第1着氷 氷上の女王
氷上の女王――橋本怜奈。
その名を知らないスケート選手は、当時ほとんどいなかった。
七歳でスケートを始めた彼女は、最初から特別だったわけではない。むしろ、始めたきっかけは些細なものだ。近所のショッピングモールに設営された期間限定リンク。転びながらも必死に立ち上がり、氷の上を進もうとする幼い少女の姿に、コーチが声をかけたのが始まりだった。
「この子、エッジの感覚がいい」
それが、怜奈の運命を決定づけた一言だった。
努力は当然のように重ねた。朝は誰よりも早くリンクに入り、学校が終われば再び氷に立つ。リンクの冷たい空気、ブレードが氷を削る音、ジャンプが決まった瞬間の浮遊感。それらはいつしか彼女にとって日常となり、呼吸と同じくらい自然なものになっていた。
十二歳でバッジテスト七級に合格。周囲がざわついたのを覚えている。同年代の選手よりも一歩も二歩も先を行く進度だった。そして出場する大会では、すべて金メダルを獲得。表彰台の一番高い場所に立つことが、当たり前になっていった。
ノービスA優勝の2ヶ月後、ある大会で彼女は四回転ルッツを成功させる。
小学生どころか女子ではまだ前例の少ない高難度ジャンプ。踏み切りの瞬間、会場の空気が張り詰めた。着氷と同時に歓声が爆発する。続くスピンはすべてレベル4。完成度の高いプログラムに、観客は総立ちになった。
その日から、彼女はこう呼ばれるようになった。
“氷上の女王”
翌年、わずか十三歳で強化選手Aに選出される。それは日本スケート連盟の正式な強化指定。未来のエース候補という証だった。
2019年全日本フィギュアスケートジュニア選手権。
ショートプログラム、完璧な滑り出し。ジャンプ構成は攻めた内容だったが、すべて成功。フリースケーティングでは四回転ルッツを再び着氷し、会場を震わせた。最終得点は230.23点。当時の女子ジュニア最高得点。
得点を見た瞬間、母の手を強く握ったのを覚えている。電光掲示板に映る自分の名前。表彰台の中央に立ち、金メダルを首にかけられた。
フラッシュが眩しかった。
だが――。
その栄光の翌年、橋本怜奈は突然、スケート界から姿を消した。
理由は公表されないまま。
怪我説、スランプ説、海外移籍説。根拠のない噂がネットを駆け巡った。だが本人は、どの憶測にも答えなかった。
⸻
「ママ、お父さんは?」
幼い私は、スケート靴を履いたまま母の元へ滑っていった。
リンクサイド。母はスマートフォンを握りしめ、どこか遠くを見るような目をしていた。私の問いかけに、一瞬だけ沈黙が落ちる。そのわずかな間に、胸の奥がざわついたのを覚えている。
「……お仕事、忙しいのよ」
優しく笑った母の声は、少しだけ震えていた。
それから間もなく、父は帰ってこなくなった。
突然の蒸発。
数週間後に発覚したのは、多額の借金だった。投資の失敗、保証人、連帯責任。聞き慣れない言葉が飛び交う。私はまだ中学生になったばかりだった。
母はすべてを背負った。
昼はパート、夜は事務作業のアルバイト。睡眠時間を削りながら、返済を続けた。それでも、私のスケート費用だけは削らなかった。
「あなたは滑りなさい」
それが母の口癖だった。
強化選手Aに選ばれた日、私は走って家に帰った。
「お母さん! 強化選手Aになった!」
冷蔵庫から取り出された小さなショートケーキ。二人きりの祝い。甘さの中に、どこか切なさが混じっていた気がする。
全日本が終われば、海外遠征が控えていた。だが現実は残酷だった。
ある日、母は倒れた。
過労だった。
病室の白い天井を見上げながら、私は初めて理解した。自分の夢が、母の犠牲の上に成り立っていることを。
「あなたが辛い思いをする必要はないのよ」
点滴の管をつけたまま、母は微笑んだ。
私は首を振った。
そして決めた。
全日本フィギュアスケート選手権を最後に、競技を辞めると。
リンクに立つ最後の日。氷の冷たさを足裏に刻み込むように滑った。歓声も拍手も、もう届かない場所に置いていく覚悟で。
それから二年。
橋本怜奈、十六歳。
今はただの高校生だ。
目覚まし時計の音で目を覚まし、制服に袖を通す。氷の匂いではなく、教室の空気の中で日常を過ごしている。
「久々に昔の夢見ちゃったな……」
夢の中の私は、まだ跳んでいた。
⸻
「レイナー! ごめん、ノート見せて!」
現実は騒がしい。
目の前で手を合わせているのはクラスメイトの真美だ。
「嫌だよー。毎週末見せてるじゃん」
机の中を探り、チョコボールを取り出す。口に放り込むと、甘さが広がった。
「勉強には糖分が大切〜」
すると真美が、得意げにあるお菓子を差し出す。
期間限定、しかも抽選販売レベルの希少品。
「これあげるから、ノート見せて」
