1.幕開け
unir, Prologior.(幕開け)
その夜、沖の海には靄が立ち込めていた。
剥き出しの頬が柔らかな寒さに時折痛む、晩秋のことである。
一隻の商船は、水気を孕んだ農灰の世界を掻き分けるようにして恐る恐る進んでいた。船員たちが掲げるランプは闇にいくつもの白い線を残しては遠くで途切れ、板張りを往復する無数の靴音は潮のうねりにかき消される。その船尾甲板の片隅には、じっと前方を見据えるひとりの青年が佇んでいた。
彼の記憶が正しければ、この辺りの海は比較的穏やかで、霧や靄などが発生したことはほとんどなかったはずだ。何が起こるか分からない海上で『自らの経験こそが正しい』などと高を括っているわけではないにしろ、どうしても仄暗い、さざ波のような懸念が捨て切れないでいた。
彼は不安だった。この視界の只中にいると、途端に昨日故郷から届いた親友の手紙さえ暗示めいたものに思えてならない。
『こちらは万事問題ない』
考えすぎだ、杞憂に過ぎぬと振り払おうにも一度抱いた感情はそう簡単に立ち直ってはくれない。
月も星も隠れた夜。胸の奥底まで迫るかのような重い靄が、彼の心をよりいっそう深く苛んでいる。
何しろ、まさか自分が商長として率いる初めての商談を終えた帰路にて、このような歓迎が待っていようとは思いもよらなかったのだ。
普段ならばそろそろ見えてくるだろう岬の大きな灯台と、波打ち際に並ぶ家々の放つあたたかなオレンジ色が両手を広げて、長い船旅を終えようとしている彼らを出迎えてくれるはずなのに。
苦心の末、若き商長はいったん戻るべきだと言う船長の言葉に首を振り、真っ直ぐ突き進もうと声を荒げた。目的の港へはそう遠くなく、灯台さえ確認できればうまく運ぶと信じての主張だった。
いまだにこの決断が果たして良かったのかと悩み続けている。しかし船長を始め船員たち、そして商団の皆はそんな彼に黙って従ってくれている。彼らの人生と商団の命とも呼べる積荷を一手に預かる身として何が何でも無事帰らねば、と青年は自らに言い聞かせ、踵を返して甲板を歩き始めた。
相変わらず船の歩みはゆるゆると足元を探るように遅く、まるで目隠しをされた幼子のようにおぼつかない。
jzag ooh jzag ooh...
(さあ漕げ さあ漕げ)
颯爽と歩く商長の姿を認めるや、団員が遠慮がちに頭を垂れ、船員たちは忙しく動かしていた手を一瞬休めて睨みつけるように注視する。彼は一人ひとりに対して挨拶を交わし、なおも長靴を鳴らした。すると突然、向こうから野太い歌声が聴こえ思わず足を止める。
Eg/ ee ma amant pharydine.
(我が愛しの故郷)
船全体を覆っていた緊張感やら不安やらを丸ごと吹っ飛ばすほどの能天気な歌声。しかもそこそこ上手いのが尚更迷惑甚だしい。青年は口唇を引き結び、床が軋むほど強く踏み進んだ。波飛沫が舞い、彼のくすんだ金髪を左右に揺らす。
辿り着いた船首、その船楼にいたのは、見えぬ海原と大陸をひたすら凝視しているように見える男――の背中だった。
Ninnaver'phara lent ma londa nao hawgi,
(帰途の道はニンナヴェルの灯が教えてくれる)
nao tu hawgi nyy keeo.
