Ⅳ 灰燼
1755年、初夏。イリの草原。
ダワチが捕らえられ、清軍の勝利が確定した夜。
清朝の将軍アグイが開いた祝宴の席で、遼鑠はアムルサナの横顔を凝視していた。
アムルサナの目前には、乾隆帝から下賜された華麗な官服が置かれていた。
だが、それは彼が望んだハーンの毛皮ではなく、清朝の官僚であることを示す首輪に他ならなかった。
アムルサナは、勝利の酒を一口も飲まなかった。
「鑠、聞いたか。北京の皇帝は、この草原を四つに分かつと決めたそうだ」
彼の声は、深夜の風のように冷えていた。
清朝は、ジュンガルを一つの勢力として残すつもりなど最初からなかった。アムルサナが望んだ再統一の夢を、龍の爪が粉々に砕いたのだ。
遼鑠は、その夜の空気を獣皮に刻む。
「第一次平定、成る。だが、アムルサナの瞳にあるのは勝者の歓喜ではない。自ら龍を招き入れ、同胞の血で地平を染め、その報酬が四分の一の支配であったことへの、深き後悔と怒りである。彼は気づいたのだ。自分は王ではなく、ただの掃除人に過ぎなかったことに」
1755年、九月。
清軍の主力が北京への凱旋のために草原を離れ、監視の目が緩んだ瞬間、アムルサナは動いた。
「俺は、龍の犬として死ぬつもりはない」
アムルサナの合図で、かつて清軍に降ったジュンガル兵たちが一斉に蜂起した。
清朝の守備隊が眠る兵舎を火が包み、不意を突かれた清の将校たちが次々と血の海に沈む。
遼鑠は、燃え盛るイリの空の下、逃げ惑う清兵を追い詰めるアムルサナを追った。
アムルサナの刀は、数ヶ月前まで背中を合わせていた清兵を容赦なく切り裂く。
それは、自らの裏切りを雪ごうとするかのような、狂気に満ちた戦いぶりだった。
「清の将官、班第自害。守備隊、全滅。ジュンガルの狼は、首輪を食い千切った」
だが、その一撃が、龍の逆鱗に触れることを、遼鑠もアムルサナも理解していた。
報告を受けた北京の紫禁城。乾隆帝の激昂は、清朝の歴史の中でも異質なものであった。
遼隠は、皇帝が発した一通の極秘指令書を写しながら、その文字の鋭さに指が震えた。
「ジュンガルは、教化の及ばぬ獣である。一度は許したが、もはやその必要はない。反逆に関わった者だけでなく、その種族、その根を、ことごとく絶やせ」
これは戦争ではなく、物理的な消去の命令であった。
遼隠は、その筆で帝国の変貌を記す。
「皇帝の慈悲は、一晩にして氷の刃へと変わった。清朝の軍勢には、もはや土地を奪う命令は下されず。ただ、ジュンガルという名を持つ者を、この世から消し去ることのみを目的とする行軍が始まった」
1757年。清朝の第二次遠征軍が、地平線を埋め尽くす。
今度は、かつてのアムルサナのような裏切り者の協力者さえ必要としなかった。
清軍はただ、見つけた集落を焼き、家畜を奪い、逃げ惑う民を追い詰めた。
遼鑠は、アムルサナとともに天山山脈の荒野を彷徨っていた。
「鑠、空を見ろ。あれは雲ではない。俺たちの故郷が燃えている煙だ」
背後からは、容赦ない清の追撃部隊。そして前方からは、目に見えぬ天然痘という病魔が忍び寄っていた。
清軍の侵攻ルートに沿って、ジュンガルの民は次々と高熱にうなされ、肌を腐らせて倒れていった。免疫を持たぬ彼らにとって、それは清軍の銃弾よりも恐ろしい死神だった。
「清軍、東より迫る。病、内より蝕む。ジュンガルの民、十人がうち八人までが土に還る」
遼鑠の記録帖は、もはや戦記ではなく、一つの民族の葬送録へと変わっていった。
一七五七年。万策尽きたアムルサナは、わずかな従者とともに、北のロシア領へと亡命した。
かつて中央アジアを震え上がらせた英雄は、もはや刀を振るう力もなく、ただの病人として国境を越えた。
数ヶ月後、トボリスクの冷たい大地で、アムルサナは天然痘によりその波乱の生涯を閉じる。
遼鑠は、静まり返ったイリの草原に、一人残された。
かつて数万の馬が駆け、賑やかな市場があった場所には、主を失った家畜の骨と、風に舞うテントの残骸が転がっているだけだった。
清の軍勢が、新たな境界線を引くために、無人の大地を踏みしめている。
遼鑠は、最後の一頁にこう記した。
「準葛爾、ここに絶ゆ。
清朝は勝った。だが、その龍が手に入れたのは、かつての狼たちが誇った豊かな草原ではなく、命の気配を失った広大な死者の国である。これよりこの地は新疆と呼ばれるようだ。だが、その土の下には、書き尽くせぬ怨嗟と、消し去られた歴史が埋まっていることを、私は忘れない」
遠くで響く清朝の勝ち鬨は、あまりにも虚しく、乾いた草原の風に掻き消されていった。
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