大学進学を選ぶだろうけど、きっと私の悩みを受け入れてくれるに違いない。
*
見学者は部長の予想通り、六人の新入生が来てくれた。疲れた笑顔で入ってきた勧誘役の後輩へ私たちはねぎらいの歓声を上げ、新入生を心から歓迎した。この中から何人が入部届を出すのかはまだ分からないけど、前向きに精一杯がんばっていくしかない。
部活終了後、美咲は顧問に呼ばれているとかで先に帰っててくれと後輩から伝言をもらった。音楽室の時計は午後七時半。新学期初日だろうと一切手を抜かない部長と顧問ペアに内心拍手を送りつつ、だるい体にカーディガンを引っ掛けて退室の挨拶をする。季節はすっかり春だというのに、外が曇っているのか扉を開けたら薄気味悪い闇が目に飛び込んできた。
視聴覚棟の暗闇くらい見飽きているはずなのに。どうしてなのかゾッとしてしまった。……おかしいな、小さい頃から怪談系は平気な方だったんだけど。
いったん怖いと思ってしまえばどんなにごまかしても無駄だった。晩御飯のおかずを推理しても今夜観たいテレビドラマを思い描いても怖いものは怖い。けれど挨拶までした手前、背中越しの扉へ戻るのも何だか恥ずかしい。しばらくの間怖い、恥ずかしい、やっぱり怖いと延々繰り返して、結局私は誰か見ているわけでもないのに強がることにした。
古びた蛍光灯が照らす階段を一目散に駆け降りる。自分が立てている足音なのにどうして後ろから追いかけられているような気がするんだろう。心臓が痛いくらいに胸を叩いている。怖くて怖くて、とにかく何が何でも早く帰りたくて、私は教室棟へ続く渡り廊下を抜けると職員室の明かりも無視して生徒玄関へ急いだ。
良かった、ゴールに辿り着いた。もう少しでここから出られる。息を整えながらスニーカーに履き替えたあと、ガラス戸をくぐる前に何度か深呼吸をしてみた。……肺活量を鍛えるトレーニングにもなるし、どうせだから家まで走って行こうかな。安心感からかそんなことを考えられる余裕が生まれた私は玄関の向こう側に目を凝らした。真っ直ぐ校門へ続く道の両側には何本もの夜桜が花びらを散らしている。外灯の明かりに照らされて白く浮かび上がる木々はとても幻想的で、朝の賑やかさとは大違いだった。少しの間ボーっと見惚れたあと我に返り、鞄を小脇に抱えてきつく握り締める。よし、行こう。
桜に吸い込まれるように二歩、三歩と進んだのは良いものの、私の決意は踏み段を降りた瞬間真っ二つに折れてしまった。アスファルトを蹴るはずだった右のかかとが宙を掬う。
「あれっ」
何故なら走って帰るつもりだった両足が、今は体ごと夜の底へ真っ逆さまに落ちたのだから。
私は声の続く限り叫んで叫んで必死に理解しようとした。まるで昔遊園地で体験したバンジージャンプの百倍怖いやつを味わっている気分。一体私の身に何が起こっているの。終わりが見えない、ひたすら暗闇だけの世界を切り裂くようにして私独りが落ちている。一体どこからどこへ。
怖かった。違う、恐怖以上に混乱していた。これは夢なんだろうか。どうか嫌な夢であって欲しいと願いながらも、私は頭のどこかで確信していた。決して夢なんかじゃない。耳を裂く風の音や制服のはためき、そして喉を震わす感覚は間違いなく現実のものだった。ましてついさっきまで身を置いていた教室での出来事も部活動も、夢であるはずがない。
叫び声は喉の痛みとともに呻きへと変わり、私は涙をボロボロ零しながらしゃくり上げた。どうしてこんなことに。美咲の帰りを待っていれば良かったんだろうか。それとも進路を決めていないのがいけなかったんだろうか。分からない。何を考えても答えは過去の自分の過ちに対する懺悔になる。家族の顔、部員たちの顔が次々と脳裏に浮かんでは謝りたい気持ちで一杯になって、私は背中を丸め胸に抱いた鞄に顔を押し潰すようにして泣いた。
死にたくない。死にたくないよ。
――十分経ったのか一時間経ったのかは分からないけれど、そうしているうちに目の前が別の意味で暗くなった。自分でも気づかないうちに失神してしまったらしい。意識の中での私は叫んでいなかったし泣いてもいなかった。ただ、気を失ったのなら死んだとき痛くないかなぁと間抜けなことを思っていた。
そして私は本当の意味での夢を見た。
ある一点が青白く光ったかと思うと、黒い世界が真っ白に塗り変わった。光は青から緑、緑から黄色とどんどん色を変えて、放射線のように七色の筋を作り出す。七色の尾が白い世界を覆ったとき、私はどうしてだか猫型二足歩行ロボットが乗り込むタイムマシンを思い出した。私もどこかの時代へ飛ばされるんだろうか。