(窓辺に佇むお前の下へ)
「…あいにくだが、今夜はまだ待ち人どころかニンナヴェルの灯台すら拝められない。場違いな歌はやめるんだな、マラノ」
マラノと呼ばれた壮年の大男は、咎められて振り返ると同時に悪人面をくしゃくしゃに綻ばせた。
「歌ってりゃあ灯台のてっぺんでも出て来てくれるんじゃないかと思いましてね。ほらこうやって」
そう応えるなり右手に摘んでいた遠眼鏡を目元へひょいと当ててみせる。目線を滑らせれば、筋肉質な右腕の影には船員服を着たひ弱そうな少年が、怯えた表情でこちらを見上げていた。なるほどそういうことか、と商長は再び男を見やる。
「それに船の奴らときたら、行くって決めたくせにビクつくなんざ情けねぇや。おれは愛する娘に会いたい一心で、今すぐ飛び込みたいのを必死に耐えてるってのに」
「だから代わりに見張り番として働いているというわけか。困ってるだろう、早く返してやれ」
顎をしゃくった商長に倣うまま右腕を確認したマラノは、たった今気づいたかのような反応を見せつつようやく『それ』を手放した。安堵のため息を投げ仕事を再開する少年を横目に、ふたりは船首楼の脇へと移動する。先ほどよりは靄が薄くなったのだろうか。どす黒さを増した海に差す白い光をぼんやり目で追いながら、青年は誰にでもなく弁解するように呟いた。
「……皆には申し訳ないと思っている」
船員たちが怯えながら働かなければならないのも。船底の積荷庫にて団員たちが命懸けで商品に傷がつかぬよう不眠不休で守っているのも。彼らの不安を煽ったのは自分、全ての責任は自分にあるのだと青年は続ける。初めて味わう重責に微かな悲鳴が漏れ出た瞬間だった。
「坊ちゃん。カシラってのは、たとえ心で詫びていようとも決してそれを口に出しちゃあいけませんぜ」
しかし聴き手の男はその悲鳴に対し慰めるどころか、強い口調で言い咎める。
「特にここは場所がいけねぇ」
誰が聞いているか分からないのだ、とでも言いたげに辺りを見回し、最後に傍らに立つ青年の正面へ向き直った。
「坊ちゃんだって今までに何度か、お父上の取引に付き添われてるのでご存知でしょう。損なり得なり、商団が得た結果の全てを商長が負うのは当然のことです。商談の成り行きはもちろん、道中の苦労も、担ぎ手や護衛の振る舞いに対する相手方の評価もぜーんぶ被さってくる。どんな結果になろうと、そいつらを残らず受け止めてやるのがカシラってもんだ。だから坊ちゃんは、後々どんなに悔やもうが一度決めたら絶対に迷う素振りを見せちゃならねえ」
信頼されるべき商長が判断を覆せば、部下の混乱を招く。混乱は不信を呼び、やがて集団を散り散りにさせかねない。責任者たる者、常に大海のごとく悠々と構えていなければならないという年長者の戒めに、青年は噛み締めるように耳を傾けていたが、しばらくすると自嘲気味な苦々しい笑みを零した。
「――やっぱり、お前が商長を任されるべきだった。私は結果を受け入れるどころか、自分が決めたはずの行為ひとつ貫き通せずにこうして弱音を吐いている。いくらベッケンナー商会を束ねる頭領の息子とはいえ、商人としての能力はまだまだお前に及ばないだろう」
「まさか。おれは単なる世話役ですぜ、そんなこと仰らないでくだせぇ。それに心配はご無用です。坊ちゃんの才能はこのマラノがしかと見定めさせていただきやしたから。商談の卓で、ごねる相手をバッサバッサとねじ伏せる凄まじい話術! いやぁ、まさに大蛸を手なずけるウルディノ神を見てるようで感服しやしたぜ。さすがはデイビス様のご長子だ、ワッハッハ!」
夜空に豪快な笑い声が響き渡り、周りにいた者らはギョッと肩を竦めて顔を向ける。青年もまた、堪え切れず頬を緩めた。マラノは父を支える副頭領という地位にいながら、商会一の調子者であり人気者でもある。青年自身、幼少の頃からもうひとりの父親のように慕っていたこともあってか、この男の気立ては嫌いではなかった。
