Ⅴ 開帳
全ての草原を夢見た者たちへ
二十世紀初頭、世界は巨大な変動の渦の中にあった。
かつてチンギス・ハーンが大地に撒いた支配の種は、各地で巨大な帝国へと成長し、そして今、一斉に枯死の時を迎えようとしていた。
1917年、ペトログラード。
遼巌は、銃声が鳴り響く冬宮の回廊を、一冊の記録帖を抱えて走っていた。
ロシア帝国は、かつてジョチ・ウルスの支配から「草原の統治法」を継承した、北の巨大な継承国家であった。
遼巌の先祖は、その冷徹な権力の行使を記録し、時に助言する叙述者としてツァーリに仕えてきた。
だが、二頭の鷲の紋章が引き裂かれる今、遼巌はそこにモンゴルの影が完全に消える音を聞いた。
1924年、北京。
遼景は、神武門を去る溥儀の背中を見つめていた。
清朝は、元朝の正統を継ぎ、全モンゴルのハーンとしてジュンガルを平定した草原の正統であった。
ジュンガルの絶滅を見届け、清の絶頂を記してきた遼家にとって、この静かな退位こそが数世紀にわたる相克の終止符であった。
そして1858年、デリー。
一足先に崩壊を迎えていたのは、ムガル帝国であった。
遼弘は、最後の皇帝、バハードゥル・シャー二世がイギリス軍に捕らえられる瞬間まで傍らにいた。
「ムガル」とはすなわち「モンゴル」を意味する。
チンギス・ハーンとティムールの血を引く誇り高き帝国も、インドの乾いた砂の中に埋もれようとしていた。
彼ら三人がそれぞれの大陸で見たものは、国家の滅亡ではない。モンゴルという巨大な理が、近代という濁流に呑み込まれ、霧散していく姿であった。
1926年、春。京都、御所にほど近い、深い緑に囲まれた古い私邸。
そこには、一族の本家を守り続けてきた遼宗が、静かに茶を点てていた。
一族の始祖・遼舜が元寇の折に、敵国の情報を日本に伝え、武威を止めるために来日してから数百年。
遼家は京都の地で、一度もその筆を折ることなく、大陸に散った血脈の帰還を待つ座標であり続けてきた。
「宗さん、戻りました」
門を叩いたのは、ロシアの革命を逃れ、ハルビンを経て辿り着いた遼巌であった。
続いて、北京の混乱を抜けた遼景、そしてムガルの血統の最期を密かに運び出した遼弘の末裔たち。
三人は、それぞれの帝国の終焉で書き留めた、血と涙が染み込んだ記録帖を机に並べた。
「我ら一族が仕えたのは、すべてモンゴルの系譜であった」
遼宗は、鎌倉時代から本家に伝わる遼舜の自筆本を広げ、三人の記録と対照させた。
「一方は北の凍土で冬の雷となり、一方は中原で龍となり、一方はインドの空となった。だが、その根にあるのは、かつての草原の風だ」
彼らは数年をかけ、八百二十年にわたる一族の記録を統合する作業に入った。
ジュンガルの悲劇的な絶滅、ムガルの幻想的な栄華、ロシアの冷徹な専制、清の盛大な栄華。
それらは本来、一つの物語であったのだ。編纂された史書は全十二巻、名は「蒙古後継帝紀」。
編纂を終えた後、遼宗は一族に告げた。
「この書は、再びこの国が、あるいは陛下が、真の理を必要とされる時まで、蔵の奥に秘す。我らはただ、京都の静寂の一部として生きるのだ」
そして現代。2026年。
チンギス・ハーンがモンゴル帝国を建国してから、八百二十年という節目の年が巡ってきた。
京都御所、その最も奥まった静謐な間。
現在の本家当主・*遼和は、陛下の御前に召し出されていた。
「遼の家に伝わる、あの大陸の記憶。この節目に、私に見せてはくれぬか」
陛下の御声は穏やかでありながら、歴史の重みを一手に引き受けるような力強さがあった。
遼和は、桐の箱に収められた書を捧げ持った。
開帳の瞬間、部屋の空気が一変した。
遼和が慎重に頁をめくれば、そこに記された文字が、まるで生きているかのように躍動し始めた。
通泊の戦場で咆哮を上げたジュンガル戦士の息遣い、デリーの宮廷で奏でられた憂いある調べ、そしてシベリアを敗走する騎士たちの鉄の触れ合う音。
陛下は、一頁ずつ、長い時間をかけてその言葉を追われた。
特に、アムルサナの裏切りと孤独な死、そしてそれを見守った遼鑠の記録に、陛下は深く溜息をつかれた。
「……これほどまでに激しく、これほどまでに哀しい戦いが、海の向こうでは繰り広げられていたのだな。遼一族は、それをすべて見ていたのか」
「はい」
遼和は頭を垂れ、静かに応えた。
「一族は、帝国の栄華を称えるためではなく、その散り際を記すために存在いたしました。いかにして国は滅び、いかにして人はその誇りを守り抜くのか。陛下、この八百二十年の記録は、決して過去のものではございません。これからの八百年を歩む我らへの、草原からの遺言でございます」
陛下は最後の一頁を読み終え、静かに本を閉じられた。
「遼和よ。この書は、この国が守り抜くべき宝である。草原の風が、ようやく京都の地で安息を得たのだな」
窓の外、京都の街には柔らかな陽光が降り注いでいた。
かつてモンゴルが目指し、遼一族が駆け抜けた果てしない地平。
そのすべての記憶は、いま、最果ての島国の御所という聖域で、一冊の書として結実し、永遠の静寂の中へと昇華されていったのである。
遼和は御所を辞し、帰り道の鴨川のほとりに立った。
川面を渡る風が、ふと、草原の匂いを含んでいるように感じられた。
遼舜が来日して以来、数えきれないほどの一族が、この風の中に草原の面影を探したことだろう。
草原の記憶。
それは、遠い過去の話ではない。
いま、遼和の手の中に残る筆の感覚。
その一筆一筆が、未来の誰かにとっての「理」となることを信じ、遼一族の叙述は、形を変えて続いていく。
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