葛藤の末、私は敗北した。
(私って本当チョロい……)
そのとき、教室のドアが開いた。
担任が言う。
「訳あって今日まで授業に出られなかった生徒が来る。仲良くしてくれ」
ざわめき。
そして入ってきたのは、長身の男子だった。均整の取れた体躯。整った顔立ち。氷のように澄んだ雰囲気。
女子たちの視線が一斉に集まる。
『あの人、テレビで見たことある。スケート選手だよ』
背筋が凍る。
「山本氷菓です。スケートやってます。この間まで世界大会で海外にいました」
さらりと言う。みんな顔が「!?」という感じだ。
そこでイケメンと私は目が合った。その後の秒の沈黙。口を開けたかと思えば氷菓は怜奈に指を指す。
「あ、思い出した。氷上の女王」
教室の空気が止まる。
「見間違いでは?」
私は即答した。
「……そっかぁ」
確信はないらしい。
「空いてる席は、、あ、怜奈さんの席の隣だね」
担任がさらりと言う。神は私を見捨てたみたいだ。
「よろしくね」と氷菓は怜奈に向かって微笑んだ。
終わった、と思った。
⸻
昼休み。
私は氷菓を屋上へ連れ出した。
老朽化した柵。強い風。逃げ場のない距離で怜奈は氷菓に足ドンをした。
「私、スケート辞めたんです」
そんな事を氷菓に言うと氷菓は真顔で怜奈を見つめていた。
「僕はあなたのスケートがまた見たい」
まっすぐな瞳。
「あんた、四回転ルッツの天才だろ? 俺に教えてくれ」
「……は?」
「教えてくれるなら、黙ってやる」
脅し。こいつ私に交渉しに来ているのか?
一ヶ月後に大会。
四回転フリップは跳べるという。
しかしフリップとルッツはまた別物。
ルッツが難しいのは、跳ぶ瞬間じゃない。
踏み切る「前」だ。
リンクの端から長く助走を取る。スピードを落とさず、しかし焦らず。身体は進行方向へ流れているのに、エッジはあえて外側へ傾ける。後ろ向きのアウトエッジ。わずかでも内側に倒れれば、それはルッツではなくなる。
ほんの数ミリの角度。
その違いが、回転の質をすべて左右する。
左足の外側エッジに体重を乗せたまま、右足のトウを氷に突き刺す。トウの角度が甘ければ、軸はぶれる。深く刺しすぎれば減速する。刺した瞬間、身体は逆方向へねじれる。
進行方向と回転方向が反対。
その“逆らい”が、ルッツを難しくしている。
氷に抗いながら跳ぶ。
助走の勢いを殺さず、外エッジを保ち、上体を開きすぎず、しかし回転には入らなければならない。ほんの一瞬でも躊躇すれば、エッジは内側に倒れ、フリップになってしまう。
空中に上がった後も安心はできない。
ルッツは踏み切りの癖がそのまま軸の歪みに繋がる。わずかな傾きが、四回転ともなれば致命的だ。軸が外へ流れれば、着氷は乱れる。内側へ倒れれば転倒する。
それでも跳ぶ。
怖いからこそ、難しいからこそ、挑む価値がある。
特に四回転ルッツ。
高さと幅、そして回転速度。そのすべてを完璧に噛み合わせなければ成立しない。踏み切りの瞬間、身体は一瞬だけ宙に放り出される。氷との接点が消える、あの無音の時間。
失敗すれば叩きつけられる。
成功すれば、会場が揺れる。
ルッツは、氷に逆らうジャンプだ。
無理だ、と理性は告げる。
だが心の奥がざわつく。
氷の匂い。ブレードの音。
「……条件がある」
言ってしまった。
氷菓の瞳が輝く。
「私に今の山本くんの実力を見せて」
その瞬間、私胸の奥で何かが動き出した。
踏み切り直前の、あの一瞬の無重力。
氷を蹴る感触。
空中で身体が回転していく感覚。
着氷の刃が氷を噛む、あの鋭い音。
ドクン。
心臓が一度、大きく脈打った。
リンクの冷気。
早朝の白い息。
誰もいない静まり返った空間で、自分のブレードの音だけが響く世界。
ドクン、ドクン。
鼓動が速くなる。
氷菓の瞳は、あの頃の自分と同じ色をしている。
高難度に挑むときの、あの揺るぎない光。
胸の奥が熱くなる。
跳びたいわけじゃない。
戻りたいわけでもない。
それなのに。
身体のどこかが覚えている。
氷を蹴る瞬間の重心の移動。
踏み切りの角度。
空中で軸を締める感覚。
まるで、心臓がリンクに立っているみたいだった。
――やめたはずなのに。
止めたはずなのに。
どうして、まだこんなに鳴るの。
胸の鼓動は、まるでスタートの合図を待つカウントダウンのように、速く、強く、抗えないリズムで鳴り続けていた。
氷菓に渡された紙には、横浜のリンク名。
氷の世界への、招待状。
⸻
私は、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。
けれど同時に。
止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き出した気がしていた。