しかし彼は知っている。世話役と自らをへりくだるこの男が、実は頭領から命を受けた自分の目付け役であることを。取引のための準備から経路の選択、そして費用の落とし所までを逐一監視していたことも。おそらく父へ報告するのだろう。自分が商長として相応しい資格を持っているかどうか、この先も商会全体の要を担っていけるのかどうか。試しているに違いない。
そうとは悟られぬよう、青年は取り繕って応えた。
「すまなかったな。少しばかり弱気になっていたようだ」
「いえ、おれの方こそ口返答が過ぎちまいました。何せ、あんなに泣き虫だった坊ちゃんがこうしてご立派になられたかと思うと、つい嬉しくなっちまって」
「昔の話だろう。それに『坊ちゃん』もいい加減よしてくれ。私はもう甘やかされるだけの子どもじゃない」
「へぇ。気をつけます」
恭しく礼をするマラノから視線を外し、上体を捩りながらゆっくりと周りを眺める。
「…どうやら靄が晴れてきたみたいだな。案外、お前の歌が海洋神に届いたのかもしれん。これで灯台の明かりが見えれば――」
「そういうことならお任せくだせぇ、もう一度歌って根こそぎ消してもらいやしょう」
そのとき青年が呆れ顔で「やめろ」と横の逞しい二の腕を掴むのと、海洋神ウルディノもしかめ面を浮かべかねない調子っ外れの歌声が飛び出したのと、甲板が俄かにざわついたのはほとんど同時だった。
「いけねぇ、喉が掠れちまった。今度こそ」
あちこちから「ニンナヴェルの村だ」「灯台が見えた」と騒ぎ立てる歓喜の声が聴こえてくる。灰色から漆黒へと変わりつつある世界に差した輝かしい光。皆がこの光を待っていたのだ。若き商長はマラノの坊主頭から朝日のように顔を出す灯台を目の当たりにすると、未だ瞑目して喉を震わす副頭領の腰骨を思い切り叩いた。
「やめろマラノ。折角の明かりがお前の地平線に沈んだらどう責任を取るんだ」
「へっ? おお! ついにニンナヴェルまで来たんですかい」
「団員を積荷庫に集めろ。降りる準備だ」
「へぇ、ロイス様!」
取舵一杯、の号令のもと船首が左へ傾き、商船の行く先にもはや迷いはなかった。ニンナヴェル村の家々が灯すあたたかなオレンジ色を右手に、一路彼らの故郷であるデルバルゾ・マレーアへ。海洋同盟随一の都市。そして最大の交易拠点とも謳われる港湾、マレ・ポルトガの長い桟橋が、あと半刻もすれば暗がりに見えてくるはずだった。
走り去るマラノの背を送った商長は、先ほどまで胸を苛んでいた懸念がすっかり消え去ったのを感じた。灯台さえ確認できればうまく運ぶ。自分が言い放った主張に対して何とか結果を残せたことと、商会全体の面目を保つことができ安堵したのだろう。安心しきるにはまだ早いが、やっと肩の荷が降りた気分だった。今までは船が揺れるたびにぶつかる海水の冷たさにさえ不安を覚えていたが、それももうない。
込み上げてくる笑みを必死に耐えるうちに微妙な表情を浮かべる姿が、ようやく年相応の若者らしさを示していた。
船に乗っていた者たちの中に靄の原因を推し量ろうとする者は誰もいなかった。
待ちかねていた希望がすぐそこに現れた今、彼らは己の領分のごとくひたすら故郷への帰路を辿るだけであった。家族のために、恋人のために、あるいは利益のために生きて帰る。常に危険と隣り合わせである船旅において帰る場所が目前へ迫ったことは、最後まで気を引き締めなければならない緊張感とともに甘美な油断をもたらすものでもあった。
突然、船が震える。
天上から響く澄んだ鐘の音とともに、商船が、海が、空気が、大地のすべてが確かに震えたのだ。まるで波打つ調べに応えているかのように。
マラノに遅れて船内へ向かおうとした途端、鐘音を耳にした青年は足元から凍りつくような寒さを覚え全身が粟立った。そしてそれを感じたのは彼だけでなく、周りにいた数人の船員たちも呻き声を上げてその場に固まった。