鮮やかな世界が今度はカーテンのように揺らめいたと同時に、風の音に混じってカランコロンと静かに鐘を鳴らす音が聞こえてきた。こんな綺麗な音初めて聴いた。この上なく優しくて、とてつもなく悲しい。延々と響く鐘の音が胸の奥にじわりと滲み、私は耐えられなくなって目を閉じた。
「――来たれよ異界人。貴様の生地を選べ」
「え?」
低い男の人の声がして辺りを見回してみても誰もいない。すると突然激しい頭痛が私を襲い、頭の中に見たこともない映像が現れてはカメラのフラッシュみたいに次々と切り替わっていく。
鬱蒼とした森を逃げ回る動物、それを追いかける人間たち。刺青だらけの浅黒い腕が弓矢を構えた瞬間、空から真っ赤に燃える隕石が落ちて地上を焼き尽くした。草も水も何もない、灰色の世界。荒れ果てた平原を寄り添うようにして歩く人たちはさっきのとは違い、頭からフードを被っていてみんな疲れきった様子だった。
場面が変わる。あんなに荒んでいた景色が嘘のように元通りになっていた。それどころか空も海も大地も、そこに暮らす生き物全部が生き生きと輝いている。街の人々は笑いながら歌って踊って、これを幸せと呼ばずに何と言うんだろう。
けれどその人たちはやがて争いを始める。人と人がぶつかり、国と国とがぶつかり合って世界を壊す。凛々しく戦場を駆ける騎士も、焼け出された子どもたちを守るお姫様も死んでしまった。戦争を鎮めた英雄でさえ、最後は自分の手で国を滅ぼしてしまった。戦いを起こす理由はいつも自分勝手で、どんな結果になろうと悲しいだけなのに、どうして人間は同じことを繰り返すんだろうか。
夢の中で私は、歯を食いしばって泣くのを堪えた。
「こんなの見たくない。選べって何なの。私にどうしろって言うの」
怖いわけでも悲しいわけでもなかった。ただ胸の奥がとても痛い。言葉では説明できない苛立ちが溢れそうになって、私は姿のない声の主に向かって必死に喉を絞った。合唱部が聞いて呆れるくらいの掠れた声が出た。
気づけばとっくに鐘が鳴り止んでいた。それでも映像の流れは止まらない。見渡す限りの草原を三頭の馬が人を乗せて走っている。旅装束風の若い男の人たち。向かっているのは、湖に建つ大きな塔だった。映像は塔の壁に沿うようにして天高く昇り、真っ青な空がどんより曇ったかと思うと何本もの稲妻を落とす。黒い空からは雪が…………違う、これは灰だ。たくさんの灰が地上に降り積もっていく。命の上に覆い被さる灰のように、私の頭の中の映像も灰色に埋まっていった。
そして押し潰された意識の中で確かに聴いた。
穏やかな風が荒原の砂をさらう音。豊かな木々の葉を揺らす音。鳥たちの鳴き声。
頭上に差した眩しい光に顔を上げるといつの間にか満天の星空が私を見下ろしている。
どこからともなく押し寄せる波の音を背に、不思議な気持ちで辺りを眺めたそのとき、夢心地の感覚がブチリと途切れ私は両目を無理やりこじ開けられたような気がした。
「ぎゃッ」
落下、衝撃。
私は鞄を胸に抱えたまま大きな水溜りに叩きつけられた。
「我輩の袂へ来るか。良いだろう」
さっきと同じ男の声が、今度は頭に直接響いてくる。
けれど私にはそんなことどうでもよかった。思いがけず飲み込んだ塩水と重くなった制服が苦しくてつらくて、きつく目を閉じたあとどうすることもできずに溺れていた。
「我が名は海洋神ウルディノ。異界人よ、この地にて大いなる海に護られよ。運命がその身を分かつまで」
護る?
だったら、あんたが助けてくれてもいいんじゃないの。偉そうに……。
*
自分がどうやって助かったのかは知らない。
ひとつだけ分かっているのは、ラッキーなことに再び気を失って、その後どこかの陸に打ち上げられたみたいだということ。鞄も右手にちゃんと持っていた。けれど中身がどうなっているのかは簡単に想像がつく。何だか可笑しくなって私は弱々しく笑った。
もしかすると怪我をしているのかもしれない。体全体が痺れるように痛んで、そしてすごく眠かった。ここで寝たらやっぱり死んでしまうんだろうか。ぼんやり考えていると、何か生き物の気配がこっちに近づいてくる音が聴こえ自然と体が強張った。
生き物はどうやら人間らしい。小石の踏み方が靴の音に似ていた。もしも私に気づいたのなら助けてくれるんだろうか、それとも殺されるんだろうか。期待と不安がみるみる膨らんで、私は息をしていることさえ嫌になり目を閉じる。浅い眠りはすぐにやってきた。
耳に残るさざ波を子守唄に、一瞬のまばたきの向こうに映った人間を見てしまい私は心底後悔した。
殺される。
海坊主みたいな頭をした、このいかついおじさんに。
【今回登場した単語】
・シルソーノ silsono:沈黙
・デオク deocc:闇、暗闇