絶望の湖畔〜湖に沈む希望と、月下の別れ〜
アーネとミルティは、思わず後ずさる。
それでも瞳に宿るのは、絶望の底にあっても消えぬ決意だった。
「アーネ、ミルティ……踏ん張りどころよ! 倒す必要はない。あの湖からなら、別の世界に飛べる。Sword of Victoryで空間を斬り、トライデントで水の流れを断つ! そうすれば、異世界への扉が開かれるはず……バルドル様を、必ず連れて行って!」
フレイヤの声は、自らの命を削ることを厭わない。
自己犠牲の覚悟に満ちた、悲痛な叫びだった。
フレイヤの瞳が深蒼に輝き、水の翼が龍の翼のように形を変えて風を裂く。
水を纏った翼は、まるでフレイヤの命そのものを燃やしているかのように……儚く、揺らめいていた。
「今の私では、これが精一杯。でも、道ぐらいは作ってみせる! 私の子供たちに、これ以上は手を出させない!」
ミステルテインが碧の光を放ち、森が命を得たように動き出す。
木々が……枝が、バロールとスルトを襲う。
鞭のようにしなって翻弄し、鋭い槍のように突き刺さる。
全方位からの、猛攻。
だが、届かない。
炎が、全てを焼き尽くす。
攻撃を仕掛けた木々や枝は触れる前に灰と化し、風に散った。
周囲の木々は激しい炎に包まれ、バロールたちの周りを熱く赤く染めていく。
「さすがはフレイヤじゃ。しかし、木と火では相性最悪じゃよ。火の力の前では、木の力など無力……レーヴァテインの前では、ただの薪じゃったのぅ」
「そうかな? 燃やされることすら見通せない、フレイヤ様だと思うのか? 木の力は、穏やかな柔の力。心を癒し、その存在をも隠す!」
舞い散る炎が、アーネの炎の翼を隠す。
烈火の翼へと変形したその翼は、まるでアーネの心の最後の灯火だった。
だからこそ、儚くも力強く輝き出す。
「燃えろ、俺の魂! バロールを討つ、刃になれ!」
アーネの咆哮は、自らの犠牲すら厭わない気迫を吐き出すものだった。
Sword of Victoryの炎が周囲の炎に溶け込み、攻撃の軌跡を掴ませない。
「うおおぉぉぉ!」
閃光のような一撃が、バロールの右目の横を切り裂いた。
「ぐはぁぁぁぁ!」
バロールの絶叫が森を震わせ、闇を切り裂く。
その声には、初めての動揺が滲んでいた。
「今よ! アーネ、ミルティ、走って!」
ミステルテインに導かれた木々が、バロールの言う通り薪となって炎に身を投じる。
自ら炎の中に入り、その身を焼いていく。
炎が、アーネとミルティの姿を隠していった。
ミルティは咄嗟にトライデントで水の膜を張り、アーネを炎から守る。
「アーネ、フレイヤ様が!」
炎の先に、フレイヤがいる。
バロールとスルト……ただ一人で、二人の強敵の矢面に立っているのだ。
「心配だが……今は、やることをやる! ミルティ、バルドル様を救うこと……それが、最優先事項だ!」
炎の嵐の中、二人は湖を目指して走り始める。
「やってくれたのぅ! もはや、手加減はせん! 碧よ、戻れ! 奴らの力を半減させるんじゃ!」
バロールの三つの魔眼が、禍々しく輝いた。
右の魔眼は碧に、左の魔眼は蒼に……そして、額の魔眼は涅に。
その力が、Sword of Victoryとトライデントに注がれる。
アーネは、剣の力が割れる感覚を右手に直感した。
同時に、凝縮した熱さに気付く。
周囲を燃やし尽くす、白き炎……
「ミルティ、Sword of Victoryがもたない! だが、このままじゃフレイヤ様が!」
「アーネ、分かってるわ! トライデントも、力が半減しそう! でも、バロールは力を使った直後で動けない! スルトは、フレイヤ様を狙っていて隙がある! 反撃するなら……フレイヤ様を救うには、今しかないわ!」
アーネは頷き、魂を燃やし尽くす覚悟を決める。
「俺が……仕掛ける! スルトを斬ったら、俺を抱えて湖まで飛んでくれ! 神剣の力が半減したら、湖を割る力が出なくなる可能性がある! 頼む、ミルティ。俺の全てを……託す!」
「分かったわ! でも……力、少しは残しておいてよ! 全ての記憶を失ったら……私だけの力じゃ、湖は割れないんだからね!」
アーネは静かに頷き、瞳に最後の力を込める。
その瞳は、赤く……紅く。
炎の翼が鳳凰の翼として具現化し、アーネの命そのものが燃えているかのような力を宿す。
「鳳凰……転身!」
その叫びと共に、アーネの姿が消える。
一瞬の瞬き……その刹那で、アーネはスルトの背後に回り込んでいた。
スルトがフレイヤ目掛けてレーヴァテインを振り下ろす直前、Sword of Victoryの刃が届く。
スルトの背を切り裂き、その力を弱めた。