「彗星だ!」
見張り役の少年が振り絞るように叫ぶ。間髪入れずに船内から何事かと大勢が飛び出してきた。彼らや青年を含めた皆が少年の声を受けてサッと夜空を見上げると、幾重にも連なるオーロラの中央には、キラキラと尾を牽く大きな流れ星が走っていた。
この世のものとは思えぬ光景だった。どこまでも神々しく恐ろしい、打ち鳴らされる音色とともに揺れる七色の織物とそこを切り裂く一筋の光。
甲板に立ち尽くす者たちは皆これが何を意味するのか心得ている。否、実際に一度目にしたことがある年長者と、書物や絵画でしか教わったことのない若者とでは多少見解に食い違いがあるだろうが、少なくとも両者は何が起きたのか瞬時に理解した。
「……古代人、まさかもう一度この目で見られるとは」
青年の近くにいた白髪混じりの船員が漏らすように呟く。
偉大なる神々の魂を身近に感じることができる最も崇高な機会。十数年に一度だけ訪れる古代人の招来。神の揺りかごに包まれて、今まさに産土へ降りたたんとしているのだ。
「ヒエー! まさかと思って出て来たがこりゃ大正解だったぜ」
「マラノ。お前も二度目なのか」
若き商長は遅れてやってきた大男の気配へ振り向きもせず呼びかけた。天を仰いでいた両腕をそのままに、マラノは夜に浮かぶ金髪を見下ろす。
「へぇ、仰るとおりで。坊ちゃ、おっと失礼ロイス様がお生まれになる前だから、もう十八年位ェ昔の話です。あの頃はおれも生意気な若造でしたよ。しかしロイス様。この音、ひょっとすると出処は『あそこ』じゃねえですかい? 星が落ちる方角からしてみても、もしや――」
「言うな」
ピシャリと一喝した青年は、真剣な面持ちで辺りを見回し始める。誰も彼もが目を見張り、大きく口を開けて空を見上げていた。きっと今頃はどこの街を探しても同じ様子の人間で溢れているに違いない。そしてこの船に乗り合わせた者たちと地上で見ている一部の人間たちは気づいたはずだ、と人知れず眉を潜めた。
鳴り止まぬ鐘の音が一体どこの街の神宮で響いているのか。彗星はどこの街に落ちるのか。
「マラノ」
「へぇ」
青年は先ほど彼に命じた指示を取り消した。その代わり、といかつい肩に手を乗せて耳打ちする。新たな命令を受けるなり、相手は思わず声を上げるほど驚いた。
「ええっ? 本気ですかい」
「大声を出すな」
「へ、へぇ。しかし、そううまくいきますかね」
「いくさ。抜かりなくやれよ」
まもなく船はマレ・ポルトガを目指し再び加速する。夜空に映えるオーロラと今まさに燃え尽きようとしている地上の星を前方に見据え、ニンナヴェルの灯台を右の懐に抱きながら迷いなく進んでいく。
青年は船首甲板の片隅に佇み、じっと星の行方を見届けていた。
――父へ最高の土産ができた。
そう心に思う彼の表情は、責任に耐える商長の顔でも喜びが滲む若者のものでもなく、小さな野心を秘めたひとりの男のようだった。
「うまくいかなければ、商人としての才が俺に備わっていないだけさ」
デルバルゾ・マレーアを代表する商人の息子、ロイスは大海原に向かって言い放つ。その言葉をただひとり聞いていた見張り役の少年は、ちらりと盗み見ては首を傾げた後、遠眼鏡越しに港の灯光を見つけ右手を高く掲げた。
はじめまして、天之と申します。今までは電脳世界の片隅で細々と2次創作小説を書いていましたが、このとおり1次小説への門を叩かせていただきました。とにかく脳内に巡っている最終話まで(途中の紆余曲折は否めないにしろ)きちんと書ききることが目標です。どうぞよろしくお願いいたします。
【今回登場した単語】
・ネネイ nenei:月
・ラカリス lacaris:星
・ラカリスナーエ lacarisnaaer:流れ星、彗星(転じて地上に降りて来た古代人が描く光の尾を指す)※lacaris(星)+naaer(落ちる)
・ソーラー solraar:(「鐘を鳴らす人」から転じて)古代人の総称