レーヴァテインから放たれた白い閃光にフレイヤの華奢な身体は吹き飛ばされるが、炎には焼かれていない。
「くっ……ミルティ、頼む」
アーネの声は、まるで魂が砕けた後のように弱々しく響く。
一瞬の攻撃……一瞬の鳳凰転身で、アーネの心は蝕まれ始めていた。
感情が、心が……闇の中に、引きずり込まれるような感覚。
まるで、自らの存在が消えゆくような恐怖。
それでも、まだ終われない。
「アーネ、行くわよ。もう少し……頑張って!」
アーネを抱えたミルティは、水の翼を開く。
「私も、使命を果たす! 最後の力……私たちの希望を繋いで! お願い、トライデント!」
二人の叫び声に呼応するように、Sword of Victoryとトライデントが最後の光を放つ。
湖が、神聖な輝きに照らされる。
空間が割れ、その裂け目に二人は吸い込まれていく……
炎の向こうで二人の姿を見送ったフレイヤは、一人立ち上がっていた。
アーネとミルティが消えた湖の水面を、フレイヤは静かに見つめる。
「ありがとう、アーネ。最後の意地、見せてもらったわ。バルドル様を、頼んだわよ」
ミステルテインを握る手が、わずかに震える。
残った力は、もうほとんどない。
「逃がしてしもうたか。しかし、お前は残った。まだ、最悪ではないのぅ」
バロールの声が、冷たく降り注ぐ。
三つの魔眼が、すべてフレイヤを捉えた。
「フレイヤ……さすがのお前も、もう限界じゃろぅ? 木の精霊の力も、魔眼の前では無力じゃ」
フレイヤは蒼の瞳を上げ、静かに笑う。
「限界? そうかもしれないわね。でも、私はまだ立っている。あなたたちに、渡せる物はない。ミステルテインも、私の心も!」
ミステルテインが最後の光を放ち、周囲の木々が再び動き出す。
しかしバロールの魔眼が輝き、木々を一瞬で焼き尽くす。
「無駄じゃ」
巨腕が振り下ろされ、フレイヤの細い身体が地面に叩きつけられた。
ミステルテインが手から滑り落ち、森の土に沈む。
「ぐっ……!」
フレイヤは血を吐きながらも、起き上がろうとする。
水の翼が、かすかに震える。
「まだ……終わらないわ。私の子供たちが、生きている限り……まだ、希望は繋がっている!」
バロールが、額の魔眼を開く。
涅色の光がフレイヤを貫き、その身体から力が抜け落ちた。
「子供、か。バルドルの転生と、七国の騎士……興味深いのぅ」
「バロール殿……そやつの首、我に貰えぬか? 先の一撃の恨み、そやつで晴らさせてもらいたい」
スルトがレーヴァテインを構え、フレイヤの首筋に白き炎を近づける。
「気持ちは、分かるがの……じゃが、女神フレイヤは生け捕りにしておきたいんでのぅ。フレイヤが生きておると知れば、連中も動かざるを得まいからのぅ……それに、他の利用価値もあるでのぅ」
バロールの巨手が、フレイヤの細い首を掴む。
「うっ……くっ」
フレイヤは抵抗しようとしたが、魔眼の呪縛が全身を縛りつける。
「バルドル様を……守って。アーネ、ミルティ……お願いね」
最後に漏らした言葉は、森の風に溶けるように消えた。
バロールはフレイヤを抱きかかえ、闇の中へ歩き出す。
スルトがレーヴァテインを肩に担ぎ、無言で従う。
湖の水面は、すでに静まり返っていた。
ただ月光だけが、誰もいなくなった森を照らしている。
フレイヤの気持ちと、人類の希望を照らすように……
湖に飛び込んだ、次の瞬間……アーネとミルティは、浜辺に倒れていた。
二振りの剣と……二つに割れた剣と、一本の槍。
「おーい、誰か倒れてるぞ!」
空襲を逃れた者が、浜辺で倒れている二人を見つけた。
「疎開するのに、連れていくのかい? 日本の敵かもしれないよ?」
「異人さんみたいだがな……しかし、こんなボロボロの身体の人間をほっとくわけにもいくまい? それに、この剣と槍……今時、こんな武器で戦争するかねぇ?」
鷹津家と神藤家の人々は、アーネとミルティを介抱しながら疎開先に急いだ。
目が覚めたミルティは、空襲の炎から二つの家族を守り続ける。
無事に疎開先に着いたアーネとミルティは、そこで生活することになった。
村人達に、守神と慕われながら……
そしてフレイヤがバロールに囚われた事実は、神主であるレヴォレット・エルフフォーシュによってミルティに伝えられる。
それは、ようやく疎開先での生活が慣れてきた頃であった。
そして、八十年ほどの時が流れる……
アーネの神剣は、鷹津家へ……
ミルティの神器は、神藤神社へ……
それぞれ希望が受け継がれる日を、ひっそりと待つ事になった。
そして七国の騎士の物語は終わり、新たな物語が産声を上げる。
繋げた希望が、動き出す時がきたのだった……




